2025年5月31日土曜日

週一回 その8

 色々調べるうちにやはりO. Kernberg の1999年の論文もぜひ言及する必要があると思った。

Kernberg OF. Psychoanalysis, psychoanalytic psychotherapy and supportive psychotherapy: contemporary controversies. Int J Psychoanal. 1999 Dec;80 ( Pt 6):1075-91

彼の言い分には少し反対の部分があるが、大枠は理解できる。彼はPRPの結果に従って分析的な治療を「psychoanalytic modalities of treatment 精神分析的な様式の治療」

と呼び、その中を精神分析、精神分析的精神療法、精神分析を基盤とした支持的精神療法 psychoanalitically based supportive psychotherapy に分類する。彼の論文の特徴は、週2回までは彼の言う精神分析的な治療の根幹部分として半世紀前から同じ主張をしているということだ。そして彼の言う真に「分析的」な治療とは、「解釈、転移分析、技法的な中立性」(1079)を重んじるということである。そしてそれは精神分析、分析的精神療法に当てはまるというのだが、この後者は少なくとも週2回以上としているところが、ちょうど藤山氏の主張と通じるところだ。そして週一回だと恐らく支持的精神療法に属することになるだろうか。また支持的精神療法ではこれらの分析的であることの定義はむしろ抑止されるという姿勢を取っている。このKernberg の古典的な態度もまた藤山氏のそれに相当する。それはそれなりに一つの立場と言えるが、それが一定のコンセンサスを得ていたかというと不明である。

ちなみに米国精神分析協会APsAのホームページには以下のように書いてある。

「精神分析的支持療法は、治療指針は基本的には精神分析の理論と技法に基づく。第一の違いは分析に比べて頻度が低いということであり、時には週に一度しか会わない。精神分析と同様、セッションの頻度は患者のニーズに応じてカスタマイズされなくてはならない。もう一つの違いは患者は通常はカウチを用いず対面で行うことである。」


2025年5月30日金曜日

遊びと愛着 推敲 13

ちなみに脳の同期化の問題は、共感ということの意味をも変える。共感は対面している人のPEM(predictive error minimization 予測誤差の最小化)を促す効果があるのだ。
例えばある時電車に乗っていて強い不安を体験し、それをどう理解し説明したらいいかが分からないとしよう。突然息苦しくなる、ムカムカする、不安になる、胸がドキドキしだす、等。これは明らかに予測していなかったことで、大きな予測誤差 predictive error を意味する。「なんで自分だけがこんなことになるのだろうか?」「どうして今、この時にこれが起きるのだろうか?」「日頃の行いが悪いから罰が当たったのだろうか?」などなど。そして誰かに話してこの突然襲ってきたPE(予測誤差)を説明し、理解し、納得したい。
その時にそれを話した相手が共感的に「一種の閉所恐怖でしょうね。でも私にもそんなことがありますよ。」「ほかに体の症状がないなら、特に心配はいりませんよ」などと言い、その人はそれなりに落ち着いたとしよう。するとそれまでの得体のしれない、そしてその意味で大きなPEは、何らかの説明が出来るものとなり、その意味で「処理」されて小さくなっていく。そう、PEはそれを説明されることである程度は低減するのだ。そして共感されるということは、自分の気が変になっていて、体験していること自体の意味が分からなくなってしまっている状態から救い出してくれるのである。  こんな別の例はどうだろう。急に苦しくなり、自分の体に何らかの病変が起きていると確信する。しかしとりあえず救急治療室に駆け込むことで、そこでこれから医師から何らかの「説明」や「診断」が与えられるであろと思えることで、ある程度のPEMは生じるはずなのだ。  ここで人が持つ予測 prediction (P)する力というものを考えよう。これが大きければ、予測誤差(PE)は当然小さくなる。そしてこの予想する力は、その正確さではなく、むしろそれの及ぶ「範囲」の大きさに反映されるだろう。例えば囲碁で自分が打った一手にたいして、相手がどこに石を打ってくるかを考えるとしよう。上級者はあらゆる可能性に対応できるだろう。しかし初心者は一つ、二つしか相手の手を予想できず、それを外れたどのような手にも驚き、考え込んでしまうだろう。 この場合の上級者の予測は、ちょうどAIが行うような「確率的」なものだ。ここに来る確率がだいたい80パーセント、あそこには10パーセントくらい、など。それ以外に1パーセントでいくつかの個所を予想する。それが一番「正しい」予想の仕方だ。一つの正解を予想することは必要ない、というより意味がないのである。
例えば相手は絶対ここに打ってくるであろう、という予想がいかに正確でも、それを外れた場所に打たれる場合を全く予測していなかったとしたらほとんど意味がないことになる。いわゆる「フレーム問題」の再現である。確率的に予測する、ということはどの手に対してもそれなりの対処の仕方が分かっているという意味で、PEを最小にする最善の方法である。
例えば(たとえ話がしつこいな)囲碁の有段者が初心者を相手にした場合、初心者が勝手がわからずに打ってくるあらゆる手に対して余裕で応対できるであろう。有段者の予測する力の大きさは、相手がどこに打ってきても対応できるという力なのだ。
考えてみれば人にとってPEそのものがいけないというわけではないことになる。いい意味のPEもありうる。テストの点数が、思っていた以上に良かった時、とか。問題はPEによりとてつもない不安が惹起されるときである。あるいはかつてPEの後に襲ってきた不幸やトラウマの記憶を呼び起こすという点が問題なのだ。だからPEに際して「大丈夫だよ」あるいは「何が起きても守ってあげるよ」と伝えられることは結果的にPEMに繋がるのだ。予想外のことが起きた、でもそれでも(いつものように)大丈夫なのだ、と感じることは結局はPEM(予測誤差の最小化)が生じたということなのである。

2025年5月29日木曜日

遊びと愛着 推敲 12

  チャット君の力を借りて、自分がとても大事なことを理解しようとしていると感じる。私たちが世界で生きていくうえで最も大事なのは、予測誤差最小化 predictive error minimization PEM ということで、これは生きていくうえでの基本ではないかと思う。世界は敵や危険に満ちているし、いつ命を奪われないとも限らない。そして同時に餌を確保しなくてはならない。そのために何が将来起き、それにどのような準備をしておかなくてはならないかは極めて重要であり、生存そのものにかかわるのだ。筐体に入って守られているAIとはわけが違う。人間に限らずあらゆる生命体が、世界をなるべく正確に認識しようと試みているだろうし、予想を裏切ることは危険でありかつ苦痛であり、不安でもある。(もちろん望んだ以上の快感を得られた、という場合は別であろうが。)そしてそのためにPEMにより心のエネルギーの消費量を最小限にすることは至上命令なのだ。  さてこの問題に、人間関係、特に愛着はどう関係するだろう? 赤ん坊はある情緒的な体験をする。例えば「お腹がすいた!」と感じ、泣くだろう。そしてそれを察した母親からミルクをもらうことで、母親は自分の苦痛を和らげてくれる存在として予測されるようになり、その予測はたいがいは妥当であることが証明される(つまりちゃんとミルクをくれる)。世界は自分の予測通りの姿を形作っていく。母親の方も一生懸命赤ん坊に起きていることを感じ取り、先回りをしてその苦痛を和らげようとするだろう。こうして赤ちゃんと母親が、お互いに予測可能で安全な存在であることが愛着の基本だなのだ。そしてここで具体的に生じているのがメンタライゼーションである。相手の心に何が起きているのかをお互いに察することが出来るプロセスがメンタライゼーションなのだ。  さてここに脳の同期化が関係してくる。同じ体験を同じタイミングで行うから脳波は同期するのである。そして「安定した愛着≒共感≒メンタライゼーションの機能の発揮≒脳の同期化」という関係が成立している。  さらにここに遊びがどう関係してくるのだろうか? それは安全性が確保されている状態で生じる交流であり、相手と自分との目まぐるしい身体的な交流を通して、PEMを行う過程と言えるのではないか。遊びが途中で阻害されてしまうとしたら、例えば遊びのつもりでかみついた時に力が強すぎで、相手が「キャイン」と悲鳴を上げるような時であろう。するとPEMは破綻し、それが相手に痛みを与えたほうに刻印される。こうして相手を叩いたりかんだりするときの力加減は微調整されていく。つまりは幼児は遊びを通して他者を知っていくのであり、それは他者の心を写し取り、メンタライズすることなのだ。

