2014年3月3日月曜日

恥と自己愛トラウマ(推敲)(4)

特に変わるところはないよ。だから全部小文字。

3章 凶悪犯罪と自己愛トラウマ-秋葉原事件を読み解く

はじめに
本章では、2008年に起きたいわゆる「秋葉原通り魔事件」を考える。この事件で犯人が無差別殺傷に至った直前に見られ他心の動きを、この自己愛トラウマという概念からある程度読み取れるであろうというのが私の立場である。
この事件は2008年6月東京秋葉原で発生し、7人が死亡、10人が負傷したというものである。その唐突さと残虐性のために、おそらく多くの私たちの心に鮮明に記憶されているだろう。犯人の運転する2トントラックは、交差点の赤信号を突っ切り、歩行者天国となっている道路を横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。トラックを降りた犯人は、それから通行人や警察官ら14人を立て続けにダガーナイフでメッタ刺しにしたのである。
犯人は青森県出身の25歳の男性KTで、岐阜県の短大卒業後、各地を転々としながら働いていたという。「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと犯行の動機を供述したが、携帯サイトの掲示板で約1000回の書き込みを行っていたという。携帯サイト心のよりどころにしていたわけだが、そこでも無視され続けたという思いが募り、さらに孤立感を深め、殺人を予告する書き込みを行うようになっていった。当日の犯行の直前にも、沼津から犯行現場まで移動する間に約30件のメッセージを書き込んでいたという。
この事件の直後、当時の官房長官は刃物の所持規制強化を検討すると述べた。また千代田区は秋葉原の歩行者天国を当分の間中止することを決め、区立の小中学校に子供達の精神ケアを行うカウンセラーを派遣することを決めている。さらに犯人が派遣社員であったことから、若者の雇用環境が厳しくなっていることが将来に希望を失い、事件の動機になったとする見方も出た。事件後複数のサイトにおいて、殺人などの犯罪予告が相次いだ。ほとんどが悪戯とされているが、小中学生が行ったものもあるという。
さて極めて凄惨な出来事であり、日本人を震撼させたとはいえ、既に旧聞に属しかけたこの事件について私が考察する理由がある。それは犯人が最近になり獄中から手記を発表したからだ。それが「Psycho Critique 17[解](JPCA, 2012年)」である。そしてその手記を読む限り、犯人の自己愛の傷つき、「自己愛トラウマ」が関係していると考えられるのである。
ところで本章では、私は犯人でもあり筆者でもある男性をそのイニシャルである「KT」とだけ記すことにする。もちろん彼は加藤某という実名でこの「解」を書いているわけだが、なぜか私は本章で彼の実名を出すのがはばかられる。また秋葉原で起きた事件についてもできるだけ詳述を避け、「事件」と書くことにする。それはこの事件の直接の内容に触れることに抵抗を感じるからだ。軽々しく論じられないほどに多くの人々が犠牲になっているのだ。
 もっと言えばこの「解」という書が刊行されたことにも疑問を覚えるところがある。多数の人々を殺傷した人間が、なおかつ自分の考えの表現の機会を与えられていいのだろうか。この種の自己表現は、KT自らが認めているように、「誰かが自分のことを考えている」と想像することが可能になる為に彼にとっての癒しとなる部分があるのである。だからこのような本は、せめて彼の話を聞き取った第三者が著すべきではないかという気持ちはある。その意味で彼の「解」を読んで考察をする私もある意味では「同罪」かもしれない・・・・。
本書はKTが事件に至るまでの体験の記述であるが、その細部にわたり解説を加えることは紙数の関係で不可能である。そこで本章ではKTについての精神医学的な診断に基づいた議論を主に行おうと思うが、その前に彼が「事件」を起こすまでの人生についての記述の中で、二つ注意を引いた点を述べておきたい。
一つはKTの人生の中で特徴的な、極端でおそらく病的な「寂しがりや」の傾向である。彼は「高校時代は昼間は学校に行き、授業が終わると友人宅に直行して深夜まで遊び、休日は朝から友人と遊んでいました」(p.16)とし、高卒後進んだ短大でも、寮生活で常に誰かと一緒に過ごし、長期休暇は高校時代同様友人宅に泊めてもらったという。つまり彼は人生の一時期までは、常に誰かと一緒に過ごすということ以外の生き方をしてこなかったことになる。
 KTはその後埼玉の工場に派遣で働くようになってから、仕事が終わり寮に帰っても寝るには早すぎ、そこで初めて一人ですごす時間が出来た。それが彼にとっては地獄だったというのだ。彼は世の中から自分がたった一人取り残された感じがし、それは「マジックミラー越しに世界を見ているようなもの」(p.16)であったという。つまりこちらは相手を見えても、相手が自分のことを見ていない。その状態が恐怖となるのだという。
 もう一つは、KTが心に人を思い浮かべる際の特徴である。彼は寂しさを紛らわすために、心の中に誰かを思い浮かべればよかったのではないか? これについて彼自身が書いている。「私が頭の中に友人を思い浮かべても、その友人は私のことは考えていない、と私は感じてしまうのだ」(p.17)。そしてそのようなKTが、やがて孤独感を癒す方法としてインターネットの掲示板を利用することが出来ることを知る。掲示板へのメッセージに対して投稿すると、それに対して即座にメッセージをくれる人がいることで、彼はその人が事実上そばにいるのと同じであると感じることが出来、一息つけたのである。こうしてKTはインターネットの掲示板に依存し、心の支えとして行く。そしてその支えの破綻が秋葉原での「事件」を生む間接的な原因ともなるのだ。
以上の二点はKTの診断を考える上で大いに参考になる。そこでその問題に移りたい。

