2025年4月30日水曜日

関係論とサイコセラピー 推敲 10

  「コンセンサス」が海外の文献にみられないのはなぜだろうか? 一般に海外の文献では精神分析的精神療法と精神分析プロパーを質的に異なるものと考えるよりは、後者を前者の特殊例(前者を後者の、ではない!!)と見るというニュアンスさえ感じられる(岡野、2023)。  そのような考え方に至る経緯をいわゆるメニンガーの60年~70年代の「精神療法リサーチプロジェクト(PRP)」にみることが出来る。そこでは42人の患者を精神分析プロパーと精神療法に分け、後者を表出的療法、支持的療法として分けて詳細な研究が行われたが、そこでは精神分析で開始した22名の患者のうち比較的分析手法が最後まで守られたのはたったの10名ということになった。(残りの12人は分析を続けられず、精神療法に移ったのだ。)  もちろん正式な分析に残った12人においては、ヒアアンドナウの転移解釈が最も重要なテクニックとして用いられた。 しかしそれらの12人の治療は時と場合に応じて、極めて支持的な手段である入院を併用していた。その研究成果をまとめてWallerstein は、「[精神分析においても]ヒアアンドナウの転移解釈のみが治療効果を発揮したとは言わず、表出的な側面と支持的な側面が複合的に働いた」と結論付ける。  そして議論はむしろ精神分析が受けられない(経済的な意味で、あるいは患者にとって適切でないという意味で)ケースの治療に重点を置かざるを得ず、そこでは表出的か、支持的か、あるいはその両方かがその主たるテーマとなったのである。言葉を変えれば、「週一回」のケースにおいて、どこまでヒアアンドナウの転移解釈のみで有効なのかが問題となっている。決してこれまで述べた日本における「コンセンサス」、つまり「週一回ではヒアアンドナウの転移解釈は無理である」という理解は最初からなされていなかったのだ。さもなくば「精神分析か、支持療法か」という選択肢しかなくなってしまうからである。別言するならば表出的精神療法という存在そのものが、「コンセンサス」の否定の上に成り立っていたのだ。

 むろん米国において変容惹起性解釈の議論がなかったわけではない。それどころか Strachey により提唱された転移解釈の重要性についての議論は、1970年代のGill の「ヒアアンドナウ」のそれについての議論として「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)のであり、「ヒアアンドナウの転移解釈こそが絶対的に主要な技法である」という Gill の提言は、メニンガーのリサーチ(PRP)における「信条 credo」でさえあったという(Wallerstein p.55)。PRPでリーダーシップをとった Kernberg も、ヒアアンドナウのネガティブな転移の解釈こそが治療にとって有効であると主張していたことも大きく影響していた。ちなみに彼は、それをしない支持療法は効果がないとまで言った。この大御所(現在96歳!)は今でもその考えを貫き通している!

 しかしPRPでも結局は「あらゆる手法は支持的な側に流れた」というプロセスの中で、この「信条」は徐々に支持を失ったという感があるのである。また「ヒアアンドナウだけでなく過去の出来事にも同様の重要性を見出すべきである」という Leo Stone の主張(1981)もこの流れの追い風になったらしい。

 このPRPの流れ全体から言えることは、精神分析におけるヒアアンドナウの転移解釈の唯一絶対性は結局証明されず、治療はそれぞれ独自であり、解釈による洞察とともに様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスが働いているということが示されたのである。私はこれは米国の精神分析における治癒機序の議論の大きなターニングポイントであったと理解している。

2025年4月29日火曜日

関係論とサイコセラピー 推敲 9

 先日注文した例の本(Yeomans, FE, Clarkin JF, & Kernberg, OF (2002). A Primer of Transference-Focused Psychotherapy for the Borderline Patient. Northvale, NJ: Jason Aronson.),キンドルで一生懸命読んでいるのだが、隔靴掻痒の感がある。「週2回の精神療法ではヒアアンドナウの解釈は難しい」という種の論述がほとんど出てこない。それを引用するつもりで買ったのに。具体的的にどのように転移解釈を行うか、その時に注意すべきことは、などのことが書かれていない。そのかわりボーダーラインの病理一般について書かれていて、その記述は基本的には精神分析におけるそれと変わりない。あたかも分析も精神療法も特に区別しないという感じなのだ。これでいいのだろうか?まあ今後も時々目を通してみることにする。

 海外の精神療法についての文献としては、グレン・ギャバ―ド 先生の「精神力動的精神療法」(池田暁史訳、岩崎学術出版社)を読んでみる。


(中略)

 

 次にヘンリー・ピンスカーの「サポーティブ・サイコセラピー入門」(秋田、池田、重宗訳、岩崎学術出版社,1997) を参照してみる。


(中略)


 しかしこのようにあれこれ考えていくうちに、何か大きなミスを犯しているような気持になってきた。こう考えてはどうか。そもそも週4回以上の精神分析ではなく、頻度の低い分析的な精神療法が論じられるようになり、それが表出的と支持的に分かれているということは、もちろん分析的な週一回はアリ,という結論が事実上は出ていると言ってもいいのではないか。そして表出的な療法では恐らく「平行移動」は大いに行われている。これまで述べたTFPすなわち転移に焦点づけられた治療も結局は、「表出的な精神療法」のことなのだ。でもそれではインパクトが少ないので、それを表出的な手法のエッセンスとして「転移に焦点づけされた」という名前を付けているのである。だからこそその入門書 primer を5000円もかけてキンドル版で購入して読んでも、肝心の転移を週2回で扱う上での注意、といった問題が出てこないのだ。そもそも彼らはそれを問題にしていない‥‥。何か私はずいぶん遠回りをしていたという気持ちになった。まあそのことが分かっただけでも5000円の元を取った、と思うようにしよう。 


2025年4月28日月曜日

遊びと愛着 7

 昨日のこのブログで書いた、「じゃれ合いはグラデーションを形成するのではないか」という考えについては、おそらく攻撃性以外にも性行動についても言えるのではないかと思う。通常はじゃれ合いには相手を押さえつける、英語で言うと”pinning"(ピン付けする)という特徴があるが、これは性行動において動物同士で、オスがメスを押さえつけるという行動を模していると考えられる。すると一方が他方を pinning するという行動は性行動へと移っていくグラデーションを形成している可能性が有る。

もちろんその結果として単なる戯れが性行動に移ってしまうという場合があり、これは正常な性交渉の始まりを形成する場合があるものの、一歩間違えるとこれが性加害に繋がってしまう。これもRTPと似ている。
しかし考えてみよう。この種のじゃれ合いが幼少時に一切経験されないとしたら、思春期以後の性行動は、いきなりのぶっつけ本番、遊びを含まない危険な行為になりかねないか ‥‥ 或いは性行動の起こし方がそもそもわからずにその種の行動を回避するということになりかねないのではないか。後者はいずれもデジタル世代で直接の身体接触による遊びが乏しい場合に生じてきかねない問題である。

ともあれ相互性と平等性に基づく筈の性的な関係が性加害になってしまう状況を考えてみよう。じゃれ合い にみられるような平等性が失われ、一方から他方(通常は男性から女性)への強制や脅迫が生じる。playfulness の喪失である。

2025年4月27日日曜日

遊びと愛着 6

 もう一つの Flanders の論文も読んでみる。

Flanders JL, Leo V, Paquette D, Pihl RO, Séguin JR. Rough-and-tumble play and the regulation of aggression: an observational study of father-child play dyads. Aggress Behav. 2009 Jul-Aug;35(4):285-95. 