2025年5月28日水曜日

週一回 その7

 ところで精神療法と精神分析に関しては、国際精神分析誌の第91号(2010年)に「精神分析の実践は精神療法といかに異なるか?」というテーマで3人の討論者が寄稿している。米国のFred Busch, ドイツのHorst Kächele, フランスからはDaniel Widlöcherが著者となっている。彼らによる議論は多岐にわたっているものの、転移解釈の持つ意味という文脈ではほとんど語られていないという印象がある。Blass がこの特集の序文で述べているように、フロイトが精神分析とは異なるものとしてとらえた「精神療法」は解釈という純金 pure gold に示唆 suggestion という混ざりものを加えたものという意味であり、そこに面接の頻度による違いという強調点は薄い。週4回でも示唆を加えたものはもう精神分析ではないという意味での「精神療法」だったのである。その上で現代の精神分析においては、精神分析を受ける人が減り、精神療法に流れるという傾向に照らして、「いかに精神療法が精神分析的か」という、わが国のコンセンサスとは逆を行く方針がとられていることを印象付けられる。  私たちの議論に一番身近な Busch が述べるのは、最近の精神分析のあるべき姿として、無意識よりはより前意識的で患者に直接見えるもの、(すなわちヒアアンドナウ)を扱うという流れがあるという。これは精神療法にも分析にも言えることだという。そしてその上で精神療法においては、患者の内的な力動の知識が得られるのに対して、精神分析ではそれをいかに知ることができるかを知ること、すなわち自己分析の能力を得るためのものであるという。また十分に良い精神療法は、精神分析の最初のフェーズに類似するという。  精神分析と精神療法の違いとしては、精神療法では抵抗はセッションが間遠になるためにより難しくなるという。そこで分析においては抵抗をワークスルーすることができるのに対して、精神療法ではそれを同定し、克服することに向けられるという。前意識的な自我は精神療法でも治療の対象となるが、精神療法では治療抵抗のために、それを意識化することが制限される。そしてそれが転移で再体験されることへの制限がかかり、むしろ転移で外的なジレンマを説明する方向に導かれるという。また逆転移を用いることは、それを体験する時間が短いためにより難しくなるとする。  その代わり精神療法では、自己分析ではなく、「方向づけられたより自由な思考 directed freer thought 」を育てることができるというのだ。これは分かりやすく言うと、考えることを考えるのではなく、特定の問題をより自由に考えることができるようになることだという。  印象として言えるのは、精神分析と精神療法を質的に分けるというよりは、むしろ目標の違いを論じているということである。そしてBusch の論文では分析ではより深く、精神療法ではより浅く、というニュアンスは薄く、なぜなら精神分析自体がより表層を扱うべきだからであるという。結局転移をどの程度扱うか、という点での両者の相違はあまり書かれていない。

2025年5月27日火曜日

遊びと愛着 推敲 11

 昨日はいきなりチャット君に脳の同期化のことを尋ねて協力してもらって書いたが、それにしても同期化は驚きの現象である。二人の脳波がなぜ同期化するのか(同期化とは周波数のみならず位相も一致するという、いわゆる「PLV」という現象である)。二つの脳は電気的につながってはいないのに、である!!!

例えば寮生活を送っている女子たちの生理のサイクルが同期化する、という例は、なんとなくわかる。何らかの匂いとかフェロモンとかを介して彼女たちの間で影響を及ぼしあうことなどは容易に想像される。あるいは蛍の光の有名な同期化の例も、それぞれの蛍が周囲の個体の発光を視覚的に追ってそれに自分が合わせるというプロセスも想像しやすい。この間行ったさだまさしのコンサートでも、アンコールのための拍手はすぐ同期化してジャン、ジャン、ジャン・・・となった。これもわかる。耳で聞いて周囲の拍手に自分の拍手を合わせるなど簡単なことだ。しかし脳波がなぜそのような現象を起こすのか。他人の脳波など感じる事すらできないのに。
 そこでこの同期化が治療にとっても必要であると述べているHomls(「愛着を基盤とした精神療法」の提唱者)の、昨年邦訳が出された「心理療法は脳にどう作用するのか」(筒井亮太訳、岩崎学術出版社、2024)を読み直してみよう。たとえば「第3章 関係性神経科学」にはそのことがたくさん書いてある。
 読みだして彼の描いていることの重要さが改めて分かった。実は私は本書の「まえがき」を書かせていただいたので、結構内容を把握しているつもりだったが、全然わかっていなかった、というより忘れていた。AIについて少し学んだあとで読むとまた全然違うのである。Holms はまさに脳をAI的に理解しているのだ。ちなみに Holms のとても短い文章がタダでダウンロードできる。

Holmes J, Slade A. The neuroscience of attachment: implications for psychological therapies. Br J Psychiatry. 2019 Jun;214(6):318-319.

そしてそこにこう書いてある。There is a built-in tension between clients' clinging to insecure modes of relating and therapists' attempts to instantiate active inference. For psychodynamic therapists, this forms therapy's main point d'appui: confounding transferential expectations, offering the client the freedom to think and speak in an unconstrained, non-judgemental atmosphere while recognising that – initially at least – such overtures are likely to be ignored, mistrusted or actively rejected.

実はこの文章の中の “therapists' attempts to instantiate active inference” の部分が今一つ分からなかった。そこでダメもとでチャット君に聞いてみると、非常に明快に教えてくれた。要するに active inference (能動的推論)とは「脳が環境とのズレ(不確実性)を最小限にしようとする能動的なモデル更新のことだという。そしてそれは Predictive coding(予測符号化)モデルの応用として登場したというのだ。人は「自分の世界観(予測モデル)」と現実に差が出ると、それを埋めようとする。その手段としては自分の予測を修正する(内的な変化)か、環境や相手を変えるように働きかける(外的な行動)かのどちらかだ。そして instantiate active inference とはクライエントの予測誤差を減らすような体験を、治療者が意図的に“現実のやり取り”として提供することだという。ひえー!この3つの単語にそんな深い意味があったなんて!つまり「アクティブ・インファレンスの実現」とは治療者が行動を通じて、クライエントの世界観の“ズレ”を減らすための具体的経験を提供しているというのである。
そしてチャット君は以下の具体例を挙げてくれた。

否定されることを予期しているクライエントを例に取ろう。
クライエント:「どうせ私なんか、何言ってもわかってもらえないんです。」(彼の脳の“予測モデル”は「他人は冷たい」である。)
治療者:「そう感じること自体が、あなたにとってどれだけ孤独だったか、僕はとても想像しています。」(治療者は予測モデルを“裏切り”、新しい関係モデルを提供している。)

Holms としてはこのような営みを通じて治療者と患者の心の同期化を行うのがメンタライゼーションであると考える。上の例で分かる通り、患者がある種の治療者に対する誤った推論を持ち込み、治療者はそれに対してそれを修正するようなアプローチをする。そうしてお互いの思考の誤差を狭めていくのが治療であるという。そして治療者の役割として出てくるのが、「借り出された脳モデル」である。

2025年5月26日月曜日

レクチャーデイ 強度のスペクトラム ②

 解釈を超えた何か——「分析的な出会い」

 BCPSGBoston Change Process Study Group)は、転移解釈を超える治癒機序として「出会いのモーメント(moment of meeting)」という概念を提唱した。