KTの診断は何か?

診断とひとことで言っても、それを実際の人間に下すことは容易ではない。ましてやKTに直接対面したことのない私が安易に診断を口にするのは不用意かもしれない。だから私の論述はあくまでも本書「解」を読んだ上での「診断的な理解」についての考察であることをお断りしておきたい。
人間の心理は複雑である。誰ひとりとして一定の決まったパターンに合致した思考や行動を示す人はいない。しかしある深刻な事件が生じた時に、私たちはそれが起きた原因を知りたいと欲し、犯行の動機を一元的に説明しようとする。
「何かの原因があるはずだ。」
そして「解」を読み始めた私も同様に「事件」の「解(答)」を求めて読み進めた。しかし「解」を読み終えて、それも幻想であったことをあらためて思う。「解」そのものがさまざまな、一元的には説明不可能な情報を伝えているし、「解(答)」もそれだけ複雑でファジーなものにならざるを得ない。そしてそれは私の心にある「解(答)」でしかなく、本書に登場するほかの方々のそれも、それぞれ独自なものとなっているはずだ。
人を一元的に理解し説明する試みのひとつが、精神科的な診断というラベリングである。ラベリングは一種の決めつけであり、レッテル貼りであるが、少しは理解の役に立つ。「ラベルは、剥がすために貼るものである」と私はいつも言っているが、とりあえず貼って、貼り心地を見るだけでもいいのだ。気に入らなかったらいつでも剥がせばいい。
<いわゆる境界パーソナリティ障害か?>
その心づもりでKTの精神医学的な診断の可能性を考えてみよう。おそらく境界パーソナリティ障害(以下BPD)は比較的容易に当てはまるように思う。慢性的な自殺願望、孤独の耐えがたさ、攻撃性、「自分のなさ」、白か黒かの考え、感情の激しさ・・・。DSMがBPDについて挙げている結構な数の診断基準を満たしている。「KTがボーダーライン(BPDの別の呼ばれ方)だって?」と言われるかもしれないし、私も自分に「本気かな?」と問うている部分がある。しかしそれは診断がラベリングであるということを思い起こせば消える疑問である。もちろんKTは一般的なBPDのプロフィールには合致しない。BPDは女性に多いことが知られているが彼は男性であり、またリストカットや自殺企図があるわけではない。しかしそれでも彼は診断基準を結構満たすのである。
<反社会的パーソナリティ障害か?>
二つ目の診断としては、反社会的パーソナリティ障害(以下ASD)が思い浮かんでもおかしくない。しかしこれは意外に当てはまりにくい可能性がある。ASDは、DSM的に言えば、法律を遵守しないなどの違法性、人をだます傾向、攻撃性、良心の呵責のなさ、の4つの柱があり、これらがその人の行動にパターン化している必要がある。このうち法律を守らない、人をだます、という傾向はKTにはあまりなさそうなのだ。借金を踏み倒すどころか、むしろ遠路はるばる返済しに行き、相手に感謝されるというエピソードが紹介されているくらいである(p.42)。KTは人と関係を結ぶためには正直にもなるというところがあるのだ。
攻撃性や良心の呵責のなさにしても、あまりすっきりとは当てはまらない。多くの人々を殺傷するなどは攻撃性の最たるものではないかと思われそうだし、それらを根拠に攻撃性の基準を満たすと考えたとしても、彼の場合それが彼の日常的な行動の中にパターン化したかといえば、そうとも言えないのである。(ただし彼のあからさまな攻撃性は中学時代にも見られたことが「解」で述べられている(p.164)。KTは中学生のころ、クラスメイトを思いっきり殴り、失明させる危険があったほどだったという。そして半年後に彼は再び同じクラスメイトに対して暴力的行為をとったという。)
良心の呵責のなさについては、これこそはKTに典型的に当てはまりそうだが、これ一つではASDの根拠としてはあまり説得力がない。
ここで念のためDSM-IVのASDの診断基準の一部を示そう。
A.他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以来起こっており以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
1. 法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
2. 人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことを繰り返すことによって示される。
3. 衝動性または将来の計画をたてられないこと。
4. 易怒性および攻撃性。これは、身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
5. 自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
6. 一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。
7. 良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。
(高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京)

