「遊びと愛着の推敲」は6まで来たが、もともとの文章はここで終わっていた。つまりこれ以上は推敲するものはないので、本来は「遊びと愛着8」として再開する(つまり推敲する前の文を書き進める)べきだが、もうこのまま推敲で行ってしまおう。
まず原題を思い出しておこう。「遊戯療法と精神療法- 両者の懸け橋としての愛着理論」
これまで考えてきたことを振り返ってみる。「じゃれ合い(RTP)」は人間を含めた動物レベルで、特に哺乳類で顕著にかつ普遍的に見られる現象である。それは感情を持つ生命体が育つうえで最初に通る段階だろう。あらゆる動物が他の個体とのかかわりあいの中で生きていく以上、その基礎を作る段階の通過が必須となると考えられる。そして私たちにとって極めて印象深いのは、この時期に成立した関係性は半永久的だということである。 この時期に人間が養育者として接した動物はおそらく死ぬまでその人間に強烈な愛着を示す。特に驚くべきなのは、人と人との間のそれをはるかに超えたレベルでの関係の深さである。例えば遠くから「育ての親」である人間を見つけたライオンは、まるで磁力に魅かれる砂鉄のようにその人に引き寄せられて駆け寄り、飛びかかる。もちろんライオンにとってはその胸に飛び込んでいるつもりだ。そしてそこでは身体的な接触はある種の決定的な意味を持つ。それは人と人との関係以上でさえある。(成獣となったライオンとその育ての親である人間との間で見せるような感動的な再会のシーンを、人間の親子が見せることなどあるだろうか?)
ここでの特徴は生後しばらくの間に生じたであろう身体的な接触の影響の大きさであり、そして再会の際もその身体接触が、大きな快感とともに求められ、成立することである。ここで私たちが興味深く感じるのは、例えばライオンのように、見知らぬ人間には攻撃性を向けるであろう、そして私たちがその意味で最も恐れの対象となるべき成獣が、まるで子供の様に人間にじゃれつき、甘える姿である。そう、ライオンが自分の何分の一ほどの大きさになった人間に(見かけ上)襲い掛かり、戯れようとするのはまさに「じゃれ合い」の再現といえる。そしてその時はライオンは爪を肉球の下に格納する。(正確に肉球の「下」かは知らないが、あくまでもニュアンス、である。)
じゃれ合いでもし相手を傷つけたとしたら、その痛みは自分の痛みになってしまうはずだ。つまりライオンは相手に同一化し、「共感」しているのであるが、どうしてそんな複雑なことが成立するのだろうか。私たち人間は共感がいかに複雑で難しく、人間でさえもしばしばそれを十分に発揮することが出来なくなることを知っている。しかしその極めて複雑なことをしない限りは動物は子供を育てることが出来ない。だからなのだろう。さもないと魚類のレベルで飢えをしのぎながらメスによって岩肌に植え付けられた卵に新鮮な海水を送り続けるオス(何の魚だったっけ?)や、冷たい風に耐えながら卵を温め続けるなんとかペンギンのような芸当は出来ない。
こう考えると動物の親たちは、「大きな思いやりを有している」というよりは、脳がそれを自分の一部として認識するのはないかと思う。自分の身を守ることと、子孫の身を守ることは、生物学的に差が生じないような仕組みが成立しているのだろう。
最近脳の同期化ということが言われ、「他」と「自」については脳で興奮する部位が違うと言われているが、そうなるとじゃれ合いの対象はそもそも「他」としては認識されないのではないか。といって「自」でもなく、おそらく「他」と「自」の両方が共鳴するような対象となるのではないか。