2018年11月11日日曜日

サイコパス推敲 ②

(赤い部分が鈎状束)
この様に考えると、サイコパスは一種の脳機能の低下に由来するのか、新たな機能を獲得しているのかが難しい問題になってくる。ある研究ではサイコパスにおいては鈎状束 uncinate fasciculusという神経繊維の束が十分に発達していないという。これは前頭前野(意識、道徳心その他の座)と扁桃核(感情の座)を結ぶ経路であるが、それは道徳的な判断が感情的な反応を引き起こす力の低さを表しているという。
これに関してダットンは一つの興味深い研究を紹介する。一般の人々と、扁桃核、眼窩前頭前野、前島皮質などに障害がある人にギャンブル・ゲームをやってもらったという。すると脳に異常があり、リスクを省みない人々の方がより勝負強かったという。脳に障害を持った人々は事実上サイコパスの人たちの脳機能と同じ問題を持っているが、その方が却って勝てたという。余計な不安を持たないことが、自分の本来持つポテンシャルを伸ばす可能性を発揮できるということらしい。
この一つの証左として、最近ではサイコパスは人の気持ちを読む力が正常人よりも高いことを示していたという。具体的には苦しみを示している他人を見て、彼らの扁桃核はあまり興奮しないが、その代わり背外側前頭前野の活動が増している。(すぐれた「冷たい共感」と、低下した「熱い共感」)ここは他者の情緒を認識する部分であるという。他人の痛みを感じる力は損なわれていても知る力は選りすぐれていることがサイコパスを特徴付けているという。これに関してDutton は面白い事実を示す。人が腕を切って血を流している映像を見たときのサイコパスの脳の働きは、経験ある外科や鍼灸師の脳の活動に似ているという。痛みを特に感じず、むしろ冷静さや観察力に関与する前頭葉の活動が高まっていた。つまりそれらのエキスパートがいたる脳の状態に、サイコパスたちはすでに至っているというのだ。
これとの関連で、最近問題になっているのは、聖人とサイコパスの関係性である。この両者は意外な共通点を有する。それは感情に揺らぐとがない、いつも冷静なところである。ここで言う聖人には熟練した外科医や禅の高僧なども含まれるであろう。彼らが言うことは心を今、現在につなぎとめよ、そうすれが不安は襲ってこない、というのだ。確かにそうかもしれない。不安とは、将来のことを考えるからだ。このままでいいのか、締め切りまでに原稿はかけているのか、将来カミサンに逃げられたらどうしよう、などである。また過去を思い出すことで慙愧の念が押し寄せてくる。ということは現在に焦点を当てよ、とは心の健康にかなり貢献する可能性がある。しかし重要なのは、それは否認を伴っているかもしれないということでもある。そしてサイコパスの人はこれがごく自然に出来、凡人は修行によりその境地に至る、ということかもしれない。
この様な研究は、サイコパスが冷酷かつ非情で、人の痛みをわからないというステレオタイプとはかなり異なることがうかがえる。Mem Mahmut 先生というマッカリ―大学の先生の実験によれば、サクラを使った実験では、に道に迷った人を演じてもらい、サイコパスの反応を見る。次にサクラが道で書類をバラバラに落とした状況。最後に腕を骨折しているふりをしているサクラが、瓶のふたを開けようとして苦労している。助けを求める状況は1から3に行くにしたがってより微妙になるということだ。そしてそのようなドッキリ状況で正常人とサイコパスの反応を見たという。するとなんと・・・・。最後の実験などは、彼らの方が正常人よりもサクラを助けようとしたという。
実際に米国を震撼させた Ted Bundy に関する著述を読んでも、そこにあるのは意外に普通の側面を見せる姿であり、彼らが別の情緒を持ち合わせる点を示唆している。
ということで結論。サイコパスは余計な感情の混入を阻止する力を持ち(というよりは感情の振れがもともと小さく)、そのためにより人を操作し、場合によっては人を傷つける行為を行うということになる。ただし彼らにはおそらく卓抜した他人を「認知的に」知る力があり、それはおそらく背外側前頭前野の高い機能に依存しているのだろう。