4.解離性障害と自己表現
解離性障害の治療過程は、それまで日の当たる場所に出られずにいた自己の部分を見つけ出し、それを表現しても安全に生きていけるように内部を立て直すプロセスでもあります。そしてそれはもちろん、十分に安全で理解ある環境が必要です。治療の進展に伴い様々な理由から抑制されてきた自己表現の欲求が、具体的な形を取り始めることもあるものです。多くの患者さんは演劇や演奏活動、絵画・小説・イラスト・マンガなどの創作活動に親しんでいます。それらは自己の存在を確認するのに役立つばかりではなく、生きるための基盤となるからです。
これらの表現活動を行うことにアンビバレンスを体験し、苦しむ人もいます。他者からの評価を求める気もちもある一方では、人からの評価への過度な恐れもまた抱いており、納得のいく表現方法を求めて悩むこともあります。患者さんにとって表現活動は生きる上での大きな支えとだけではなく、彼らが潜在的に備えている能力を発揮する場にもなりえます。治療者が心理的な支援を通して患者の自己表現に貢献することができるのであれば、そうするのが望ましいのは言うまでもないことです。
ただし患者さんの自己表現は、やはり各交代人格ごとに固有なものという形を取り続けるのが一般的です。たとえば歌のうまい人格は、やはりほかの人格には真似のできない技量を持っています。英語が流暢な人格も居れば、語学がいつまでたっても苦手な人格もいるものです。その意味では患者さんの自己表現には、人格ごとの時間の割り当て、譲り合い、協力といったことが欠かせない面もあります。
3. 解離への偏見に立ち向かう―詐病や演技との鑑別をめぐって
しかし健康な人が何らかの目的のため人格交代の演技をし続けるのはそう簡単ではありません。明らかな詐病の場合は、専門家の前ではそれは早々に露呈します。
自分の知らない間に自分が行動してしまうという事実は本人にとってはかなり奇妙な出来事ですし、場合によっては著しい違和感や恐怖を持つこともあるでしょう。人格交代のようなことが起きているらしいということに気づいた当初は、自身でもそれを認めることができず、まして他者に打ち明けるのはかなりの勇気がいるものです。それが診断名を持つ障害であるということを専門家から告げられたとしても実感を持てないという方は少なくないでしょう。
解離性障害という診断を受け入れられないもう一つの理由は、それを自分の気持ちの弱さからくるものではないか?」ということに後ろめたさを持つ傾向があるからです。また病状の深刻さを認めたくないために、「これは病気じゃないんだ。そう思い込んでるだけだ」と考えるのかもしれません。またいったん病識をもった後にも「やはり自分は普通なのでは」と思い直し、治療の必要性を見失いかけたりします。解離性障害を疑う患者さんに出会う中では、あからさまな演技や詐病を見出すことは極めて例外的であり、むしろその症状の重大さに気づかないまま自分を責め続けている人たちに巡り合うほうが圧倒的に多いのです。
治療者が患者さんを信じることができず騙されているのではないかと思う場合、治療者側の否認が働いていることは言うまでもありません。一人の心の中に複数の人格が存在するという事が私たちの常識を超えていることはその一つの原因でしょう。しかし虐待を始めとする深刻なトラウマを見聞きすると、我々はその凄惨さに圧倒され「できればなかったことにしたい」と感じ、無意識にそこから目を背けようとするものです。患者さんの抱く不信感や無力感に揺さぶられると、治療者もまた同じ思いに襲われ、自分の果たすべき役割を見失いかけることがあります。患者さんの抱く絶望に寄り添うことが辛いあまりに、我々治療者が彼らの苦しみから目を背けてはいないか、自らに問いかけてみる必要があるでしょう。