2025年5月24日土曜日

週一回 その6

 海外における治癒機序に関する理論

 ここまでで論じた我が国におけるコンセンサス(「週4回は転移を扱え、週1回は転移を観察する」)は海外での精神分析の議論にも見られるのであろうか?結論から言えば、そのような直接的な表現に出会うことは、私が調べた範囲ではあまり見られない。

 たとえば海外の精神療法についての文献としてわが国にもなじみ深いGlenn Gabbard の「精神力動的精神療法」(池田暁史訳、岩崎学術出版社)を参照してみる。この本では転移についてかなりの個所で述べている。そして力動的精神療法の基本原則(p4)として「患者の治療者に対する転移が主な理解の源となる」と述べるが、その後に「治療過程に対する患者の抵抗が治療の主な焦点になる。」とする。つまり転移解釈に至らない場合には患者の抵抗を扱うべし、というごく一般的な立場を表明しているのである。
 さらには転移の解釈については次のような警句を発してもいる。「原則としてセラピストは転移の解釈を患者の気づきに接近するまで先延ばしにするべきだ。」(ギャバ―ド、2010)「セラピストによって与えられる解釈はめったに劇的な治癒をもたらさない。」しかしこれは精神分析と精神療法の間に区別を設けたうえで後者において特に論じているわけではない。

 ところでGabbard が頻度について触れているところがある。「しかし週一回以下の低頻度では、転移に焦点を当てることは難しくなる(p79)」とも述べている。しかしここは翻訳上の問題がありそうだ。相当する箇所を原書で読んでみる。66ページであるが、まず表出的では2,3回。支持的では週一回あるいはそれ以下であるとし、long-term psychodynamic psychotherapy is extremely difficult to do at frequency less than once a week, because the continuity from session to session becomes disrupted and because it is difficult to focus on transference issues at lesser frequencies. (p66)

Gabbard (2004) Long term Psychodynamic Psychotherapy A basic text. American Psychiatric PUblishing. Washington DC.)

つまりここを読む限りでは、長期力動的は少なくとも週一回だよ、と言っているようだ。「週一回以下の低頻度」はより正確には「週一回未満の低頻度」と訳されるべきなのだ。

週4回未満でも転移解釈を主たる治療方針とする療法などが目に付き、それがいわゆるTFP(転移に焦点づけたセラピー transference focused psychotherapy. Clarkin, 2007) である。患者と治療者は最初に信頼に基づく関係を構築し、同時にしっかりとした境界を設定する。そして行動パターンや感情や自己感を探索し、それらがその人の対人関係の持ち方にどのような影響を与えているかを検討する。その際TFPに特徴的なのは、患者と治療者の転移関係における明確化、直面化、解釈が治療の主流となる(Gabbard, 448)。しかも治療早期から、転移の中でも特に陰性転医が扱われるとのことである。
このTFPはBPDの治療を目的として始まったが、他の障害を持つ患者についてもその対象を広げている。このTFPが興味深いのは治療構造が週2回という、週一回を基本とする治療者によっても手の届く範囲の構造と言えるだろう。
 この療法に関するある実証研究では、BPDの治療に関して支持療法とDBTとの比較対象で行われ、TFPではメンタライゼーションの能力がより高まったとされる(Clarkin, et al, 2004)。また別の研究 (Doering et al., 2010) では地元の経験ある治療者よりも症状や心理社会的機能等において効果があったという。
このうち前者においては、支持療法では毎週一回のセッションを行い、転移についてはそれをフォローしマネージするものの明示的な解釈を行わない、とある。それに比べてTFPでは積極的な解釈を行ったという。(興味深いのは、ここで転移の解釈の侵襲性などについて、なにも特に論じていないということである。)

 ここで一つ。週2回までセッションの頻度を上げた場合は、藤山の同様の提言に見られるように、精神分析的な、転移解釈を主軸とする治療を行うある程度の根拠となるのではないか、それでは「週一回」もせめて「週2回」にする努力はしてもいいのではないか? ただしPOSTの中にその様な動きはないようである。

 ともあれ米国精神分析協会も米国心理学協会も、そのHPでうたっているのは精神分析と精神療法がいかに類似しているかである。それは以下のような文章からもうかがえる。「[頻度やカウチの使用など]の違い以外は、精神分析的精神療法は精神分析と極めて近い。つまり自由連想が用いられ、無意識を重視し、患者・治療者関係を重視することである。」(米国心理学協会のHPより)(岡野 2023)それははたして妥当なのか?精神分析と精神療法の差別化についてここまで論じている私たちにすれば、少し拍子抜けという気もする。

岡野 憲一郎 (2023) 精神分析的精神療法の現状と今後の展望 .最新精神医学 28 (3), 195-201.

 「コンセンサス」が海外の文献にみられないのはなぜか?
 