この研究では特に父親と子供の間のRTPについて論じている。この論文でも、従来はRTPは自己統制に貢献するということが示唆されていたが、それについて改めて検証をするという意味では、Veiga の論文に似ている。この研究では2歳から6歳までの家での親子のじゃれ合いについて、85のケースについて調べたという。そして父親が優勢でない場合には、子供の暴力に結びついているという結果を伝えている。

これを読んでいて、いろいろな疑問がわいてきた。動物にみられるじゃれ合いでは、追っかける方と追っかけられる方が交互にチェンジするのが理想ということだった。もしそうだとすると、父子の場合も平等が原則ではないかと思うのだが、それではだめで、父親が優勢でなくてはならないということになる。この矛盾はどこから来るのだろうか。
 結局私はRTPにはグラデーションが存在するのではないかと考える。つまり母子の間で起きるような初期のじゃれ合いは愛着の形成に関与し、勿論平等である。しかし子供が成長するにつれて、RTPは父と子の権力争いに似た様相を呈するのではないか。つまりplay としての意味が薄れてくるわけである。そして父子のじゃれ合いは本気度を増していく。私の知っているケースでは、たとえば中学2年の息子と父親の争いはかなり熾烈である。時には本格的な殴り合いのレベルに踏み込んでいるのである。そして明らかに父親が力で息子を抑えるということでようやくバランスが取れているように思える。と言うか父親は劣勢になった時点で子供をコントロールする力を半ば失い、RTPを放棄してしまうのが通例である。その意味では Veiga や Flanders の研究結果は至極もっともと言う気がするのである。 しかし一歩間違えれば、父が優勢な深刻なじゃれ合いは虐待になってしまいかねない。そう、じゃれ合いの議論は遊びと虐待の間の微妙な領域に私たちを誘い込む可能性が有るのだ。

2025年4月26日土曜日

遊びと愛着 5

 さて当然人間の行動について知りたいのであるが、実はこれが結構微妙なのだ。つまりじゃれ合いが暴力を抑止するのかということについてはむしろ暴力に結びついているという研究がみられるのである。これをどう理解したらいいのか。それが以下の二つだ。

Veiga, G., O’Connor, R., Neto, C., & Rieffe, C. (2020). Rough-and-tumble play and the regulation of aggression in preschoolers. Early Child Development and Care, 192(6), 980–992. 

Veiga の論文によると、以前はじゃれ合いは攻撃性の制御に結びつくと言われていた時期もあったという。しかし最近の研究では、就学前の子供の攻撃性のコントロールの問題は重要だが、じゃれ合いがこれにポジティブな影響を与えているか、それともネガティブなのかは議論が多いという。そして彼らの研究では4~7歳の少年少女に関して言えば、家でも学校でもじゃれ合いは感情のコントロールとマイナスの相関があったという。また父親とのじゃれ合いでネガティブな感情の表出はやはりネガティブな相関があったという。そしてじゃれ合いが長ければ長いほど、情動調節は悪かったという。  私はこれらの見解は分かる気がするが、一つ不明なのは、ネガティブな感情が多く表出されるほど攻撃性のコントロールがなされないという所見だ。そもそもじゃれ合いでネガティブな感情は普通は体験されないはずである。どんなじゃれ合いを彼らは観察していたのだろう。 この研究を読みながら、私は一つの考えを持った。よく手の付けられなかった不良がボクシングや空手を学び、素行が良好になり、身を持ち直したという例を聞く。これなどは不良同士の喧嘩→ボクシングや空手を通じての、上級者優勢の「じゃれ合い」(スパーリング、組手)→ 自身が上級者になる過程での攻撃性のコントロールというのと似ていないか。そしてボクシングの試合、空手の組手などは、実は攻撃性とは程遠いということをご存じだろうか。ボクサー同士の仲は、軽量の際に最悪なように思える。お互いにどつき合いが発生したりする。ところが試合後はたいていは闘争心を捨てて抱擁し合うのである。このように考えると試合や組手はじゃれ合いに似ている、という仮説が浮かび上がってくるのだ。(私の妄想かもしれない)。

2025年4月25日金曜日

関係論とサイコセラピー 推敲 8

 海外における理論

ところで目を海外に移すと「週4は転移を扱い、週1は転移を観察する」をプロトコールのように提唱している理論は私の調べた範囲では見られない。むしろ転移という問題に集中して扱う、しかも週4回未満の治療の存在がすぐに思い浮かぶ。それがいわゆるTFP(転移に焦点づけたセラピー transference focused psychotherapy. Clarkin, 2007) である。患者と治療者は最初に信頼に基づく関係を構築し、同時にしっかりとした境界を設定する。そして行動パターンや感情や自己感を探索し、それらがその人の対人関係の持ち方にどのような影響を与えているかを検討する。その際TFPに特徴的なのは、患者と治療者の転移関係における明確化、直面化、解釈が治療の主流となる(Gabbard, 448)ということだ。しかも治療早期から、転移の中でも特に陰性転移が扱われるとのことである。大丈夫だろうか、とちょっと心配になる。

このTFPはBPDの治療を目的として始まったが、他の障害を持つ患者についてもその対象を広げている。このTFPが興味深いのは治療構造が週2回という、週一回を基本とする治療者によっても手の届く範囲の構造であることだ。
ある実証研究ではBPDの治療に関して支持療法とDBTとの比較が行われ、TFPではメンタライゼーションの能力がより高まったとされる(Clarkin, et al, 2004(Clarkin, et al, 2004)。また別の研究 (Doering et al., 2010) では地元の経験ある治療者よりも症状や心理社会的機能等において効果があったという。

このうち前者においては、支持療法では毎週一回のセッションを行い、転移についてはそれをフォローしマネージするものの明示的な解釈を行わなかったという。それに比べてTFPでは積極的な解釈を行ったという。興味深いのは、ここで転移の解釈の侵襲性などについて、なにも特に論じていないということである。

そうこうしているうちに、次の本がどうしても必要になった。

Yeomans, FE, Clarkin JF, & Kernberg, OF (2002). A Primer of Transference-Focused Psychotherapy for the Borderline Patient. Northvale, NJ: Jason Aronson.