治療者と患者のあいだに起こる、真摯で予測不能な相互作用の瞬間それは患者の自己感に変化を与え、関係性そのものを変容させる言語的・理知的解釈ではなく、「暗黙知(implicit relational knowing)」として作用する

代表的な事例:患者が「私のことを愛していますか?」と突然問いかけた瞬間治療中に思わず二人が笑い合う場面外出先で偶然会った際の相互作用

このような出会いが起きるためには、治療者側のauthenticity(本物らしさ)やgenuinenessが重要である。Mitchell1988)は、治療者がリアルな存在として応答することが、患者が閉じた内界から抜け出す契機になると述べている。

対人関係神経生物学と右脳のシンクロニー

近年では、精神分析と神経科学、愛着理論などを統合する「対人関係神経生物学(Interpersonal Neurobiology)」の視点が注目されている。

● D.Sternの研究を基にした「出会いのモーメント」が脳の同期化と結びつく可能性 ● G.Dumasらによる実験では、模倣行動の際に当事者の右脳活動が同期することが確認された ● A.Schoreは、愛着期において母子の右脳どうしが情動を通じて結びつくことが、治療関係にも応用可能だと主張

Jeremy HolmesArietta Sladeは、「愛着に基づく精神療法(AIP)」を提唱し、徹底した受容(radical acceptance)とメンタライゼーションを通じて、治療的安全基地を再構築する重要性を述べている。

本発表の結論:強度のスペクトラム

「分析的な出会い」は新たな治癒機序として捉えることができるその出現頻度(強度)は、週4回の方が週1回よりも高い可能性があるしかし、週1回であっても十分に「分析的な出会い」は起こり得るよって、頻度の違いは量的であり、質的な断絶を前提とすべきではない

文献一覧

·         Gabbard, G.O. (1999). A contemporary psychoanalytic model of therapeutic action. J Psychother Pract Res, 8(1), 1–10.

·         Wallerstein, R.S. (1986). Forty-Two Lives in Treatment: A Study of Psychotherapy with Schizophrenics. The Guilford Press.

·         Boston Change Process Study Group (2010). Change in Psychotherapy: A Unifying Paradigm. Norton.

·         Mitchell, S.A. (1988). Relational Concepts in Psychoanalysis. Harvard University Press.

·         Bohm, T. (1992). Turning points and change in psychoanalysis. Int. J. Psychoanal., 73, 675–684.

·         村岡倫子 (2000). 「精神療法における心的変化——ターニングポイントに何が起きるか」. 精神分析研究, 44, 82–92.

·         Dumas, G. et al. (2011). Inter-brain synchronization during social interactions. PLoS ONE, 6(8), e22666.

·         Holmes, J., & Slade, A. (2021). Attachment-Informed Psychotherapy. Routledge.

·         Schore, A.N. (2019). Right Brain Psychotherapy. Norton Professional Books.(小林隆児訳(2022)『右脳精神療法』岩崎学術出版社)

 

2025年5月25日日曜日

レクチャーデイ 強度のスペクトラム ①

 昨年4月に行った分析協会主催の「レクチャーデイ」の発表を文章で提出するという仕事を全く忘れていた。そこでチャット君の力を借りて作成した。前半は以下のとおりである。(チャットによるまとめの絶対的なメリット:タイポが原則的にはあり得ないこと。)


Lecture Day 10回 令和6414日 「頻度について考える : 精神分析と精神療法の共存」

   「分析的な出会い」と強度のスペクトラム


はじめに

精神分析と精神療法の異同については、これまでもさまざまな議論が展開されてきた。その中で「頻度」は特に重要な論点の一つであり、両者を区別する上でも、また共存の可能性を探る上でも不可欠な視点である。

しかし、頻度について議論を深めるためには、それ以前に考慮すべき前提があると私は考える。以下の二点がその出発点である:

1.     精神分析において何が「治癒機序(therapeutic action)」として機能するのかの再検討

2.     精神分析と精神療法の治癒機序は異なるのか、という問い

まず、米国精神分析協会の定義を紹介したい: 「分析的精神療法は精神分析の理論と技法を基盤としているが、頻度は週1回と低く、通常はカウチを用いず座位で行われる。とはいえ、自由連想の使用、無意識の重視、治療者・患者関係への焦点といった点で、精神分析に極めて近い。」

私自身の立場は、おそらくこの定義に近いものであり、以下の観点から整理しておきたい。

精神分析と精神療法には、共通の治癒機序が働いていると考えられる。そのため、両者を本質的に区別する必要はない。この立場は、高野晶先生の「近似仮説」や藤山直樹先生の「平行移動仮説」と親和性がある。
すなわち、精神分析は精神療法のスペクトラムの一形態として理解されるべきである。
条件が等しければ、週4回の頻度が望ましいだろうが、「週4でなければ本物ではない」といった議論は不適切である。
4回か週1回かという頻度の選択は、単に「どちらが優れているか」ではなく、経済的・時間的制約や治療者側の事情などを踏まえた実際的な妥協である。

なお、藤山先生の「平行移動仮説」とは、精神分析の技法や病理論を、訓練分析を受けていない治療者による週1回の臨床実践にそのまま応用可能とする考え方である。

何が「治療的」なのか?——いわゆる「治癒機序」について

 頻度の問題を考察するにあたって、「治癒機序(therapeutic action)」の検討が不可欠である。その代表的な議論として、James Strachey1887–1967)が1934年に提唱した「変容惹起的解釈(mutative interpretation)」がある。これは転移解釈を通じて心的変化を促すプロセスであり、長らく精神分析の中心的治癒概念とされてきた。

Stracheyによれば、
患者は攻撃性などの本能的衝動を治療者に向ける。
その結果として、患者は自己の内的対象と現実の治療者の姿とのギャップに気づき、新たな外的対象として治療者を受け入れるようになる。
このプロセスが積み重なることで、患者の内的対象イメージが修正されていく。
治療者はその間、自らの逆転移を吟味しつつ、情緒的反応を抑制し、解釈を通じて対応する。

この転移解釈モデルが王道とされる一方で、それとは異なる方法論や治療的立場の模索が始まる契機となったのが、いわゆる「週1回」の精神療法実践である。頻度が低くても効果が得られる事例が報告され、精神分析の定義そのものが問い直されるようになった。

メニンガー・クリニックにおける試み

 代表的な実証研究として、196070年代に Otto Kernbergらの主導により、BPD(境界例)患者を対象としたPsychotherapy Research ProgramPRP)が実施された。

● BPD治療において、標準的精神分析と支持的精神療法の効果比較が目的とされた。
● 3群(精神分析/洞察的精神療法/支持的精神療法)に分類し、治療成果の違いを検討。
結果的に、頻度や技法にかかわらず、治療効果には有意差が見られなかった。
洞察によらず変化が生じる例も多く、支持的アプローチにも「構造的変化」が確認された。

この結果から導かれたのは、以下のような結論である:

「すべての治療は常に表出的であり、かつ支持的である」(Wallerstein
治療的介入は状況に応じて、両者の間を往還する(Gabbard
治癒機序としての「転移解釈」だけを特権視すべきではない


2025年5月24日土曜日

週一回 その6

 海外における治癒機序に関する理論

 ここまでで論じた我が国におけるコンセンサス(「週4回は転移を扱え、週1回は転移を観察する」)は海外での精神分析の議論にも見られるのであろうか?結論から言えば、そのような直接的な表現に出会うことは、私が調べた範囲ではあまり見られない。