どうだろうか? KTに関しては1は微妙。2も微妙。3は満たし、4も満たすとしよう。しかし5も微妙、6もイマイチ。7は満たす、となるとギリギリ3つとなる。いちおうASDと診断してよさそうだが、あまり典型的ともいえないのだ。
<やはり可能性の高いアスペルガー障害>
さて三番目の診断は、当然ながらアスペルガー障害である。KTの精神鑑定の進捗状況は知らないが、アスペルガー障害ないしは広汎性発達障碍(PDD)の可能性についてはおそらく問われることになるであろう。私はこれを一応KTの診断とする。しかし「仮の」としておこう。というのは以下のとおり、この診断は実は微妙な問題をはらむのである。
まず以下に参考のためにDSM-IVにおけるアスペルガー障害の診断基準を示そう。

A.以下のうち少なくとも2つにより示される対人的相互反応の質的な障害:
(1)目と目で見つめ合う,顔の表情,体の姿勢,身振りなど,対人的相E反応を調節する多彩な非言語的行動の使用の著明な障害
(2)発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗
(3)楽しみ,興味,達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如(例:他の人達に興味のある物を見せる,持って来る,指差すなどをしない)
(4)対人的または情緒的相互性の欠如
B.行動,興味および活動の,限定的,反復的,常問的な様式で,以下の少なくともlつによって明らかになる
(l)その強度または対象において異常なほど,常同的で限定された型のlつまたはそれ以上の興味だけに熱中すること
(2)特定の,機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである.
(3)常同的で反復的な街奇的運動(例:手や指をばたばたさせたり,ねじ曲げる,または複雑な全身の動き)
(4)物体の一部に持続的に熱中する.
(高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京 から引用)