ところが中古だと高くてとても手に入らない。アマゾンでKindle 版5251円。ちょっと痛いな。でも背に腹は代えられぬ。この論考にとってはどうしても必要な資料だ。そこに転移解釈を週2回で行う上での注意点などが書かれているかを知りたいのだ。

2025年4月24日木曜日

遊びと愛着 4

このスミスの論文の抄録を以下に示す。

Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126. Play fighting and chasing in human children – often referred to as rough-and-tumble play, or RTP or R&T – is a common form of play, and one that has the most obvious correspondence to play in many (especially mammalian) non-human species. Unlike object, pretend and sociodramatic play, generally encouraged by teachers and parents, play fighting is viewed in a much more ambivalent way. The role it has in development, and whether this should be viewed in a positive or negative light, continues to be debated. Here we review what insights may be gained from research on play fighting in non-human species, main developmental trends in humans, definitional and measurement issues, cultural variations, and empirical data on the correlates found with behaviors of adaptive significance. We conclude with some reflections on theoretical issues and future research priorities. A consistent theme from work with non-human species, parent–child RTP, and peer-peer RTP, is that RTP experience is important for emotional control and the learning of restraint in what may be competitive or conflictual situations.

この論文によれば、RTPはラットなどの哺乳類の遊びと通じることもあって様々に研究されているが、その人間にとっての意味は議論が多いというのである。RTPは攻撃性をコントロールし抑制するかという問いについては、動物では「イエス」であるが、人間の場合にはその限りではなく、少なくともいろいろ議論が多いらしい。それが人間の子供の情緒発達にとって肯定的にみられている「ごっこ遊び」や「対象遊び」(モノを使った遊び)と異なる点であるというのだ。そうなのか・・・・。次にもう少し内容に入っていく。

概ねにおいて動物ではRTPは適応的で将来に備えて狩りの腕を磨いたり、運動能力を高めたりすると考えられている。私もそのように理解していた。しかしそれさえも Sharpe(2019)などによれば決定的な結論を出すにはまだ早いということだ。
ここでふと思ったが、じゃれ合いがその動物の将来の本格的な狩りに役立つとしたら、人間にそれが当てはまった場合にはちょっと恐ろしいことになるのではないか? じゃれ合いが実際に将来の狩り(ほかの動物、ないしは人間自身を襲うこと)の役に立つ???? それは実に困る・・・・。 こう考えるだけでも、RTPが人間の適応にどれほど役に立つかは少し慎重に考えなくてはならないということだろう。私はごく単純に、RTPは人間にとってもその攻撃性をコントロールするうえで重要である、という結論を予想していたのだが、そう簡単にはいかないのだ。ということがわかると、このRTPに関する知見に更に興味が出てきた。ただしこの問題がさらに複雑で調べても調べてもどこにも行きつかない、となっては逆に困るのだが。

2025年4月23日水曜日

不安とパニックと精神分析 推敲 6

 フラッシュバックとパニックとの相違について掘っていく。 あるサイトでは、次のような解説をしている。https://lindsaybraman.com/emotional-flashbacks/ ちょっと英文をまとめてみる。「両方とも不快であり、身体的な表現と言えるが、その源が違う。FBはそれはトラウマ的な過去の出来事であるが、パニックは現在におけるストレスや不安により生じる。」そしてこんなことを言う。「FBはパニックを引き起こしうるが、パニックは必ずしもFBではない‥‥。」 そんなことは分かっている!そのうえであえて問うているのは、結局はパニックは過去の、発達早期におけるトラウマ記憶に起因していないのか、ということだ。そしてこのサイトではさらに以下のように言う。 「FBに対処するには、マインドフルネス、現在にグラウンディングする、支持を求める、などがある Recovering from an emotional flashback often involves mindfulness, grounding in the present-day, and seeking support.」 「パニックに対処するには、環境からの刺激を低下させ、鎮静エクササイズ、支持を求めることだ Recovering from a panic attack often involves reducing stimuli (like taking a moment in a quiet room), practicing calming exercises, and seeking support.」  FBに対処する一つの方策としての暴露についてはこのサイトでは記載されていないのが少し物足りない。  トラウマについての本を書き、一応トラウマの専門家ということになっているにもかかわらず、フラッシュバックとパニックの基本的な違いに疑いを持っているとは‥‥。そこで一生懸命、両者は違う、と言うことを主張してみよう。いったん「分かっているつもり」になるわけだ。  フラッシュバックは顕在的、潜在的な記憶の想起に伴う症状だ。それに比べてパニックのオリジンは実のところ不明だ。それは何故か生じる。そしてここが大事だが、最初の激しいパニック発作は、それ自体がトラウマ的な意味を持つのである。例えば車の運転中に大きな事故に遭った人は、運転中にFBを起こすかもしれない。もちろんその場合は事故そのものがトラウマだ。しかし運転中に理由もなく突然深刻なパニックに襲われた人は、特に事故やそのほかのトラウマ記憶がなくても、再びあのパニック発作が訪れると思うと恐ろしくてしょうがない。でも結局起きてしまう。それがトラウマになるのである。

2025年4月22日火曜日

関係論とサイコセラピー 推敲 7

 結局山崎氏の趣旨は、近似のあり方としてPOST(【心理療法】)を提示しているが、それ以外の【分析的】心理療法についてはどうなのだろうか?以下の山崎氏の記述から推察する。「‥‥その後経験を積んで思うのは、やはり週一回で『【精神分析的】心理療法』を行うことは難しいということである。」(「週一回」p70.)この若手の間のコンセンサスは、ベテランの先生方、例えば岡田氏や高野氏にも当てはまるのだろうか?少し検討してみよう。

岡田氏は同書の第2章「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」で彼らしい緻密な論理展開とともに、週一回の転移解釈が難しいのはなぜかについて明らかにする。彼は Merton Gill の所論について詳細に調べ、その理論に乗っ取って次の様に言う。治療は表層から深層へ、という方向に進むのが原則だ。そのうえで生じるのは先ずは there and then に基づく転移でありその解釈である。つまりは治療室の外側で起きていることに注意が及ぶというわけだが、それは「週一回」の「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のせいだ。そこで無理に here and now の解釈を行うと「結果的に間違った解釈になる  」という。転移は here and now だけでないとすれば、there and then をまずしっかり扱い、here and now への道筋をつけるべきであり、here and now を行うとしても非常に慎重になるべきだという。