 たとえば海外の精神療法についての文献としてわが国にもなじみ深いGlenn Gabbard の「精神力動的精神療法」(池田暁史訳、岩崎学術出版社)を参照してみる。この本では転移についてかなりの個所で述べている。そして力動的精神療法の基本原則(p4)として「患者の治療者に対する転移が主な理解の源となる」と述べるが、その後に「治療過程に対する患者の抵抗が治療の主な焦点になる。」とする。つまり転移解釈に至らない場合には患者の抵抗を扱うべし、というごく一般的な立場を表明しているのである。
 さらには転移の解釈については次のような警句を発してもいる。「原則としてセラピストは転移の解釈を患者の気づきに接近するまで先延ばしにするべきだ。」(ギャバ―ド、2010)「セラピストによって与えられる解釈はめったに劇的な治癒をもたらさない。」しかしこれは精神分析と精神療法の間に区別を設けたうえで後者において特に論じているわけではない。

 ところでGabbard が頻度について触れているところがある。「しかし週一回以下の低頻度では、転移に焦点を当てることは難しくなる(p79)」とも述べている。しかしここは翻訳上の問題がありそうだ。相当する箇所を原書で読んでみる。66ページであるが、まず表出的では2,3回。支持的では週一回あるいはそれ以下であるとし、long-term psychodynamic psychotherapy is extremely difficult to do at frequency less than once a week, because the continuity from session to session becomes disrupted and because it is difficult to focus on transference issues at lesser frequencies. (p66)

Gabbard (2004) Long term Psychodynamic Psychotherapy A basic text. American Psychiatric PUblishing. Washington DC.)

つまりここを読む限りでは、長期力動的は少なくとも週一回だよ、と言っているようだ。「週一回以下の低頻度」はより正確には「週一回未満の低頻度」と訳されるべきなのだ。

週4回未満でも転移解釈を主たる治療方針とする療法などが目に付き、それがいわゆるTFP(転移に焦点づけたセラピー transference focused psychotherapy. Clarkin, 2007) である。患者と治療者は最初に信頼に基づく関係を構築し、同時にしっかりとした境界を設定する。そして行動パターンや感情や自己感を探索し、それらがその人の対人関係の持ち方にどのような影響を与えているかを検討する。その際TFPに特徴的なのは、患者と治療者の転移関係における明確化、直面化、解釈が治療の主流となる(Gabbard, 448)。しかも治療早期から、転移の中でも特に陰性転医が扱われるとのことである。
このTFPはBPDの治療を目的として始まったが、他の障害を持つ患者についてもその対象を広げている。このTFPが興味深いのは治療構造が週2回という、週一回を基本とする治療者によっても手の届く範囲の構造と言えるだろう。
 この療法に関するある実証研究では、BPDの治療に関して支持療法とDBTとの比較対象で行われ、TFPではメンタライゼーションの能力がより高まったとされる(Clarkin, et al, 2004)。また別の研究 (Doering et al., 2010) では地元の経験ある治療者よりも症状や心理社会的機能等において効果があったという。
このうち前者においては、支持療法では毎週一回のセッションを行い、転移についてはそれをフォローしマネージするものの明示的な解釈を行わない、とある。それに比べてTFPでは積極的な解釈を行ったという。(興味深いのは、ここで転移の解釈の侵襲性などについて、なにも特に論じていないということである。)

 ここで一つ。週2回までセッションの頻度を上げた場合は、藤山の同様の提言に見られるように、精神分析的な、転移解釈を主軸とする治療を行うある程度の根拠となるのではないか、それでは「週一回」もせめて「週2回」にする努力はしてもいいのではないか? ただしPOSTの中にその様な動きはないようである。

 ともあれ米国精神分析協会も米国心理学協会も、そのHPでうたっているのは精神分析と精神療法がいかに類似しているかである。それは以下のような文章からもうかがえる。「[頻度やカウチの使用など]の違い以外は、精神分析的精神療法は精神分析と極めて近い。つまり自由連想が用いられ、無意識を重視し、患者・治療者関係を重視することである。」(米国心理学協会のHPより)(岡野 2023)それははたして妥当なのか?精神分析と精神療法の差別化についてここまで論じている私たちにすれば、少し拍子抜けという気もする。

岡野 憲一郎 (2023) 精神分析的精神療法の現状と今後の展望 .最新精神医学 28 (3), 195-201.

 「コンセンサス」が海外の文献にみられないのはなぜか?
 

一般に海外の文献では精神分析的精神療法と精神分析プロパーを質的に異なるものと考えるよりは、両者を同質のものとして、あるいは後者を前者の特殊例と見るというニュアンスさえ感じられる(岡野、2023)。それはなぜだろうか。つの理由はこの議論がすでに過去に行われ、一定の、それも我が国の「コンセンサス」とは異なるコンセンサスが得られたからである
 そこに至る経緯をいわゆるメニンガープロジェクトにみることが出来る。そこでは42人の患者を精神分析プロパーと精神療法に分け、後者を表出的療法、支持的療法として分けて詳細な研究が行われたが、そこで精神分析で開始した患者のうち比較的分析手法が守られたのは10名ということになった。そして分析においては、ヒアアンドナウの転移解釈が最も重要なテクニックとして用いられた。
 しかしそれらの治療は極めて支持的な手段である入院を必要に応じて併用していた。この研究をまとめて、Wallerstein は、「ヒアアンドナウの転移が治療効果を発揮したとは言わず、表出的な側面と支持的な側面が複合的に働いた」と結論付ける。そして議論はむしろ精神分析が受けられない(経済的な意味で、あるいは患者にとって適切でないという意味で)ケースの治療に重点を置かざるを得ず、そこでは表出的か、支持的か、あるいはその両方かという議論が主たるテーマとなったのである。言葉を変えれば、「週一回」のケースにおいて、どこまでヒアアンドナウの転移解釈のみで有効なのかが問題となっている。決して日本における「コンセンサス」、つまり「週一回ではヒアアンドナウの転移解釈は無理です」という理解は最初からなされていないことになる。さもなくば「精神分析か、支持療法か」という選択肢しかなくなってしまうからである。別言するならば表出的精神療法という治療法が存在を許されて、実際に行われていることが、「コンセンサス」を否定するのである。

 むろん米国において変容惹起性解釈の議論がなかったわけではない。それどころか Strachey により提唱された転移解釈の重要性についての議論は、Merton Gill の「今ここで」のそれについての議論として「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)のであり、「今ここでの転移解釈が絶対的に主要な技法である interpret of the trans. in the “here and now” as the absolutely primary technical mode」というギルの提言は、メニンガーのリサーチ(PRP)における「信条credo」であったという(Wallerstein p55)。PRPでリーダーシップをとった Kernberg も今ここでのネガティブな転移の解釈こそが治療にとって有効である(そしてそれをしない支持療法は効果がない)と主張していたことも大きく影響していた。しかし結局はあらゆる手法は支持的に流れたというプロセスの中で支持を失ったという感があるのである。また「今ここで』だけでなく過去の出来事にも同様の重要性を見出すべきであるというLeo Stone の論文(1981)もこの流れの追い風になったらしい。このPRPの流れ全体から言えることは、精神分析におけるヒアアンドナウの転移解釈の唯一絶対性ということが証明されず、治療はそれぞれ独自であり、解釈による洞察とともに様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスであるということを示したということである。

  以上の論述から、「コンセンサス」は世界における精神分析の潮流とは異なる路線であると理解せざるを得ない。なぜならいわゆる表出的精神療法は支持的精神療法とともに「分析的精神療法」として立派に存在しているからである。そして全体の流れとしては、表出的精神療法こそが、精神分析の理念を受け継ぐ「精神分析的」なものであり、ストレイチーモデルに従ったものということが出来るのだ。だから精神分析の世界では、分析的精神療法を、精神分析プロパーに準ずるものとして扱っているわけである。こうすることで、週一回の治療でも精神分析の精神は生きているのですよ、と主張が出来る。つまり日本の「コンセンサス」とはむしろ逆のことが起きているらしいのだ。彼らにとってはそちらの方がむしろ「コンセンサス」なのだ。

私はこのどちらの「コンセンサス」に軍配を上げるかという議論はしたくない。ただ事実を述べているだけである。精神分析的な方針を基本的には堅持する表出的な精神療法が生き残る道はしっかり示されている気がする。その一つの例は、すでに述べた「転移に焦点づけられた精神療法 TFP」である。ただ両者の歩み寄りは考えるべきではないかと思う。
一つは(日本の)「コンセンサス」の再考である。「コンセンサス」は転移は扱わわないという前提に立つが、実際はその限りではないということはTFPなどの治療効果についてのエビデンスが示しているといえる。転移は扱えるのであるとしたら、POSTはもうすこしヒアアンドナウに開かれてもいいであろう。もう一つはPOSTに流れる治癒機序が、実は表出的にも、精神分析にも流れている可能性を探る事であり、それはPOSTの独自性へと目を向けることに繋がるであろう。つまりPOSTは精神分析でないもの、精神分析をこえたPOSTであることの意義が示されなくてはならない。


2025年5月23日金曜日

遊びと愛着 推敲  10

  ところでここで Holms が述べる脳の同期化とはどのようなものなのか?