このように見る限りでは、KTはこれらの基準を十分に満たさないようにも思える。少なくとも「解」から私たちが知る限り、彼は学校を卒業するまでは、「常に友達と一緒に過ごしていた」ことになっているのである。もし彼に「(A2)発達の水準に相応した仲間関係を作ることの失敗」が見られるとしたら、彼の社会的な孤立は学生時代のかなり早期から起きていたはずである。しかしKTの記述からは、かなり友達にサービス精神を発揮し、友達が喜ぶのであれば自己犠牲的に物や情報を提供していた様子が伺える。
 「(A3)楽しみ,興味,達成感を他人と分かち合うことを自発的に求めることの欠如」については、それどころか、KTは自分の趣味に関することではあるが、それらを積極的に友達と分かち合うことで、孤立を避けていた可能性がある。
Bの「行動,興味および活動の,限定的,反復的,常問的な様式」については不明である。KTはインターネットでのゲーム等に精通しているようであり、その意味ではこのBを満たしている可能性はあるが、それを積極的に伺わせるようなエピソードは、「解」を読んでも特別浮かび上がってこない。むしろKTの頭にあったのは、いかに他人との交流を維持し続けるか、いかにそのために他人の関心を保ち続けるかということのみにあったようである。
PDDの診断基準には直接かかわってこないながら、KTの場合おそらく言語的なコミュニケーションもあまり得意でないはずだ。彼は文中で自分で相手に気持ちを伝えることがなく、いきなり行動に移ってしまうという点を自省しているが(p.93)、それがおそらく証左だろう。そのかわり彼の文章は達者な方と言っていいだろう。(もちろん「解」がゴーストによらず実際に彼の手によるものと仮定した場合である。)インターネットの掲示板への書き込みも、その思い入れの詰まった表現や、他人の書き込みのもつ微妙なニュアンスの読み取り方も、かなり芸が細かい。
それではKTはアスペルガー障害ではなかったかといえば、私の理解するアスペルガー障害には合致する面があるのである。私はアスペルガー障害の主たる病理は、共感性の障害であると理解している。共感性とは相手の気持ちを感じ取る能力である。目の前にいる人の喜びや痛みを自分の心のスクリーンに映して感じ取る力。他人を精神的身体的に傷つけることに対する抵抗もそこから生じる。人を傷つけることは、自分にとっても「痛い」ことなのだ。逆に相手の喜びは自分のものとして感じることが出来るために、相手を喜ばせ、心地よくさせることも自然に行なうことができる。そうやって対人関係が成立し、継続していく。
 共感能力には、相手が「考えていること」もその対象に含まれる。私たちがコミュニケーションをする際、相手が何を思って話しかけてきているのかを直感的に感じ取り、それに対応することが出来る。それが出来ないと「空気が読めない」ということになり、集団から仲間はずれになる。
KTの病理を考える際、ここで精神医学の専門家は引っかかることになる。彼の手記には、彼が友達づきあいをし、時には人にサービスをする為に自己犠牲精神を発揮することをいとわない点に注目し、この種の共感能力は不足していないのではないかと考える。その点は私も同感であり、したがってDSMによるアスペルガー障害の診断というラベルも「貼りつき」にくいことは認める。そのために「他に分類されない広汎性発達障害PDDNOS」あたりが無難ではないかとも思う。つまり準アスペルガーとしてその病理を位置づけるわけである。

KTに見られる怒りの特質-アスペルガー障害の「自己愛トラウマ」

それにしてもKTの凶行は凄惨であった。命をなくした7人の方々やご遺族、10人が負傷した方々にとっては、まさに耐え難い体験であったはずだ。「どうして自分立ちや自分たちの家族がこんな目に遭わなければならなかったか・・・」とさぞかし無念であったろう。KTはこうして怒りを表現した。しかし理不尽にも犠牲になった方々の怒りはどう表現され、どう処理されるべきなのだろう・・・・。
このようにのべたからと言って、アスペルガー障害の人々は危険であるという一般化は決してできない。それだけははっきりさせておこう。しかし彼らが時に示す激しい怒りの背後には、彼らの発達障害の病理が深く関係しているお思わざるを得ない。それが人の気持ちを推し量ることの困難さである。
一般にアスペルガー障害の人々は他人の気持ちを読み取ることが不得手である。ただしそれは不可能、ということとは違う。事実アスペルガー障害という診断をつけることにあまり躊躇しないケースに関しても、多くの場面で他人の気持ちを読み取り、感じ取ることが出来ることは確かだ。アスペルガーの人たちの大部分は、対人関係を求め、それが得られないことを苦痛に感じる「寂しがり屋」である。
 ところがやはり彼らの一部においては、対人コミュニケーションには特徴、いや欠損があると考えざるを得ない。それはしばしば彼らの猜疑心や被害念慮という形で現れる。それは彼らが持つのはコミュニケーションの微妙なレベルの障害であることも関係している。全く通じないのであればまだわかりやすいのだろう。しかしそれが一見気持ちが通じているようで実は通じていない対人関係を築くということが大半なのだ。はじめは微小だった人との関係の齟齬は常に生じては徐々に、あるときは劇的に拡大していくのである。それがこの「事件」につながったと考える根拠は十分にある。そして徐々に周囲から去られる運命にある。時には明白に、時には微妙なかたちで拒絶を受ける。KTの場合には多くの友人の離反であり、最終的に頼りにしていたインターネットの掲示板における人々の無反応であった。それはKTの自己愛に対する痛烈なトラウマとなるのである。そしてそれが途方も無い攻撃性の発露に至ってしまったのだ。

KTを「自己愛トラウマ」から救えたのか?