これは山崎氏のまとめたコンセンサスにそいつつ、より慎重にかつ生産的に「週一回」について論じたものだと言える。とても重要な点について論じているが、こんな風にも読める。「精神分析でないと、Strachey が最も効果のあると言った here and now は扱えない。ただそれより一段階効果が弱い there and then なら十分に扱えるのだ。」

この議論も悩ましいのは、結局「週一回」は結局金である here and now の解釈を行う精神分析に勝てないということを受け入れよ、銅で我慢せよ、分をわきまえよ、と言っているようなところだ。そうか、結局は週一回は二番手なのか・・・・と寂しい気持ちになる点は変わらないのである。

 鈴木智美氏の論文「無意識の思考をたどること」(週一回(2014)の第14章)は週4でも週1でも無意識に焦点付けるのは変わらないという主張である。ただし週1回はより慎重に、という警句も見られる。いずれにせよ平行移動説への異論は、彼らも含めた現代日本における分析家や分析的療法家に共有されているようだ。その意味で山崎氏の言う「コンセンサス」の存在はおおむね妥当ということが出来るだろう。

 それをまとめるならば、週一回で転移解釈を主要な治癒機序とすべきではない。むしろあえてそれを抑制すべきである(そしてその一つのやり方がPOSTである)ということだ。


我が国の「週一回」の議論の限界


 これまでの我が国の議論は、ある一定のレベルに至っているものの、その前提は比較的限定された考えに基づくものということが出来る。そこでは基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈の重要性を重んじるものである。これはその文脈としては正確で緻密な議論と言えるが、そこで転移を扱うことが週4回でなければ十分でないという議論はどの程度妥当性があるのだろうか。

一つ言えるのは、週4回は供給が十分であり、週1回ではむしろ剥奪が大きいという議論には多少なりとも問題がある可能性があるということだ。藤山は「抱えは乏しく、患者は剥き出しのはく奪にさらされている可能性」(2023, p.67)のために「週に一度のセッションでは患者は情緒的に揺さぶられたまま残りの6日間を過ごすことになる」という。しかしこれはあくまでも相対的なものと言えるだろう。もちろん一般的には、週に4,5回会っている治療者のことを患者はより多く考えるであろう。そこにはより大きな親密さが生まれるかもしれず、それは週一回の比ではないかもしれない。
 しかしだからと言って週4回では容易に転移の収集が出来、週一では不可能とは言い切れない。週4回でも漫然と行われる過程はあり、週1回でも非常に大きな思い入れや意味づけが生まれることもある。卑近な例ではあるが、熱烈に愛し合う恋人の週一回の逢瀬と、毎日顔を合わせているが倦怠期に差し掛かったカップルと比べた場合は、どちらがより大きな「転移」が生まれるかは想像に難くないだろう。週4回なら転移が扱え、週1では無理、という問題では必ずしもないのである。ただ前者ではより多くのチャンスが生まれる(それを生かすかどうかは別として)という議論なのである。
 ヒアアンドナウはより慎重に扱うべきテーマである。それは確かであるが、それは週1回では無理で、週4回ではOKという線引きの仕方が恣意的、蓋然的とはいえないであろうか。週4回と週1回の差は、質的、ではなく量的、と考えるのが妥当であるというのが私の立場である。

 ここで言う蓋然性は様々な形を取りうる。そもそもフロイトが週6日(日曜以外!!)であったことを考えると、週4回はすでに薄まっているはずだが、その議論は乏しい。また最近ではアイチンゴンモデルが変更され、国際的には週に3回も分析的なトレーニングとして認められることになるが、そうなると「週4以上では」という議論はどうなるのだろうか。また藤山氏が語っているように、週2回はすでに週一回よりはるかに分析的であるという見解もある。するとますます週4回とそれ以下という線引きは恣意的ということになりかねない。


2025年4月21日月曜日

不安とパニックと精神分析 推敲 5

  精神力動的なアプローチ

 上述の精神分析的なアプローチは、概ね葛藤モデルに基づくものであった。Milrod らのアプローチはあくまでも、「分離、自立、怒り、罪悪感をめぐる精神内界における葛藤がパニックの発症とその継続に関係している」という基本的な理解に基づく。あくまでもそれを前提とした「パニック発作の意味や状況を検討し、それに関係した精神内界の力動、発達の要因、転移などについて検討することで、それらの力動の認識と理解を高める」という治療方針を掲げている。このうち後半はその通りであるが、パニック発作の意味は結局葛藤モデルにフォーカスを当てたものということになる。それに比べて力動レベルでは、葛藤モデルを含め、それを超えた欠損モデル、ないしはトラウマモデルも採用する。そしてそこで重要となるのが、これまでに述べた脳生理学的な知見である。

Gabbard は精神力動的な視点を生物学的心理的社会的精神医学という包括的な概念であるとしている。また連合主義(コネクショニズム)的なアプローチを提唱する。そして治癒機序とし無意識的な連合の改変 unconscious association (UAN)という最大公約数的な定義に戻ることで精神分析をより広く汎用性のあるアプローチとすることが出来ると考えている。このUANが意味するのは、人間の頭悩が結局は神経細胞の作るネットワークの産物であり、フロイトもあれから何十年も生き続けて研究を重ねていたとしたら同様の結論に至った筈であるということである。フロイトも無意識はある種のブラックボックスであると考えたし、それは私たちが Neural network と呼んでいるものに対して持っている考えとあまりかわらなかったのだ。それにいみじくもユングが行っていた言語連想法はまさに一種のUANであり、フロイトの精神分析はそれに大きな影響を受けているものだ。

そのような見地からは、パニックや不安を理解し、治療するうえでこの視点は大きな意味を持つ。コゾリノはパニックにおいては人はしばしばストレスや葛藤とパニックの関連性に気が付かないが、それは無意識レベルに存在するからだとする。するとこの無意識レベルでのストレスや葛藤とパニックとの関連性はまさにこのUANに相当することになろう。そしてその改変にはトップダウン的な分析的なアプローチもボトムアップ的な薬物療法も同様に奏功する可能性があるのだ。

少し俯瞰するならば、パニック障害は突然人を襲い、時にはそのトリガーが明確でない。しかしそれとストレスファクターの関係はかなり明白であり、全くの偶然の産物ではないということも重要である。するとその誘因が比較的はっきりしている場合は、そこに焦点を当てるということであるが、それはパニック発作をフラッシュバック(以下FB)に類似のものとすることであり、事実上トラウマモデルにしたがっている。そしてその誘因が明白でないものに関しては、おそらく幼少時の愛着のレベルに端を発したものと理解することになり、それはむしろCPTSDに対するアプローチに似たものとなるであろう。しかしこのように考えると、ではパニック発作とFBはどのような関連性を有するものと考えられるのか。この問題が非常に重要になってくる。

<FBとパニックとの関連はいかなるものか>

この問題は極めて悩ましく、また重要だと思うのだが、DSM-5には両者はお互いに鑑別として挙がってこない。ICD-11はどうか。何とPTSDとの鑑別診断としてパニック障害が記載されている。(ちなみにパニック障害の鑑別にはPTSDは記載されていない。どうなっているんだろう?)ここに引用する。

  • Boundary with Panic Disorder: In Post-Traumatic Stress Disorder, panic attacks can be triggered by reminders of the traumatic event(s) or in the context of re-experiencing. Panic attacks that occur entirely in these contexts do not warrant an additional, separate diagnosis of Panic Disorder. Instead, the ‘with panic attacks’ specifier (MB23.H) may be applied. However, if unexpected panic attacks (i.e., those that come on ‘out of the blue’) are also present and the other diagnostic requirements are met, an additional diagnosis of Panic Disorder is appropriate.