脳の同期化のプロセス

 最近脳の同期化の問題が取りざたされている。二人の人間に何らかの交流をしてもらい、両者の脳波やfMRIの撮像により同期化が見られることが、その両者の交流の性質を反映しているということだが、どういうことだろうか?二人の脳が、電気的につながっているわけでもないのに、脳波の同期化ということがなぜ起きるのか。チャット君にも手伝ってもらい、以下のことが分かった。

まず同期化とは周波数のみならず位相も一致するという現象を言うという。それを「PLV(Phase Locking Value)」という。まるで「脳波の足並み」がぴったりそろった状態なのだ。全く不思議なことだが、なぜそれが起きるのか。例えば二人が一緒に映像を見たり、音を聞いたりすると、きっと位相は合うだろう。ある瞬間に二人が同時に一緒の体験をするからだ。でも会話をしていてもそれがなぜ生じるのだろうか。それについていくつかの仮説があるという。ここからはチャット君の文章を引用する。

① 共有された外部刺激による時間合わせ  たとえば二人で同じ映像や音声を同時に受け取ると、その入力に対する脳の応答タイミングが一致してくる。

② 相互の身体的ミラーリングによる同期 人間は無意識のうちに、相手の仕草・表情・声のトーンを真似ることがある。 これを「ミラリング」「感情的同調(emotional entrainment)」というが、実はこれも脳波のリズムを揃える力があるとされている。たとえば、笑顔で話す相手に自分もつられて笑顔になる。そこでは例えば表情筋の動きが一致するだろう。

③ 心的共鳴(mental resonance)仮説

二人の間に深い共感や理解が生じたとき、内部状態が収束してくるという仮説。たとえば、二人が「今、同じことを“わかっている”」という瞬間。その「わかった!」という内的状態が、偶然にも脳内の同じネットワークを活性化させる → 結果として、同じ周波数帯+同じタイミングで活動が起きる

これは、「意味の共有がタイミングを揃える」という、かなり興味深い逆照射的仮説だと思う。

④ 一緒に何かをすること自体が、共通のタイムスケールを生む

社会神経科学の研究では、共同作業や会話、共感的な視線の共有などが、 共同注意(joint attention)や共同意図(shared intentionality)を生み出すとされている。

これはつまり、二人が別々のリズムで動いているのではなく、「この時間を共にしている」という感覚を持つとき、 そのリズムが徐々に「調律」されていく。この「共にある」という時間的構造が、脳活動にも反映されるのではないか――という考え方である。

2025年5月22日木曜日

遊びと愛着 推敲 9

 精神療法は愛着の問題に向かっている

ここで精神療法は愛着の問題に向かっているということについて述べたい。最初分析の世界ではスピッツやボウルビーは外れ者扱いをされていたことは興味深い。ジョン・ボウルビーは英国精神分析界という立派な出自を持っていて、ロンドンでトレーニングを受けてメラニー・クラインの弟子のリビエールから分析を受けたが、どうしてもクライン理論になじまなかった。彼はどうして母子関係の愛着の問題が精神分析で見過ごされるのか全く分からなかった。動物における愛着行動はまさに早期の母子関係の重要さを証明しているではないか、もっと動物行動学から学ぶべきだ、などと考えたのである。彼自身が幼少時に寄宿舎に入れられて、母子分離のつらさを身をもって体験した人だったということも大きい。 しかし実は全く同じことを考えていたウィニコットなどは、クラインやそのほかの精神分析の大御所に忖度して、「ボウルビーのような存在は迷惑だ」などと言っていたのである。そして愛着理論はその後、メアリー・エインスワースやメアリー・メインといった精神分析とは関係ない研究者たちの手を経て、分析から離れていった。さらに一般心理学、実験心理学のフィールドで極めて盛んに論じられるようになったのだ。

 さて精神分析の世界では、人間がいかに変わるか、心の構造的な変化を起こすかについて、そこに転移や解釈といった、治療者と患者の間に生じる力動と、それの知的操作により得られる洞察という、いわば認知的なプロセスが重要であるという議論が盛んにおこなわれた。しかしその限界がいろいろ検証され、同時に生まれた米国の関係精神分析の流れにより、洞察よりは関係性、ということが叫ばれるようになった。つまり治療者が患者にどのような知的な解釈を伝えるか、ではなく、患者とどのような関係性を持つか、の方が重要だという機運が高まってきたのである。 こうして精神分析でも二者関係の情緒的なつながりの重要性ということが叫ばれるようになった。これは早い話が治療者患者の関係を母子関係になぞらえることになるが、実は転移の解釈という文脈にも、その転移自体が養育状況に似た深い情緒的な関係性の中で生じるという議論があったことは興味深い。ただフロイトも愛着段階については論じなかったこともあり、エディプス期以前の議論には抑制がかかっていたことも確かである。

さてやがて精神分析と愛着理論がいよいよ繋がるわけであるが、そこには二人の人間が関係していた。彼らにより愛着の問題は精神分析の舞台に引き寄せられたのである。
一人はアラン・ショアである。彼の登場により、愛着がうまく行かなかったことでどのような精神のダメージが生じるか(いわゆる「愛着トラウマ」)について脳科学的に詳細に論じられることとなった。そして何よりも二人目のピーター・フォナギーの登場である。彼はメンタライゼーションの理論を提示したのだが、彼のすごいところは愛着の問題が精神の発達の根源にあることを見抜き、それをウィニコットの理論を引きつつ論じたことにあった。メンタライゼーションは非常に巧妙に、ウィニコット理論と愛着理論と、愛着トラウマの理論を結び付けたのであった。

最近では「愛着を基盤とした精神療法」(J.Holmes)などが提唱されている。(その提唱者であるHolms は、治療者―患者の脳生理学的な同期 synchrony を重視し、それが治療における変容性を持つ瞬間 mutative moment に重大な影響を及ぼすと考えている。そしてそのために治療者は徹底した受容 radical acceptance を心がけ、分析的な解釈に先立つものとして患者の情動や関係性の世界の保障 validation を重んじるべきであるとする。さらに同療法ではメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の神経連合を促進するものとしてとらえられている。

2025年5月21日水曜日

週一回 その5

 我が国の「週一回」の議論の特徴とその限界

 これまでの我が国の「週一回」の議論は、ある一定の学問的なレベルに至っていることは明らかであるものの、それはある限定された前提に基づくものということが出来る。そこでは治癒機序として基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈の重要性を重んじるという立場に立つのだ。そしてそこでの「コンセンサス」、すなわち「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」の根拠としては、週4回という治療構造では「供給が十分」であり、「週に一度のセッションではそうではない」(2023, p.67)ため、週4回では容易に転移の収集が出来、それを扱うことが可能であるものの、週一回ではそれが難しいということである。

