2015年12月4日金曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (6)

Bの治療的、非治療的な要素
B 不可避的に生じる自己開示については、B 治療者に意識化されている自己開示、B 2  意識化されていない自己開示、に分けた。ただしここで「不可避的」という表現についてひとこと但し書きをしておきたい。治療者はそれなりの努力により、自分の情報が極力クライエントに伝わらないようにすることもある程度は可能である。しかしそのための努力やストレスがかえってその業務にネガティブな影響を与えるべきではないであろう。そこで治療者が自然で健康的な社会生活を維持しつつ業務を行う上で、おのずと、自然に生じる自己開示のことを「不可避的」なそれと表現していると理解していただきたい。

B1の治療的要素としては、治療者が防衛的にならず、自分に関する事情をことごとく治療室から消し去るような態度を取らないことが、クライエントに安心感を与える。
B1の非治療的要素としては治療者のことをあえて知りたくないというクライエントの気持ちには反することになる可能性がある。
B1とはたとえばオフィスに治療者の私物や写真が無造作に置いてあったり、治療者がクライエントが読んだり購入したり出来る形で出版物を発表したりするような場合である。また最近ではインターネットを通じた自己表現、たとえばホームページやブログ、ないしはツイッターも含まれるであろう。このうちそれがクライエントの目に触れることを十分に意識しているものの多くはB1に含まれることになる。それが治療的な意味を持つこともあるだろう。
  オフィス、待合室などの治療空間は過度に露出的な環境であることは治療的ではないが、治療空間が「無菌的」である必要もない。そこでクライエントの目に触れる可能性のあるものとして何があるのかについて、治療者は十分配慮をするべきであろう。たとえば治療者がオフィスに家族の写真をおいてある場合、それが大きく目立つような形でデスクの上に飾られているか、小さなフレームで本棚の上に目立たずにおかれているかで、かなり意味合いが異なる。もし治療者がことさらにオフィスに物を置かず、貸しオフィスのように生活感が感じられないものを用意しているとしたら、それは治療者の「私の個人的なことは一切知られたくない」という意図をクライエントに感じさせてしまうかもしれない。しかしそうでないとしたら、「私は特に個人的なことを無理して隠そうとはしていません」というメッセージを発していることになり、治療者は防衛的にならず、クライエントをある程度は信頼して気を許しているという雰囲気を伝えるかもしれない。それは治療的といえよう。
もちろんクライエントに「不可避的に」伝わる治療者の個人的な情報が、クライエントに失望や不快を与えることもあるだろう。家族の写真、あるいは個人的な趣味や思い入れが露骨に伝わるような絵画や写真、フィギュア、雑誌などは、治療者の個人的なことは知りたくないというクライエントの願望を裏切ることになる。治療者はこのようなクライエントの反応の可能性に常に注意を払わなくてはならないであろう。
B2についても、その治療的、非治療的な点については、上述のB1に関する議論と類似したものを考えることが出来る。実はB1B2は明確に区別できないものがたくさんあり、そこには一種のスペクトラムや連続体が成立していると考えざるを得ない。治療者がクライエントにどの程度自分の情報が開示されてしまっていることを意識化しているか否かは、治療者自身の注意力や感受性に多く依存する。治療者がスーパービジョンを受けることで、いつの間にかクライエントに伝わっていたことに気が付くこともあるだろう。治療者がセッションの前にオフィス全体を見渡したり鏡にわが身を映すことで、自分では意識していなかった、自分自身についての何かを初めてそこに見出すこともあるかもしれない。たとえば筆者は、クライエントがオフィスに入った時にパソコンの画面に映っていた作業中の文章などにきわめて興味を抱くことを、クライエントから指摘されるまで十部に意識していなかったということがある。
 おそらく治療者が職業的に、ないしは個人的にかかわりを持つ様々なものがこのB1,B2ないしはどちらにも峻別できないようなものとしての性質を有する。そしてそれに対して一つ一つそれが治療的か、非治療的かを判断することは難しい。B自体が結局は自然に起きてしまう、不可抗力的なものであり、そのクライエントへの影響もケースバイケースだからだ。
  結局治療者はBがクライエントに与えたであろう影響について、率直に話す事が出来る環境を作ることが大事であろう。そして自分の意識していなかった情報が患者に伝わっていることを自覚し、できるだけB2B1に代えるという努力も必要であろう。また結果的にクライエントが知ることになった治療者の個人的な情報については、それを必要に応じて治療的に取り扱えるような治療関係を構築しておくべきであろう。
 しかしこのように考えることは、ある一つの重要な疑問を抱かせる。治療者は決して私生活においても気を抜いてはならないのか? 図らずもクライエントの目に触れたとしても恥ずかしくないような生活態度を常日頃から心がけ、品行方正を旨とすべきなのだろうか?この点に関して私は答えを持たない。しかしひとつ言えるのは、クライエントが治療室で想像するであろう治療者像から、実像があまりにかけ離れている場合、それはいずれは直接、間接にクライエントによって知るところとなるであろうということだ。
 ところで私は日ごろからバイジーさんに次のようなことを言っている。「自分のことを話すことが本当の意味であなた(クライエント)のためになるのであれば、いくらでも話しますよ」というスタンスを持ちつつ、最小限のことしか話さないという態度が理想であろうと。これはある種の「非防衛性non-defensiveness」の勧めと言える。
  しかしこれはもちろん「治療者個人にとってトラウマを呼び起こしたり、深刻なコンプレックスに触れるような内容についてまでクライエントに話す用意を持つべし」、ということではない。「いくらでも話す用意がある」といっても無制限ではないのだ。ただし治療者が個人としてあまりに触れてほしくないことが多いような生活を送っているとしたら、治療者の自由度はかなり制限されることになる。
 考えてもみよう。ある治療者がトラウマを抱えていたとする。たとえばかつて人に深刻な裏切り行為をされたという経験だとしよう。そのことを「必要とあらば話せる」治療者であれば、彼はそれを克服して、自分のため、他者(クライエントを含む)のために利用できる程度に処理が出来ていることを意味する。それに比べて、そのトラウマについては決して他人に触れさせないという防衛的な立場にある場合は、はるかに治療者としての自由度が小さいと言わざるを得ない。
まとめ
治療者の自己開示というテーマで論述した。その趣旨は、自己開示は、その是非を全体として問うべきものではなく、治療者が個別的な治療状況でそれを行うか否かの判断を下すべきことである。そしてそのためには自己開示としてどのようなものがあり、それぞれにどのような利点と問題点があるかをよく知っておくことが重要なのだ。さらにこの論文では、この自己開示の問題の背景に治療者の自己愛があるという私の発想を強調した。治療者という人種は、匿名性を守るという方向にも、それを犯すという方向にも走る可能性を持っているのであり、そのことを理解したうえで、この自己開示の問題を捉えなおさなくてはならないという考えである。