???? これは煮え切らない表現だ。パニックはトラウマを思い出させるようなことがトリガーになる可能性がある。その場合は診断に「パニック発作を伴う」と付け加えよ、という。しかしパニック障害のほかの診断基準を満たすならば、パニック障害を併存症として挙げよ、という当たり前のことを言っているだけだ。結局パニックとFBとはどのように異なるのか、という点については触れずじまいであり、要するにこの問題は精神医学界では棚上げになっているという印象を与える。

2025年4月20日日曜日

遊びと愛着 3

 Siviy の論文はバリバリの理系の研究者によるもので、生物学的な知見が豊富だが、こちらの理解がなかなかついていかない。しかしそれでも我慢して読んでみる。 前頭葉におけるノルアドレナリンのα-2拮抗薬は遊びの抑制をブロックし、ノルアドの再取り込み阻害剤は遊びを抑制する、とある。これも興味深い。要するに交感神経が興奮するような非常時には遊ぶどころではない、というわけか。P8にはc-fos (レトロウイルスのがん遺伝子v-fosのホモログであるがん原遺伝子(ヒトではFOS)にコードされるタンパク質)の関与についても書いてあるが、チンプンカンプンなので飛ばす(Siviy p.9あたり)。次のドーパミンやオピオイドの遊びへの関連はとても分かりやすいぞ。特に内因性オピオイドの側坐核への放出は遊びに深く関係しているという。遊びというと心地よいもの、楽しいものと考えるのが常識だが、この報酬系との関連がそれを証明しているというわけだ。 結論としては、前頭葉、線条体、扁桃体のそれぞれが協調して働くことでじゃれ合いが生まれるということ。そして幼少時から遊ぶことが出来るということは刻々と移り変わる社会的、情動的、認知的なランドスケープを生き抜くために重要である、とのべて Vanderschuren & Trezza (2014)の論文を参考にあげている。 Vanderschuren, L. J. M. J., & Trezza, V. (2014). What the laboratory rat has taught us about social play behavior: Role in behavioral development and neural mechanisms. In S. L. Andersen & D. S. Pine (Eds.), The neurobiology of childhood (pp. 189–212). Springer-Verlag Publishing/Springer Nature. そこでこの論文の抄録をちょっと読んでみるが、この Siviyの論文に網羅されていることばかりだ。特にラットをしばらく隔離しておくと、より多く遊びをしたがるというのは彼らの研究らしい。ただ一つ思ったのだが、治療場面で遊ぶという現象は、この隔離と関連しているのかもしれない。その遊び回路が十分な量の興奮を欲しているということか。しかしそれは安全な環境でしか発揮できないというわけである。 ここらあたりでたくさん学ばせてもらったSiviyの論文を離れ、Peter Smith らのかなり新しい2022年の論文を読んでみる。実はこの論文が重要なのは、動物などで様々に研究されてきたRTPの重要さと異なり、人間にとってのRTPは果たして発達促進的なのか、それとも暴力を誘発するものなのかの議論がなかなか定まらないという事情を扱っているからなのだ。 Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126.

2025年4月19日土曜日

遊びと愛着 2

 ラットがRTPの時あげる声は超音波であり、もちろん人の耳には聞こえない。(ちなみに social rough and tumble play RTP) には「乱闘遊び」などの訳もあるようだが、日本語の「じゃれ合い」が一番ぴったりくるのではないか。荻本快氏の論文(2014)によれば、RTPには定訳がないのでこの「乱闘遊び」という表現を使う、とある。ただしネットでじゃれ合いの英語表現を探すと playing around, horsing around と出てくるが、play around 等はむしろ「戯れる」という感じではないかと思う。「じゃれる」にはラフで手荒な要素が必ず入ってきて、その意味ではRTPとちょうど一致するという感じがする。)

荻本快(2014)幼児の自己制御を育む父子遊びの発達力動理論-介入プレイ観察による力動理論の構成 Educational Studies, 56 :81‐88. International Christian University.  この論文を読んでいくと、色々興味深いデータが出てくる。扁桃核にはキンドリング(燃え上がり)という現象があるが、それを起こしやすいラットだと遊びが多いという。しかしそれだけでなく、早期の母子関係が遊びに深く関係するらしい。母親からのLG (licking and grooming ぺろぺろ舐められ、毛づくろいをしてもらうこと)が高値のラットは、怖れが少なく、新しい環境での探索をし、驚愕反応も弱いという。ただし一日15分ほど母親から分離されたラットは、むしろ不安が少ないという。少しは母親から隔離される必要があるのだ。 ただしラットはLGが低ければ遊びが増すという研究もあり、このLGと遊びの関係についての研究は相当ややこしいらしい。 ところでこの論文に何度も出てくる pinning という表現。どうしてもよく分からないので、チャット君に聞いたらあっという間に教えてくれた。仰向けに組み伏せること。ちょうど何かをピン止めすること、というニュアンスだ。じゃれ合いにはしばしばこの pinning という行動が伴うが、それはおそらくセックスに関係し、その意味ではじゃれ合いは攻撃性と性行動の両方の準備の意味がある可能性があるらしい。 もう一つ重要な情報。中枢神経興奮薬(amphetamin, methylphenidate ) などは遊びを抑制するが、それは遊びの際のノルエピネフリンの量の低減が抑えられるからだという。なるほど、そういうものか。逆に言えば遊びと緊張や興奮とはある意味で対置的ということかもしれない。