一般に海外の文献では精神分析的精神療法と精神分析プロパーを質的に異なるものと考えるよりは、両者を同質のものとして、あるいは後者を前者の特殊例と見るというニュアンスさえ感じられる(岡野、2023)。それはなぜだろうか。つの理由はこの議論がすでに過去に行われ、一定の、それも我が国の「コンセンサス」とは異なるコンセンサスが得られたからである
 そこに至る経緯をいわゆるメニンガープロジェクトにみることが出来る。そこでは42人の患者を精神分析プロパーと精神療法に分け、後者を表出的療法、支持的療法として分けて詳細な研究が行われたが、そこで精神分析で開始した患者のうち比較的分析手法が守られたのは10名ということになった。そして分析においては、ヒアアンドナウの転移解釈が最も重要なテクニックとして用いられた。
 しかしそれらの治療は極めて支持的な手段である入院を必要に応じて併用していた。この研究をまとめて、Wallerstein は、「ヒアアンドナウの転移が治療効果を発揮したとは言わず、表出的な側面と支持的な側面が複合的に働いた」と結論付ける。そして議論はむしろ精神分析が受けられない(経済的な意味で、あるいは患者にとって適切でないという意味で)ケースの治療に重点を置かざるを得ず、そこでは表出的か、支持的か、あるいはその両方かという議論が主たるテーマとなったのである。言葉を変えれば、「週一回」のケースにおいて、どこまでヒアアンドナウの転移解釈のみで有効なのかが問題となっている。決して日本における「コンセンサス」、つまり「週一回ではヒアアンドナウの転移解釈は無理です」という理解は最初からなされていないことになる。さもなくば「精神分析か、支持療法か」という選択肢しかなくなってしまうからである。別言するならば表出的精神療法という治療法が存在を許されて、実際に行われていることが、「コンセンサス」を否定するのである。

 むろん米国において変容惹起性解釈の議論がなかったわけではない。それどころか Strachey により提唱された転移解釈の重要性についての議論は、Merton Gill の「今ここで」のそれについての議論として「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)のであり、「今ここでの転移解釈が絶対的に主要な技法である interpret of the trans. in the “here and now” as the absolutely primary technical mode」というギルの提言は、メニンガーのリサーチ(PRP)における「信条credo」であったという(Wallerstein p55)。PRPでリーダーシップをとった Kernberg も今ここでのネガティブな転移の解釈こそが治療にとって有効である(そしてそれをしない支持療法は効果がない)と主張していたことも大きく影響していた。しかし結局はあらゆる手法は支持的に流れたというプロセスの中で支持を失ったという感があるのである。また「今ここで』だけでなく過去の出来事にも同様の重要性を見出すべきであるというLeo Stone の論文(1981)もこの流れの追い風になったらしい。このPRPの流れ全体から言えることは、精神分析におけるヒアアンドナウの転移解釈の唯一絶対性ということが証明されず、治療はそれぞれ独自であり、解釈による洞察とともに様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスであるということを示したということである。

  以上の論述から、「コンセンサス」は世界における精神分析の潮流とは異なる路線であると理解せざるを得ない。なぜならいわゆる表出的精神療法は支持的精神療法とともに「分析的精神療法」として立派に存在しているからである。そして全体の流れとしては、表出的精神療法こそが、精神分析の理念を受け継ぐ「精神分析的」なものであり、ストレイチーモデルに従ったものということが出来るのだ。だから精神分析の世界では、分析的精神療法を、精神分析プロパーに準ずるものとして扱っているわけである。こうすることで、週一回の治療でも精神分析の精神は生きているのですよ、と主張が出来る。つまり日本の「コンセンサス」とはむしろ逆のことが起きているらしいのだ。彼らにとってはそちらの方がむしろ「コンセンサス」なのだ。

私はこのどちらの「コンセンサス」に軍配を上げるかという議論はしたくない。ただ事実を述べているだけである。精神分析的な方針を基本的には堅持する表出的な精神療法が生き残る道はしっかり示されている気がする。その一つの例は、すでに述べた「転移に焦点づけられた精神療法 TFP」である。ただ両者の歩み寄りは考えるべきではないかと思う。
一つは(日本の)「コンセンサス」の再考である。「コンセンサス」は転移は扱わわないという前提に立つが、実際はその限りではないということはTFPなどの治療効果についてのエビデンスが示しているといえる。転移は扱えるのであるとしたら、POSTはもうすこしヒアアンドナウに開かれてもいいであろう。もう一つはPOSTに流れる治癒機序が、実は表出的にも、精神分析にも流れている可能性を探る事であり、それはPOSTの独自性へと目を向けることに繋がるであろう。つまりPOSTは精神分析でないもの、精神分析をこえたPOSTであることの意義が示されなくてはならない。