私たちはKTに対して何かの形でのかかわりを持つことで、事件を未然に防ぐことが出来たのだろうかという問題について考えたい。これほどの事件を起こした男に「治療」は論外かもしれないが、少なくとも同様の事件の防止策については考えるに値するだろう。
「解」の最後でKTが「事件」の原因として3つあると自己分析している部分がある(p.159)。それらは彼が掲示板に依存していたこと、掲示板で実際に起きたトラブル、そしてトラブル時のKTのものの考え方(間違った考え方を改めさせるために相手に痛みを与える、という、「解」で繰り返して登場するロジック)である。そしてこれら3つが重なることで「事件」は起きたのだから、防止策はそれを防ぐこと、という風に彼は説明している。ここで一つ気が付くのは、これらの問題はあたかも彼の行動や思考上の誤りとして説明されているが、そこに感情の要素が言及されていないことだ。
「対策とは」という項目の冒頭(p.150)で、KTは次のように述べている。あくまでも再発を防止しなくてはならないのは、「むしゃくしゃして誰でもいいから人を殺したくなった人が起こす無差別殺傷事件」ではなく、「一線を越えた手段で相手に痛みを与え、その痛みで相手の間違った考え方を改めさせようとする事件」である、と。つまり彼の起こした「事件」は後者であり、そこに怒りやそれに任せた殺傷という要素を否認するのだ。そして、「(正常なら)ふつうは事件なんか起こさない、という言われ方」に反対し、「普通か否かは思いとどまる理由の有無でしかない」という。
KTのこの主張は、「事件」に至った経緯にはある種の必然性の連鎖があり、それがたまたま途中で中断されることがなかったために「ドミノ倒しのよう」に最後の「事件」に行きついたというものである。そしてそのような事態は、彼が挙げた三つの誤りを犯し、そのプロセスを止められない場合には、ほかの誰にも生じうると訴えているかのようである。
 そのプロセスを止めるために必要な策としてKTが挙げているのが「社会との接点を確保しておくこと」であるという。そしてさらに具体的には、ボランティア活動を行ったり、サークルや教室に通ったり、何かの宗教に入信することであり、さらには「自分の店を持てば『客のために』と、社会との接点を作ることが出来ます」(p.158)と述べる。
このKT自身の語る防止策を読んだ私の感想を少し述べてみよう。KTの心の動きにはいくつもの病的な傾向がみられる。特に「事件」に関連して何が決定的に問題かと言えば、それは生身の人間をナイフで無差別的に刺殺するという行為に尽きる。あるいはもう少し言えば、そのような行為を自らが行ったということに対する彼自身の自責や反省の希薄さである。それは彼がそれなりに一生懸命取り組んだであろう「自己分析」が触れていない部分であり、それゆえに彼の病理の核心であるといえよう。
 仕事がうまく行かず、だれからも顧みられず、怒りや復讐心が高まって暴力行為に及んでしまう、ということは、ファンタジーのレベルでは多くの人が体験するのだろう。「事件」の直後に、KTの気持ちがわかると述べた人々が少なからずいたという話も聞く。しかし彼らとKTとの決定的な違いは、やはりそれを実行するかしないかということだ。そしてそれを実行したKTについては、それはゆがんだ攻撃性の発露であり、そのことを彼自身が否認する傾向とも関連した深刻な病理の表れといえる。
彼の攻撃性の否認傾向を示す上で、「解」の最終項目「反省の考え方についての補足」における記述をあげたい。先に見た中学時代の殴打事件についてである。詳しい記載は避けるが、この事件についてのKTの記載の中で一つ明らかな矛盾がある。それはこの事件が「相手に間違った考えを改めさせようとした」と言いながらも同時に、「かっとなって」行った行為でもあると言っている点である。KTはこのエピソードはインターネットの掲示板における「成りすまし」とのトラブルとは異なると言っているが、殴打事件と秋葉原の「事件」の動因を同様のものとして説明している以上は、むしろ「事件」が結局は「かっとなって」行った可能性を示唆しているといえないだろうか。後者の方がもちろん冷静沈着に事件を計画したという面もあろう。しかしその背後にあるのは、成りすましからの攻撃を受けて「完全にキレ」「ケータイを折りそうになった」(p142)ほどの怒りに端を発しているとみていい。そしてその部分が否認されているのだ。