2025年4月18日金曜日

遊びと愛着 1

遊びに関するある学会から「お呼び」がかかった。何かを講演で話さなくてはならない。どうしようか。私はプレイセラピストでもないし・・・・。 そこでいくつかの素材を出してみよう。まず精神分析について。しばしば怒りや攻撃性のテーマが出てくる。例えば今論考を準備しているパニックと不安に関しては、精神分析では次のように理解する。「分離、自立、怒り、罪悪感をめぐる精神内界における葛藤がパニックの発症とその継続に関係している」。つまり遊びの欠如が自らの攻撃性や性行動に関する様々な葛藤を引き起こしている可能性が有る。 そこでまずは私が興味を持つ動物実験から。動物の遊びについては面白い記事を見つけた。(チャット君が教えてくれたのだ。)ベルリンのフンボルト大学の研究で、ネズミの脳内に「笑いと遊び心を制御するのう回路」が発見されたというのである。(「ナゾロジー」のサイトから。)https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/130792#google_vignette ) ラットはとにかく遊び好きらしい。youtube でもラットが人と遊ぶ動画がたくさん出てくる。面白いのはラットは人と遊ぶのが大好きで、その時キャーキャーと笑い声をあげて騒ぐという。これは人間の赤ちゃんや幼児と似ている。ただしラットのキャーキャーという嬌声は高周波の超音波レベル(50~55KHz )で、人には聞き取れないのだ。しかし研究者はラットの実験を通して、遊びが生物に共通した起源をもっているのではないかと論じる。しかも遊んでいるときは中脳水道周囲灰白質(PAG)という快感に関係する部位が興奮する。つまり遊びは本来心地よいものなのだ。ここを興奮させるのが、「喧嘩ごっこ」であり、偽の攻撃と偽の逃走を交互に演じる。そしてラットのPAGを破壊してしまうと、遊びは消失する。くすぐられても声をあげず、遊びに興味を失ってしまうのである。ネットでアクセスできる以下の論文をもう少し読んでみよう。 Siviy SM. A Brain Motivated to Play: Insights into the Neurobiology of Playfulness. Behaviour. 2016;153(6-7):819-844. この研究によれば、ラットには「遊びの脳内回路」がしっかりあり、それが系統発達的に受け継がれてきているのだろうという。遊びは強烈な快感を引き起こすために、ラットは成長過程でそれを避けて通ることが出来ない。ラットは彼らにとっての「思春期」に至るまで、ジャレまくり、それはちょうど生後35日がピークであるという (Panksepp,1981)。そして興味深いことに、じゃれあうつがいは抑えたりたたいたりを大体均等に行うという。つまり追っかけたり、追っかけられたりが交互に行われ、決して一方から他方への追跡行動が続くわけではない。もし一方的であれば一種の虐待になってしまうのだ。ここがとても大事である。 またジャレ合いはラットが隔離されている時間に比例して起こるという。つまりしばらく隔離されていると、より激しく長時間遊ぶという。あたかも栄養のように一定量のジャレ合いを体が欲しているように、である。

2025年4月17日木曜日

不安とパニックと精神分析 推敲 4

パニックや不安へのより精神分析的なアプローチ

 以上検討したように、パニック障害はストレス―脆弱性モデルによくあてはまるため(Kendler, 1992)その治療手段は薬物療法やCBTが主流となる。しかしそれだけでは改善しないことも多く、本当に治療するためには力動的な治療が必要であるという立場もある(Milrod)。やはり海馬―皮質系の関与によるトップダウン式の治療が必要となり、そこに精神療法の出番があるということだ。つまりこれはおそらくCPTSDと同様の治療的なアプローチが必要ということになる。

最初に当論考のタイトルを「精神力動的 psychodynamic 」な(「精神分析的 psychoanalytic な」とせず)立場からパニック・恐怖と不安の理解」としている理由について述べたい。「精神力動的な精神医学の臨床実践 psychodyamic psychiatry in clinical practice」で Gabbard が述べるように、精神力動学は精神分析に多くを負っているものの、そこで主として用いられる葛藤モデルだけでなく、いわゆる欠損モデルをも取り込んだ、生物学的心理的社会的精神医学という包括的な概念である。そして「私たちの精神活動はもっぱら無意識的であり、環境における社会的な影響力が遺伝子の表現を形作り、心は脳の活動を反映するという考え」に基づく(Gabbard p.4)。以下に述べるようにパニックや不安は脳生理学的なメカニズムやトラウマ、愛着などを考慮する必要があり、その臨床的なアプローチは精神分析的である以上に精神力動的でなくてはならない。

しかしパニックや不安に対して、より精神分析的なアプローチも提唱されている。

精神分析的なアプローチ ― Bush & Milrod 

Busch とMilrod は1997年にパニック障害の力動的治療のマニュアルを発表した。

Milrod, B.L. & Busch, F.N. eds. (1997)  Manual of Panic-Focused Psychodynamic Psychotherapy. Amer Psychiatric Pub Inc.

1997年にこの著書が出された背景としては、パニック障害はCBTと薬物療法が主たる治療手段になっていたが、やはりすぐぶり返してしまうので、本当に治療するためには力動的な治療が必要であると考えられたそうだ。そこで彼らは週二回、全体で24回のセッションからなる治療法のマニュアルを発表した。そして2013年にはその適用範囲をDSM-IVにおける不安性障害とクラスターCパーソナリティ障害に拡大した論文を著している。

Busch, F. N., & Milrod, B. L. (2013). Panic-Focused Psychodynamic Psychotherapy–Extended Range. Psychoanalytic Inquiry, 33(6), 584–594.

Milrod によるこの治療法は以下のように概念化されている。(以下、2013年の文献の抄録から)

パニックや不安においては分離、自立、怒り、罪悪感をめぐる精神内界における葛藤がパニックの発症とその継続に関係しているという。そして治療ではパニック発作の意味や状況を検討し、それに関係した精神内界の力動、発達の要因、転移などについて検討することで、それらの力動の認識と理解を高めることが必要であると言う

 ところでこの論文にはケースが出てくるが、その治療プロセスで印象的なのは、治療の記録を読む限り、普通の分析的な精神療法とあまり変わらないということだ。治療者は患者に自由に話してもらい、その転移について扱う。しかし実際は治療者はパニックや不安に関連した葛藤や分離の問題を繰り返し扱うのだという。そしてこのケースに見られたように患者の様々な症状の背後に抑圧された攻撃性や性愛性を見出すという伝統的な考えに沿ったものという印象を受ける。

この研究は同じ24セッションの応用弛緩法 applied relaxation therapy との比較において行われる。この研究に出てくるPSRF (panic-specific reflective functioning パニックに特化した内省機能)というスケールが興味深い。つまり患者がパニックに関わるその他の感情にいかに内省的かを測る指標であり、それはこの治療の前と後で明らかに下がっているというのだ。このようなスケールを用い、その点数が治療によって下がり、また患者のパニックやその他の不安症状が低下したという報告を読む限りは、パニックや不安が「抑圧された様々な感情の表れ」であるという仮説を受け入れざるを得ないであろう。その意味ではうまくデザインされた研究である。


