2014年2月6日木曜日

日本人のトラウマ(1)

「日本人のトラウマ」とかいう本を書こうと思う。実は内容はもう出来上がっている。これまでに雑誌に発表した13の論文があるからだ。もちろんこれから必要に応じでリライトしていくのでが、それぞれは一応れっきとした心理関係の雑誌である。「こころの科学」だとか、「児童心理」とか。そういうちゃんとしたところに発表した論文を集めた本が企画として認められないわけはない、と思うとしたら全然甘い。この企画はいくつかの出版社ですでにリジェクトされている。「最近この種の企画はあまりぱっとしないんですよ・・」という感じだ。確かに近年の出版事情は、ワンテーマで簡単に読めるものが売れる、と相場が決まっている。精神科医が社会の様々な層について書いた論文集がそのまま向け入れられるわけでは決してない。しかし出版社が企画として受け入れないからと言って売れないという保証も、これがまた全然ないんだな。だから今度この企画を受け入れてくれた●●●●出版社の名誉のためにもいい本にする覚悟なのだ。

第1部 自己愛トラウマと現代人の怒り 
 第1章 怒りと「自己愛トラウマ」 
(初出:「怒りについて考える-精神分析の立場から」児童心理. (847:1181-1185)9月号、2006年)
              
この最初の章では、現代人の怒りについて自己愛の傷つきとの関連からとらえる。最初に昨年末、私たちを震撼させたニュースを取り上げよう。

【ソウル=豊浦潤一】北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機になったと20日、消息筋が本紙に語った。
 金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始されたという。
 部下2人は、同部の李竜河第1副部長と張秀吉副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じたという。
 部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。
 (201312211041
  読売新聞)

私は北朝鮮の政情についてコメントするつもりはない。ただこれほどの怒りの表現の背後にあるのは自己愛トラウマだということである。「張成沢部長に報告する」と部下に即答を避けられた金正恩の自己愛的な傷つきがこのような決断に至らせたのであろう。自己愛トラウマはそれだけに恐ろしく、またパワフルである。特に誰にとって何が自己愛トラウマにつながるかが読めない場合が多いことも事態を複雑にする。それだけに私たちはこのトラウマと怒りの関係を十分に理解しておかなくてはならないのである。


精神科医もまた普通に日常生活のいろいろな場面で怒りを覚える。さすがに患者さんの一言にムカッとすることは少ないが(現代の私たち精神科医は、不用意な一言が患者さんの怒りを買ってしまわないかということに、むしろ関心があるのだ。)そしてそれを精神医学的にどのように理解するかについての知識を多少人より多く持っていることも確かであろう。さらに私は精神分析家なので、精神分析的な理解も加わる。(精神医学と精神分析学の違いは、一般の方にはわかりにくいかもしれないが、前者はより脳という視点に立つのに対して、後者はより人間の心の動きに注目するという違いがある。)
さて従来の怒りについての心理学的な理解は単純でわかりやすかった。例えばひと時代前のある心理学辞典で「怒り」の項目を引くと、T. Ribotの説をあげて「欲求の満足を妨げるものに対して、苦痛を与えようとする衝動」と定義している(1)。この種の単純明快な理解は、精神分析理論においても見られた。フロイト以来、怒りは破壊衝動や死の本能と結び付けられる伝統があった。本能というからには、それは最初から人の心にポテンシャルとしてポン、と存在していることになる。
しかし近年になって見られるのは、怒りをその背後にある恥や罪悪感との関連から捉えるという方針である。つまり「ああ恥ずかしい」、とか「自分はなんと罪深いんだ」、という感情の直後に、それへの反応として怒りが発生すると考えるのである。その意味で怒りを「二次的感情」として理解するというこの方針は、最近ますます一般化しつつある。もちろんこの考え方にも限界があろうが、怒りを本能に直接根ざしたプライマリーなものとしてのみ扱うよりは、はるかに深みが増し、臨床的に価値があるものとなるのだ。

基本的な視点
精神分析家としての私は、怒りについてかなり前から特別の関心を持ってきた。その経緯についてはすでに別の機会に論じたことがあるので、少し長くなるがここに引用しておく。本章における考察は、ここから先ということになる。

人の怒る仕組み - 怒りの二重構造
まず怒りが起きるメカニズムに関する私の説明はこうである。人が腹を立てる際には、一連の典型的な心理プロセスがある。それはまず私が本書で「自己愛トラウマ」と呼んでいる事態、つまり自分のプライドが傷ついたことによる心の痛みから始まる。そして次の瞬間に、自分のプライドを傷つけた(と思われる)人に向かう激しい怒りへと変わる。このプロセスはあまりにすばやく起きるために、怒っている当人も、それ以外の人もこの二重構造がほとんど見えない。
このプライドを傷つけられた痛みは急激で鮮烈なものである。そしてそれこそ物心つく前の子供にはすでに存在し、老境に至るまで、およそあらゆる人間が体験する普遍的な心の痛みだ。人はこれを避けるためにはいかなる苦痛をも厭わないのである。しかしこのプライドの傷つきによる痛みを体験しているという事実を受け入れることはなおさら出来ない。そうすること自体を自分のプライドが許さないのだ。
かつてコフートという精神分析家は「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常に見られる怒りを振り返っていくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。
それこそレジで並んでいて誰かに横入りされた時の怒りも、満員電車で足を踏みつけられたときの怒りも、結局はこのプライドの傷つきにさかのぼることが出来る。自分の存在が無視されたり、軽視されたりした時にはこの感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められたことがすでに深刻な心の痛みを招くのだ。
ましてや誰かとの言葉のやり取りの中から湧き上がってきた怒りなどは、ほとんど常にこのプライドの傷つきを伴っていると言ってよい。他人のちょっとした言葉に密かに傷つけられ、次の瞬間には怒りにより相手を傷つけ返す。するとその相手がそれに傷つき、反撃してくる。こうしてお互いに相手をいつどのような言葉で傷つけたか、どちらが先に相手を傷つけたかがわからいまま、限りない怒りの応酬に発展する可能性があるのだ。(「気弱な精神科医のアメリカ奮闘記」(2) より)。

以上の論旨を一言でいえば「怒りには、自己愛が傷つけられたことによる苦痛、すなわち恥が先立っている」ということになる。ちなみにここでは引用の中のプライドという表現を、もう少し一般的な「自己愛」と言い換えてある。

これまでは攻撃性や男性性と関連付けられる傾向にあった怒りが、実は恥や弱さへの防衛という意味合いを持っているというこの議論は、従来の精神分析理論からのかなりの逸脱を意味する。引用文中にもあるように、この視点は精神分析家H. Kohutにより端緒がつけられたが、そこにはA. Morrison (3)D.L. Nathanson (4), C. Goldberg (5) 19801990年代の多くの分析家の貢献があった。特にMorrisonは「Kohutの理論は、恥の言語でつづられている。」とし、Kohutの「自己愛的憤怒narcissistic rage」についての理論を恥の文脈に導入するうえで大きな貢献をしたのである。