 しかし私はKTが激しい怒りを暴発させた結果がこの殺傷事件だったのであり、その尋常でないほどの怒りの度合いこそがKTの病理であると主張するつもりはない。通常の怒りは、それを直接起こした対象に主として向けられるのであり、たとえそれが暴力を伴ったとしても、その相手への攻撃が反撃を引き起こし、格闘のような形で結果的に相手を殺傷してしまうという形が一番典型的と言える。しかも相手への怒りは、相手が傷ついたことを目にすることで急速に醒め、激しい罪悪感と自己嫌悪が襲うというのが通例である。復讐を遂げた後に自殺をするという経緯がよく見られるのはそのためであろう。
 ところがKTの場合、その攻撃性の背景にあったのは怒りや恨み、復讐の念でありながら、それらの感情の存在自体は否認される一方では、歩行者への攻撃は無差別的かつ執拗で、あたかも機械的に、感情を伴わずに行われているというニュアンスがあるのだ。
 私はここに見られるKTの性質は犯罪者性格のそれと同類とみなしていいと思うが、もしそうであるとするならば、彼の示す「防止策」も、反省内容もことごとく見当外れということになりかねない。KTが中学時代にこの種の行動をとっていたということは、その時に対策を取っていればよかった、というたぐいの問題ではなく、むしろ彼は思春期の時点で犯罪者性格の条件をおそらく備えていたであろうことを意味しているのだ。そしておそらく幼少時からその兆候はあったであろうと想像する。
それでは彼は生まれつきの精神医学的な問題を抱えており、手の施しようがなかったのだろうか?
「解」を読み進めて一つ印象深かったのは、たとえ彼の病理がいかなるものであろうと、KTは他人からの肯定を強烈に求めていたということだ。他人がいて、他人の視野に入ってこそ自分が生き延びることが出来るかのようである。そして他人から無視された時には強烈なトラウマ(自己愛トラウマ)を味わっていたということである。
 彼がそばに自分を肯定してくれる存在を持っていたなら、事態はずいぶん違っていた可能性は否定できないと思う。何人もの刺殺という悲惨な「事件」をどこまで食い止められたかはわからないが。そしてそのような存在を常に持つ一つの方法としては、心理士による支持的なカウンセリングがあげられる。KTには特異な思考プロセスや、人がものにしか見えなくなってしまうという病理がある。それらを根本的に変えることはできない。しかし心の病理はある程度心が充足している場合には発現しにくいものである。その意味で支持的なカウンセリングの効果はそれなりに期待できるだろう。
もちろんカウンセリングを受ければそれでいい、というわけではない。KTが安定した治療関係を維持できていたという保証はないからだ。しかし彼が定期的に通って自分の気持ちを表現できるような場所、そこに週に一度通うことが期待されている場所を確保していたら、あれほど悲惨な結果にはならなかったのではないか。少なくとも「事件」に対する強力な抑止効果はあったのではないだろうか、と私は考える。なにしろの「肯定された」感は、友達からの「半年後に遊びに行く」という一通のメールだけで充足されてしまうという性質を持っていたのだから(p.37)。
ただしカウンセリングを受けるためには、普通は一回に数千円から一万円あるいはそれ以上のお金がかかる。それが払えずにカウンセリングをあきらめている人も多いであろう。精神科の通院精神療法を利用するという手もあるが、その為には敷居の高い精神科外来を訪れる必要がある。これは多くの方には抵抗があるだろう。KTがこれらのハードルを乗り越えることが出来たかどうかはわからない。

以上で私の考察をひとまず終えるが、この「事件」を考えることはアスペルガー障害を持つ人とかかわる意味をいくつか示唆していることを示せたと思う。しかし何度も繰り返させてほしい。ほとんどのアスペルガー障害を持つ人はこのような犯罪にかかわるほどの自己愛トラウマを体験しないのであり、彼らに対する差別的な見方を提供するのが私の意図ではないということである。