2025年4月16日水曜日

不安とパニックと精神分析 推敲 3

   人間ではストレスによりロカールシステムの抑制機能が低下し、タクソンシステムの働きが優位になる。するとそれまでうまく抑制されていた恐怖体験を再浮上させるという。これが精神分析で言うところの「より原初的な防衛メカニズムへの退行」であるという(Jacobs and Nadel, 1985 )。すなわち表面上はパニック発作が収まったとしても、オリジナルな記憶はずっと眠っていて、ストレスで再活性化されるということだ。するといったん収まったパニックが別のトリガーで引き起こされるという症状変遷が起きる可能性がある。そしてその治療手段としていわゆる stress inoculation (ストレス免疫訓練)がある。これは将来のストレスに対して認知的な準備をしておくということだ。それはロカールシステムによる抑制力を高めるということに通じる。  ここでロカールシステムに関与している海馬は養育上の問題とそれによる不安やパニックの生じやすさに深く関係している。Sapolky らの研究によれば、海馬はストレスと深く関係する。主要なストレスホルモンであるグルココルチコイド(以下GC)の主な役割は、緊急時に筋肉や脂肪を分解して、脂肪酸やアミノ酸を作るとともに免疫反応を一時的に抑えることであるが、海馬はこのGCの受容体をたくさん持っている。海馬はそれにより血液中のGCの量をモニターし、ネガティブフィードバックをかける役割を果たす。すなわち高値のGCを検知すると、海馬は視床下部や脳下垂体に働きかけ、GCの産生を抑えるよう副腎皮質に促すのだ。  ところが海馬は高濃度のGCに晒されることでダメージをこうむり萎縮することが知られている。これはPTSDの患者の海馬は萎縮しているという研究結果と一致するのだが、実はPTSDになりやすい人は最初から海馬が萎縮しているという研究もあり、ストレスと海馬の萎縮との因果関係は双方向性らしいとされている。  ところで母子関係が十分に成立している場合にはこの海馬のGCのリセプターがたくさん作られ、それによりストレス時のGCの値をコントロールできることになる。逆にそれが不十分な場合にはストレスに弱く海馬のGCのリセプターも少ないということがラットの研究などで知られている(Cozolino, p253)。  まとめるならば、パニックには扁桃体と海馬‐皮質系が密接に関係している。また外傷記憶が生じる際には青斑核の関与も重要だ。そして愛着期の問題は将来のパニック発作に深く関与する。海馬を介する記憶システムが機能し始める前の愛着の時期に受けたトラウマは、無意識的な記憶となって将来のパニック発作に関与するが、それは具体的なトラウマ記憶を伴わないことになる。  以上のような脳生理学的なメカニズムを念頭に置いたうえで、パニックや不安症状を持つ臨床例について改めて考えてみる。彼らのパニック発作は日常におけるストレスにより惹起される傾向にあることが指摘されている。Kendler(1992)らの研究では、恐怖症はいわゆるストレス―脆弱性モデルによくあてはまるという。つまり生まれつきの気弱な気質と同時に環境の要因が大きいということだ。特に17歳以前で体験する親の死や、過保護的であると同時に放棄する親の姿勢が大きな要因となっているという。また養育期の母親のストレスが大きな影響を及ぼすという研究もある(Essex et al. 2010) 。  パニックの患者の多くはその発症に先立つ何か月かにおいてストレスフルな人生上の出来事を見出すことが出来、(DSM‐5‐TR,p244)特に死別が関係しているという(Faravelli and Pallanti, 1989)(Gabbard, p.263)またある研究はより多くの患者について両親からの離別や死別、ないしは早期の母子分離が関係していることを示しているという(Milrod et al. 2004)。またジェロ―ム・ケーガンによる研究では、パニックの患者は子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとされる。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(Gabbard, p264)。  同様の傾向は社交不安障害(SAD)についてもいえる。上述のジェローム・ケーガンの子供時代の「見慣れないことに対する行動上の抑制 」という特徴はSADにも当てはまるとギャバ―ド先生は記述する。そしてSADにおいてもSSRIなどの抗うつ剤だけでなく、精神療法が有効であるというのだ。SADにおいては力動的療法はCBTと比べると、後者に軍配が上がるという。そして力動的な治療者であっても患者を恐れる状況に直面化することを奨めるという。  不安障害の場合、恐れている状況に直面しない限り、無意識の連合ネットワーク unconscious associational netoworks を改変する事は出来ない。なぜならそれは扁桃体や視床などの皮質下の経路を含み、それは解釈などの認知的、大脳皮質的なアプローチでは改変できないからだという。フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がないという現実だ(2003,p835)。 つまり精神分析では意識的な問題をあまり扱わないという不文律があることが、かえって表面的な不安や恐怖症の症状を扱わないことになっている可能性があるのだ。


2025年4月15日火曜日

不安とパニックと精神分析 推敲 2

 パニックや不安の生理的なメカニズム

 フロイトは不安についてリビドー論的な理解を示したが、それは現代におけるパニックや不安についての脳生理学的なメカニズムの理解とどのように関係しているのであろうか。

 パニックと不安についての力動的な臨床を考えるうえでその生物学的な基盤を合わせて理解するためにコゾリノの論述を参考にしよう。本書(Louis Cozolino (2002) The Neurosciene of psychotherapy ― Builidng and Rebuilding the Human Brain. W.W. Norton and Company. (邦訳あり))は少し古いとはいえこのテーマにとって最良のテキストと言える。 

 コゾリノはパニックにおいては人はしばしばストレスや葛藤とパニックの関連性に気が付かないが、それはその関連性が無意識レベルに存在するからだとする。(ただしコゾリノは実際には「無意識レベル」と言う代わりに「神経的な隠れ層 hidden neural layers」にある(p243)と表現している。つまり彼の中ではこの20年以上前のテクストで、すでにニューラルネットワークと心を同一視しているのである。)

 コゾリノはパニックは内的、外的な刺激が引き金となるが、そこに扁桃体と、海馬―皮質(特に眼窩前頭皮質 OFC)ネットワークが関与しているとする。そして刺激に対して扁桃体が興奮するわけであるが、それは偏桃体が有する「一般化 generalization の傾向」が発揮されることにより、恐怖刺激に類似した刺激によって広く反応するようになり、それがパニックであるとする。ただし海馬―皮質ネットワークはその扁桃体を抑制する作用があるとする。

 ところで人間は生下時には扁桃体は機能しているが、海馬―皮質によりその過剰な興奮が抑制されることがない。すると生まれて初期のパニックは、それこそ圧倒的かつ全身体的な体験 overwhelming and full-body experiences となる。そしてその体験は決して皮質に記憶としては保存されず、後になって直感的な知識 intuitive knowledge として立ち現れるという(p245)。この様に理解するならば、パニックとフラッシュバックはやはり同根、ということになる。

