2019年3月8日金曜日

解離の心理療法 推敲 28, 複雑系 9


自責感に悩むワコさん(30代女性)

(中略)

彼女の場合、成長とともに父への憤りと嫌悪感が強くなる一方で、父の優しさを求める気持ちが自分の中にあったことに気づき、自己嫌悪と罪悪感を抱いていることが明らかになりました。


複雑系 9

だいぶ間があいたので書き直しという感じだ。


この件についてはあるエッセイストが描いていたことが切っ掛けでした(実は田口ランディさん。20年くらい前)。彼女は小説を読み終わった時、何もかもわからなくなってしまうのがいい小説なのだ書いていました。読み終わった時に空中に放り出されてしまい、彷徨っているような感覚。それまで立っていた地面が消えてしまった感覚。このことで同時に思い出すのが、土居先生が私に時々下さったコメントでした。学会などで発表をすると、土居先生が聞いていて一言何かおっしゃって下さることがありました。その一言はかなり私の中で脚色されてしまっていますが、だいたいこんな内容でした。「結論として、Aだ、ないしはBだと決まってしまうのはいい発表ではない。いい発表は結局はAでもBでもありうる、とかどちらでもない、という発表だ」あるいは「今日の君の発表は決めつけていた。」「今日のは決めつけなかったからよかった」というものです。
私はこの話が自分の体験の何かに通じていると思いました。
私は心を扱う仕事をしているわけですが、それに関する理論に感動するという事は本当に少ないという気がします。あることが断定されていればいるほど、「そうなんだ!」といっときはワクワクしても、すぐに例外が見つかってしまい、そのそもそもそれに対して感動する理屈が消失してしまうという事が起きます。それに比べると生きている人間の振る舞いや言動にははるかに感動します。それはあることを断定する代わりに、「こんなことも起きるんだ」という現実に直面させてくれるからです。この両者の違いは決定的なものです。たとえばお酒が飲めず、口に無理やり含んでもおいしいと思ったことはありません。だから「この酒はうまい」という提言はおそらく私には何の感動も与えてくれません。しかし目の前で誰かが、私には美味しいと思えない酒を一口飲んで、「ああおいしい!」といったとしますと、私はそれに感動します。それは一人の人間の体験が、私の体験とは全く違った感動を与えるという現実を見せてくれるからです。その結果として私にわかったことは、「人の味覚ってわからない」という事です。でもそれは味覚という体験の持つ途方もない複雑さを暗示させてくれることからくる感動でもあります。そしてそれがある種の人生体験を経て変わって行き、深みも増していくという事です。ああおいしい、と私の前でおっしゃるのは、●●先生のことを言っているのですが、その先生だってさまざまなお酒を飲んでからまた同じお酒を飲んだ時には、おそらく別の感動を与えるでしょう。これがまた面白い。
 さて私の感動は結局は脳の話に行ってしまうのですが、これはある程度必然といえるのではないでしょうか。ある種の知覚に意味を与えるのは脳ですが、これが途方もないほどに広大なシステムで、それが豊かに自由闊達に活動をしているほど、人の体験は豊かで、かつ予想もしなかった方向にも動いて行きます。私たちの体験のそのような性質が人の「わからなさ」を呼ぶのです。
ここで少しおかしな言い方をすることを許していただきたいのですが、実はその分からなさは豊かさを含み、その意味では「フラクタル的な」分からなさ、なのです。ナンじゃこりゃ、ですね。