 ここで二つ問題をあげるとしたら、まず第一には、この「週4回では転移解釈が可能で週1回では難しい」という線引きはやや恣意性ではないか、という点である。もちろん「コンセンサス」の内容は、一般的な傾向としては言えるかもしれない。ただし転移の集積は週4回という設定を設けることで自然と生じるのかと言えばそうではない。週4回でも患者の抵抗が大きく情緒的に深まらずに疎遠なままの関係もあれば、週一回でもより充実した深い関係性が築かれることもある。しかしこの議論に立ったとしても、「週1回」で転移が扱えないという結論は導かれず、せいぜい「より難しくなる」という表現の方が妥当であろう。そしてもしPOSTのように「転移をそもそも扱わない」という方針を最初から取るとしたら、そこでは数少ないが転移が扱えるような治療状況を切り捨てることになり、大切な治療の機会を失うことではないか。むしろ妥当なのは、週何回会うかに関わらず、転移の収集の程度を見ながら、それを扱うかどうかを判断することであろう。岡田の砂金の比喩を用いるならば、たとえ金の鉱脈の中心(週4回)ではなく周辺(週1回)でも、砂金が存在する限りはそれを収集された場合は、それに応じて分析的な治療を行うことが出来るのであろう。それは最初から砂金を探さないという立場とは異なる。

 ただしこの第一点目は、「コンセンサス」への決定的な反論とはならないであろう。それを相対的なものとして割り引くならば、「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」は依然として妥当であると言えるからだ。
 しかしここでいう恣意性、ないしは蓋然性の問題は様々な形を取りうるという点も付け加えておきたい。そもそもフロイトが週6日で患者と会っていたことを考えると、週4回はすでに「薄まって」いるはずだが、その議論はなぜか乏しい。また最近ではアイチンゴンモデルが変更され、国際的には週に3回も分析的なトレーニングとして認められることになったが、そうなると「週4以上では」という議論はどうなるのだろうか。また藤山氏が語っているように、週2回はすでに週一回よりはるかに分析的であるという見解もある。(個人的には私も賛成である。)するとますます「週4回とそれ以下」という線引きは相対的、恣意的ということになりかねない。

「コンセンサス」の第二の問題は 数十年前に提唱された Strachey の提言を現代まで持ち越している点である。現代の精神分析においては、治癒機序の議論も多元的になりつつある。ヒアアンドナウの転移の解釈のみが治癒機序であるという考え方は1970年代以降メニンガーにおけるPRPの結果を受けて大きな再考を余儀なくされてきた歴史がある。それを現在の議論にそれこそ「平行移動」して論じることには問題があろう。この点については、以下の章で再び扱うことになる。


遊びと愛着 推敲 8

 あらゆる精神療法は遊戯療法である

このテーゼがますます最近意味を持ってきているのは、愛着の問題が注目を浴びているからだ。人間関係の基盤に、愛着の形成やその不全の影響が考えられるようになって来ている。そしてその関係でたとえば「愛着を基盤とした精神療法」(J.Holmes)などが提唱されている。(その提唱者であるHolms は、治療者―患者の脳生理学的な同期 synchrony を重視し、それが治療における変容性を持つ瞬間 mutative moment に重大な影響を及ぼすと考えている。そしてそのために治療者は徹底した受容 radical acceptance を心がけ、分析的な解釈に先立つものとして患者の情動的で関係性の世界の保障 validation を重視すべきであるとする。さらに同療法ではメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の神経連合を促進するものとしてとらえる。なぜこれが重要かといえば、じゃれ合い(1)で獲得されていたはずの相互性が治療場面で問われるからだ。それが基盤にないと出会いやふれあい、さらには二者関係としての治療関係は成立しないだろう。しかしこれは従来の精神分析的な考え方とはあまりに異なるものというべきかもしれない。

じゃれ合いを通して何が成立するか

何よりも不思議なのは、相手が傷つけてはいけない自分になること、そして場合によれば相手は自分を犠牲にしても守るべき存在となること。つまりは愛他性の獲得となること。私がこれを愛着だけでなく、じゃれ合いにその本質を求めているのは、愛着はなんとなくそれが「静的」なニュアンスを伴うからだろうか。愛着形成により人は他者を信頼して、自分の生きる意味を与えてもらう。CPTSDではそれが不全となり、自分の価値を持てず、相手とかかわることが出来ない。じゃれ合いはこの一見静的なプロセスの中で実際に生じている現象を描いているからだ。


2025年5月20日火曜日

遊びと愛着 推敲 7

 昨日の続き。

動物どうしのじゃれ合いはきょうだいとの間でも、番う相手との間でも見られるようになる。そしてそれはラボのケージに入っているラットと人間との間でも再現される。こうしてじゃれ合いは科学的な研究対象となっているわけだ。
そこで研究者たちが発見したのは、それがラットの生後何週間かの間に見られること、そしてそれが強烈な快感を及ぼすらしいこと、そしてそれが適応的であるらしいということである。それはじゃれ合いを経た動物がその後ストレス耐性を得て、不安が軽減されるという実験結果から推察されることであり、そしてそこにはじゃれ合いの幾つかのルールないし規則性が有ることも分かった。例えば交互性などである。つまり一方的な追っかけ役、と言うのはなく、だいたい均等に、やって、やられてを繰り返すのであり、だからこそ快感なのであろう。反転現象こそが面白さの源泉なのである。

じゃれ合いのグラデーション

そこで「遊戯療法」に少し近づく。人間においてもじゃれ合いは同様に適応的ではないか、という仮説のもとに研究が進められているが、どうやらこちらの方はもう少し込み入っている。子供の親とのじゃれ合いはしばしば子供の暴力性と結びつくという。特にネガティブな感情が伴ったり、親の優位性が保てなかったりする。このことから仮説として浮かび上がるのは、じゃれ合い、ないしは遊びのグラデーションである。二種類を考えたら、それぞれのニュアンスや意味あいは違って当然だからだ。

じゃれ合い(1)

まず生直後の母子間のじゃれ合いは、愛着の段階で生じる。そこでは最初は力の差は絶対であり、そこでのやり取りはおそらく子供が将来子育てをする際に役立つことを学ぶ。つまりは対象を自分の一部とみなすという体験である。子は親を思いやる。つまり親は子供に同一化する。子供は同一化される体験を有するが、同時にその親を本気には攻撃しない、つまり「じゃれ合う」という体験を有することで、親に同一化するという体験を持つ。するとそれは自分が親になった時に子を思いやる(同一化する)体験の素地となるはずだ。あるいは性愛性とも関係する可能性が有る。その場合は少し違った形での同一化であろうが。ともかくも相手を同一化の対象とみなして接するというプロセスが、このじゃれ合い(1)だ。

じゃれ合い(2)

その後のじゃれ合いは思春期に至るまでに生じ、相手を思いやるというレベルと相手を仮想敵ないしはライバルとみなすレベルの両方がまじりあう段階になる。それは最初はそれまで愛情を注いでくれた親からの手痛い扱いやあからさまな攻撃性の表れの形をとり、子はそれを自分が独り立ちするよう促されていると受け取って親元を離れるかもしれない。またきょうだい通しの間のかなりラフなじゃれ合いは、実際に狩りの練習の意味を持つかもしれない。そこにはいじめに近いものも含まれよう。そこでは自分の攻撃性の限界を試し、それが発揮された際の効果を見極めるという意味を持つ。これが重要なのは、実際の狩りでは自らの攻撃性は十分統制されていなくてはならないからだ。狩りの相手はおそらく憎しみの対象では必ずしもない。むしろ感情すらない「モノ」扱い。最小限の力の発揮により仕留めるべき相手なのである。余計な感情の暴発はかえって命取りになりかねない。これは例えばボクシングのスパーリングや実際の試合、武道における組手や試合に相当するかもしれない。
このように考えるとじゃれ合いは攻撃性や性行動の練習、というよりは、よりニュアンスを持ったものとして理解されるべきかもしれない。性行動の方はともかく、攻撃性は、オスどうしのメスをめぐる争いと、捕食のための狩りという二種に分かれるべきであろう。じゃれ合いはその予行演習を行っているのだ。

ともかくもじゃれ合いは生直後の、愛着に含まれ、母親との間で行われるものから、その後のきょうだいを通して行われるものまでにグラデーションがあると考えるべきであろう。すると前者は必須のもの、子育てに必要なもの、後者は他の個体の脅威となるべきもの、あるいは狩猟に用いられるものという意味を持つのだ。


2025年5月19日月曜日

遊びと愛着 推敲 6

 「遊びと愛着の推敲」は6まで来たが、もともとの文章はここで終わっていた。つまりこれ以上は推敲するものはないので、本来は「遊びと愛着8」として再開する(つまり推敲する前の文を書き進める)べきだが、もうこのまま推敲で行ってしまおう。

まず原題を思い出しておこう。「遊戯療法と精神療法- 両者の懸け橋としての愛着理論」

これまで考えてきたことを振り返ってみる。「じゃれ合い(RTP)」は人間を含めた動物レベルで、特に哺乳類で顕著にかつ普遍的に見られる現象である。それは感情を持つ生命体が育つうえで最初に通る段階だろう。あらゆる動物が他の個体とのかかわりあいの中で生きていく以上、その基礎を作る段階の通過が必須となると考えられる。そして私たちにとって極めて印象深いのは、この時期に成立した関係性は半永久的だということである。 この時期に人間が養育者として接した動物はおそらく死ぬまでその人間に強烈な愛着を示す。特に驚くべきなのは、人と人との間のそれをはるかに超えたレベルでの関係の深さである。例えば遠くから「育ての親」である人間を見つけたライオンは、まるで磁力に魅かれる砂鉄のようにその人に引き寄せられて駆け寄り、飛びかかる。もちろんライオンにとってはその胸に飛び込んでいるつもりだ。そしてそこでは身体的な接触はある種の決定的な意味を持つ。それは人と人との関係以上でさえある。(成獣となったライオンとその育ての親である人間との間で見せるような感動的な再会のシーンを、人間の親子が見せることなどあるだろうか?)

ここでの特徴は生後しばらくの間に生じたであろう身体的な接触の影響の大きさであり、そして再会の際もその身体接触が、大きな快感とともに求められ、成立することである。ここで私たちが興味深く感じるのは、例えばライオンのように、見知らぬ人間には攻撃性を向けるであろう、そして私たちがその意味で最も恐れの対象となるべき成獣が、まるで子供の様に人間にじゃれつき、甘える姿である。そう、ライオンが自分の何分の一ほどの大きさになった人間に(見かけ上)襲い掛かり、戯れようとするのはまさに「じゃれ合い」の再現といえる。そしてその時はライオンは爪を肉球の下に格納する。(正確に肉球の「下」かは知らないが、あくまでもニュアンス、である。)
じゃれ合いでもし相手を傷つけたとしたら、その痛みは自分の痛みになってしまうはずだ。つまりライオンは相手に同一化し、「共感」しているのであるが、どうしてそんな複雑なことが成立するのだろうか。私たち人間は共感がいかに複雑で難しく、人間でさえもしばしばそれを十分に発揮することが出来なくなることを知っている。しかしその極めて複雑なことをしない限りは動物は子供を育てることが出来ない。だからなのだろう。さもないと魚類のレベルで飢えをしのぎながらメスによって岩肌に植え付けられた卵に新鮮な海水を送り続けるオス(何の魚だったっけ?)や、冷たい風に耐えながら卵を温め続けるなんとかペンギンのような芸当は出来ない。
こう考えると動物の親たちは、「大きな思いやりを有している」というよりは、脳がそれを自分の一部として認識するのはないかと思う。自分の身を守ることと、子孫の身を守ることは、生物学的に差が生じないような仕組みが成立しているのだろう。
最近脳の同期化ということが言われ、「他」と「自」については脳で興奮する部位が違うと言われているが、そうなるとじゃれ合いの対象はそもそも「他」としては認識されないのではないか。といって「自」でもなく、おそらく「他」と「自」の両方が共鳴するような対象となるのではないか。

2025年5月18日日曜日

週一回 その4

 週一回に関する「コンセンサス」とPOST

 藤山氏の提言は、週一回の心理療法においては、転移を扱うことの難しさを説いていたわけだが、我が国における議論はその提言に概ね賛同し、それを受け入れる方向に向かっているという印象を受ける。山崎氏の論文(2024、p73)にはこの藤山の提言をより精緻な論述で支持する形をとっている。
 山崎氏は Meltzer や飛谷氏らの論文を参考に、「転移の集結」(転移がおのずと集まること)と「転移の収集」(転移を能動的に集めること)という概念を使い分ける。そして分離を体験するための密着な体験が週4回以上に比べて得られないために転移の集結が生じにくいというD.Meltzer の見解を支持する。さらに山崎氏はそれを例証するような臨床素材を示している。氏は週一回のケースにおいて転移が当面性を有していなかったにもかかわらず、その解釈をすることによる能動的な「転移の収集」を試みて失敗したという治療経過を示す。そして氏が「転移の収集は転移解釈によりなされる」という考えを「週一回」に「平行移動」させたことがその原因であったとする。

 山崎氏はこれまでの「週一回」に関する議論を総括したうえで、以下のように述べる。「『週一回』は『分析的』にするのは難しいという結論が出ているといっていいだろう」(2024,p20)。つまりこれは最近の複数の分析家や精神療法家の間のコンセンサスであるというのだ。そしてそれにもかかわらずこれまで彼らの多くが「『週一回』は『分析的』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきた」のだという(2024,p19)。そしてここで現実に直面する必要を説いていることになる。ここでこの山崎氏の提言を「コンセンサス」と呼ぶことにする。

 そのうえで山崎氏が提案するのは、精神分析との違いを明確にしたうえで、「週一回」それ自身が持つ治療効果について考えることである。彼は便宜的に「週一回」を【精神分析的】心理療法と精神分析的【心理療法】とに分ける(2024,p22)。このうち前者は「週一回」でも分析的にできる、という平行移動仮説水準のレベルにとどまっている。そして後者をPOST(精神分析的サポーティブセラピー)としている。つまりは「週一回」を「コンセンサス」をもとに概念化したものが、POSTというわけである。

 このPOSTの概念的な位置づけについては、山口氏が以下にまとめている。それによると分析においては【分析的】では転移を集めるが【心理療法】(すなわちPOST)では「転移―逆転移についての理解は治療者のこころの中に留め置く」(岩倉ら、2023)という。それはまた転移を「拡散する」とも表現されている(山崎、p81、山口p246,247)。というのもPOSTはなるべく転移を扱わないというのが一つの方針としてあげられるからだという。そしてPOSTでも転移は起きるが、扱わずに「心に留め置く」という。他方では【分析的】は要するに「準」精神分析だから、無意識も転移も扱うということになる。

 このPOSTについては「POSTー精神分析的サポーティブセラピー、岩倉他著、金剛出版、2023年)に詳述されている。そこではPOSTは以下に定義されている(p4)

 ①目標は適応状態の改善である。②無意識については扱わず(言及せず),意識を大切にする。

③転移一逆転移についての理解は治療者の心の中に留め置く。④見立てや理解は常に精神分析理論に基づく。⑤自我に注目し、自我を支持する、つまり退行抑止的に関わる。⑥自我にかかっている負担軽減を目的として,必要に応じ環境調整やマネジメント作業を行う。⑦自我を支え、補強することを目的として,励まし,助言などの直接的な介入も用いる。⑧転移を扱わないため,治療構造や頻度,終結についての扱いは柔軟で多様である。

 転移逆転移は、POSTの治療者は心には思っても扱わない(言及しない)とある。かなりあっさりと転移を扱うことをあきらめた感があるが、それはPOSTにおいては「『無意識の意識化』や内省の促進を期待するのではなく」、「『前意識の意識化』によって自分自身や自分のパターンの認識が広がり、結果として他のPOST技法と同じく発達促進的に作用する」事を目指すという(p178)。そしてPOSTでは解釈を「心に留め置く」解釈と「伝える」解釈とに区別する。「心に留め置く解釈」には「今、ここでの転移解釈」が、「伝える解釈」には一般的な解釈や転移外解釈が含まれる。この伝えるか伝えないかに関しては、Roth(2017)のレベル1~レベル4の転移解釈のレベルの考えを援用している。1、とは転移外解釈、2は非特異的転移解釈、3は今、ここでの特異的解釈、4は逆転移を含みこんだ理解に基づく3,ということになる。

 このレベル1→4とは結局どれくらい深いか、どれくらい無意識レベルに踏み込んでいるか、ということになる。そしてPOSTが、1,2についてのみ「伝え」、3,4は「心に留め置く」ということは、1,2は前意識レベル、3,4は無意識レベルということになる。ここで少し理解しづらいのは、「今、ここ」の解釈は3に属するからPOSTでは扱わない、という点である。たとえば「だれかにそばにいてほしいと思っていたのですね」は2であり扱えるが,「ここで私にもそばにいてほしいと思っていたのですね」だと3になり、それは伝えない、ということになる。


2025年5月17日土曜日

遊びと愛着 推敲 5

  次にラットにおける研究を離れ、人間にとってのRTPの意味を調べてみたい。それは果たして発達促進的なのか、それとも暴力を誘発するものなのか? 実はこの議論がなかなか定まらないということなのだ。参考としては以下の論文を用いる。

Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126. この論文によれば、RTPはラットなどの哺乳類の遊びと通じることもあって様々に研究されているが、その人間にとっての意味は議論が多いというのである。RTPが攻撃性をコントロールし抑制するかについては、動物ではそうであろうが、人間の場合にはそれほど単純ではないというのが、ごっこ遊びや対象遊びとは異なるのだ。後者は人間の子供の情緒発達にとって、これまでは肯定的にみられていたのである。

 確かに考えてみると、じゃれ合い(RTP)がその動物の将来の本格的な狩りに役立つとしたら、それは勇敢な戦士を生むということにはならないか。私はごく単純に、RTPは人間にとってもその攻撃性をコントロールするうえで重要である、という結論を予想していたのだが、そう簡単にはいかないことは理屈からもうかがえるのだ。以下に人間にとってのRTPについて二つ目の論文を読んでみる。

Veiga, G., O’Connor, R., Neto, C., & Rieffe, C. (2020). Rough-and-tumble play and the regulation of aggression in preschoolers. Early Child Development and Care, 192(6), 980–992. 

 この Veiga の論文によると、以前はじゃれ合いは攻撃性の制御に結びつくと言われていた時期もあったという。しかし最近の研究では、就学前の子供の攻撃性のコントロールの問題は重要だが、じゃれ合いがこれにポジティブな影響を与えているか、それともネガティブなのかは議論が多いという。先ほどのSmith の論文と似た論調だ。そして彼らの研究では4~7歳の少年少女に関して言えば、家でも学校でもじゃれ合いは感情のコントロールとマイナスの相関があったという。また父親とのじゃれ合いでネガティブな感情の表出はやはりネガティブな相関があったという。そしてじゃれ合いが長ければ長いほど、情動調節は悪かったという。

 私はこれらの見解は分かる気がするが、一つ不明なのは、ネガティブな感情が多く表出されるほど攻撃性のコントロールがなされないという所見だ。そもそもじゃれ合いでネガティブな感情は普通は体験されないはずである。どんなじゃれ合いを彼らは観察していたのだろう。
この研究を読みながら、私は一つの考えを持った。よく手の付けられなかった不良がボクシングや空手を学び、素行が良好になり、身を持ち直したという例を聞く。これなどは不良同士の喧嘩→ボクシングや空手を通じての、上級者優勢の「じゃれ合い」(スパーリング、組手)→ 自身が上級者になる過程での攻撃性のコントロール、というのと似ていないか。そしてボクシングの試合、空手の組手などは、実は攻撃性とは程遠いということをご存じだろうか。ボクサー同士の仲は、計量時に最悪なように思える。体重計を前にしてお互いにどつき合いが発生したりする。ところが試合後両者はたいていは闘争心を捨てて抱擁し合うのである。このように考えると真剣勝負とは違い、試合や組手はじゃれ合いに似ている、という仮説が浮かび上がってくるのだ。

もう一つのFlanders の論文も読んでみる。

Flanders JL, Leo V, Paquette D, Pihl RO, Séguin JR. Rough-and-tumble play and the regulation of aggression: an observational study of father-child play dyads. Aggress Behav. 2009 Jul-Aug;35(4):285-95. 

 この研究では特に父親と子供の間のRTPについて論じている。この論文でも、従来はRTPは自己統制に貢献するということが示唆されていたが、それについて改めて検証をするという。そしてその意味では、先程の二本の論文に似ている。この研究では2歳から6歳までの家での親子のじゃれ合いについて、85人のケースについて調べたという。そして父親が優勢でない場合には、これが子供の暴力に結びついているという結果を伝えている。

 これを読んでいて、いろいろな疑問がわいてきた。動物にみられるじゃれ合いでは、追っかける方と追っかける方が交互にスイッチするのが理想ということだった。もしそうだとすると、父子の場合も平等が原則ではないかと思うのだが、それではだめで、父親が優勢でなくてはならないということになる。この矛盾はどこから来るのだろうか。
 私はここにはグラデーションが存在するのではないかと思う。つまり母子の間で起きるような初期のじゃれ合いは愛着の形成に関与し、勿論平等である。しかし子供が成長するにつれて、RTPは父と子の権力争いに似た様相を呈するのではないか。つまりplay としての意味が薄れてくるわけである。そして父子のじゃれ合いは本気度を増していく。
 私の知っているケースでは、中学2年の息子と父親の争いはかなり熾烈である。そして明らかに父親が力で息子を抑えるということでバランスをとっているように思える。というか、父親は劣勢になった時点で子供をコントロールする力を半ば失い、相手にならなくなるようだ。その意味ではVeiga や Flanders の研究結果は至極もっともという気がするのである。 しかし一歩間違えれば、父が優勢な深刻なじゃれ合いは虐待になってしまいかねない。そう、じゃれ合いの議論は遊びと虐待の間の微妙な領域に私たちを誘い込む可能性が有るのだ。

ところで「じゃれ合いはグラデーションを形成するのではないか」という私の仮説については、おそらく攻撃性以外にも性行動についても言えるのではないかと思う。通常はじゃれ合いには相手を押さえつける、英語で言うと”pinning” (ピン付けする)という特徴があるが、これは性行動において動物同士で、オスがメスを押さえつけるという行動を模していると考えられる。すると一方が他方をpinning するという行動は性行動へと移っていくグラデーションを形成している可能性がある。 もちろんその結果として単なる戯れが性行動に移ってしまうという場合があり、これは正常な性交渉の始まりを形成する場合があるものの、一歩間違えるとこれが性加害に繋がってしまう。これもRTPと似ている。

しかし考えてみよう。この種のじゃれ合いが幼少時に一切経験されないとしたら、思春期以後の性行動は、いきなりのぶっつけ本番、遊びを含まない危険な行為になりかねないか‥‥。或いは性行動の起こし方がそもそもわからずにその種の行動を回避するということになりかねないのではないか。後者はいずれもデジタル世代で直接の身体接触による遊びが乏しい場合に生じてきかねない問題である。  ともあれ相互性と平等性に基づく筈の性的な関係が性加害になってしまう状況を考えてみよう。じゃれ合い にみられるような平等性が失われ、一方から他方(通常は男性から女性)への強制や脅迫が生じる。playfulness の喪失である。