 コゾリノは扁桃体に影響を与える要因として、青斑核の果たす役割についても論じる。これもパニックを考える際に極めて重要だ。青斑核は脳の中で一番広範囲に投射されている部位で、ノルエピネフリンの生産拠点であり、要するに非常事態で脳や交感神経系を介して体全体にアラームを鳴らす役割をする。(実際に解剖の実習でも、青斑核はその名の通り染色なしでうっすら青い色をしていたのを覚えている!!)青斑核は情動体験が生じた際に、扁桃体の記憶回路に「print now (トラウマ記憶を作成せよ)!」という命令を送る。これは海馬―皮質経路があまり活動していない時にでも生じる。つまり夢の刺激であってもFBが生じることになり、その意味でも実質上パニックとFBは区別がつかないと言えるだろうか。

ここで少しわかりにくいので整理しよう。恐怖刺激→扁桃体中心核→青斑核→青斑核から扁桃体に「トラウマ記憶を作成せよ!」という双方向性の連絡が生じることになる。そしてこれに関連して速いシステムと遅いシステムの話になる。

〇 タクソンシステム taxon system(=速いシステム、または扁桃システムamygdaloid system)スキルやルールや刺激―反応の連環を獲得し、それ自身はコンテクストフリーであるという。つまりその学習に関連して時間や場所が記憶されるわけではない。そしてもちろん第一義的に無意識的だ。そしてこれが手続き的、ないし暗示的記憶に関わる。それにくらべて 〇 ロカールシステム locale system (=遅いシステム、海馬―皮質経路を中心とする)は認知マップや時系列的な記憶、意識的な表象に関係する。正常の、トラウマのない養育においては、これらの二つのシステムは連結されている。ところがトラウマ的な幼少時を送ると、これらが解離するのである。

2025年4月14日月曜日

不安とパニックと精神分析 推敲 1

はじめに

本稿は精神分析の立場からパニック・恐怖と不安の理解と対応について論じる。なおこの論考と並行して本誌ではそれぞれ認知行動療法、森田療法、「マインドフルネス、催眠、ポリヴェーガル」の立場からの寄稿が予定されており、本稿はそれらの立場との違いをある程度明確化することも求められている。

まず総論から始めるならば、不安やパニックはフロイトの精神分析理論の中で極めて重要な位置を占めることは言うまでもない。フロイトはその業績の中で不安について極めて多く論じたことが知られる。不安は症状として見られるとともに、それは葛藤の存在を意味し、分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなるという意味ではむしろ好ましい兆候とみなされていた(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2)(以上「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」)

精神分析理論において不安は中心的な位置を占めるが、フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。一つはマイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるものであり、もう一つはパニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるものであるとした。そしてフロイトは後者はいわゆる現実神経症 actual neurosis と呼んだ。前者は原則的には分析により治療が可能であるとしたが、後者は単に患者の性的活動を高めればよいと考えた。

 その後フロイトは1926年にこの不安の概念をより洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。その意味で不安は無意識からの危険信号であるとした(いわゆる「不安信号説」)。それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号であるとした。そしてそこで抑圧の機制がうまく行かないと、OCDやヒステリーや恐怖症になる、とした。

このように考えた場合、不安は「自我の情動 ego affect 」ということになり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠すが、一方では不安それ自身は受け入れられるものである。ギャバ―ドはさらに精神分析において不安は発達論的にいくつかに分けられることを指摘しする。それらは超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安である。しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。

Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder.  Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985.

ギャバ―ドはまたこのモデルにおいて下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、その後も様々な形で出現すると述べている。例えば迫害不安は民族間の対立や戦争の原因になる、などの例が挙げられている。


2025年4月13日日曜日

不安とパニックと精神分析 13

  ところでこの論文には症例が出てくるが、それを読む限りは一般の精神分析的精神療法と大した違いは感じられない。患者は54歳の男性の会計士だが、彼自身のクライエントが攻撃的だとパニック症状や不安が誘発される。特にクライエントが法律すれすれの会計処理を患者に迫ることで、患者は自分が何か悪いことをしているのではないかという罪悪感にさいなまれる。しかしクライエントの言うことを聞かないと今度はクライエントが自分のもとから去ってしまうのではないかと不安になるのだ。  この患者の社会生活歴においては、彼の父親もまた彼に対して高圧的な態度やいじめに近い接し方をしていたという。しかし治療が進むにつれて、患者の彼自身のクライエントたちに対するいらだちや、父親に対する深刻な怒りの問題が明らかになった。患者はそれを意識したり表現したりすると「厄介なことになる」のを恐れていたのだ。  患者はある時父親に関連した用事のためにセッションをキャンセルする必要があったが、それが治療者の怒りを買うのではないかと心配し、葛藤をしつつそれを告げた。しかしその時の治療者の態度がそっけなかったと感じられたことに不満や怒りを表明するに至った。  さらに患者は終了間際のセッションが予定通りの短いフォーマットであったことに怒り、不満を表明した。そのことは契約した当初から告げられていたにもかかわらず、である。そして患者は「自分は一種のいじめを受けているのだ」と表明したが、それは父親から受けていた仕打ちと似ているということが分かった。そして治療が終わると、彼のパニック障害やそのほかの不安は大きく改善したとある。  このプロセスで印象的なのは、治療の記録を読む限り、普通の分析的な精神療法とあまり変わらないということだ。治療者は患者に自由に話してもらい、その転移について扱う。そしてこのケースに見られたように患者の様々な症状の背後に抑圧された攻撃性や性愛性を見出すという伝統的な考えに沿ったものという印象を受ける。ただしプロトコールには、治療者はパニックや不安に関連した葛藤や分離の問題を繰り返し扱うのだということが記されているのだが。  この研究はコントロールとしての、24セッションの応用弛緩法 applied relaxation therapy との比較において行われる。この研究に出てくるPSRF (panic-specific reflective functioning パニックに特化した内省機能)というスケールが興味深い。つまり患者がパニックに関わるその他の感情にいかに内省的かを測る指標であり、それはこの治療の前後で明らかに下がっているというのだ。このようなスケールを用い、その点数が下がり、また患者のパニックやその他の不安症状が低下したという報告を読む限りは、パニックや不安が「抑圧された様々な感情の表れ」であるという仮説を受け入れざるを得ないであろう。その意味でうまくデザインされた研究だ。

2025年4月12日土曜日

不安とパニックと精神分析 12

 実はそろそろまとめに入ろうと思っていたところだった。と言うの文字数からして5000字を超えていたからである(リクエストは6000字)。ところが次の文献を発見してしまった。

Milrod, B.L. & Busch, F.N. eds. (1997)  Manual of Panic-Focused Psychodynamic Psychotherapy. Amer Psychiatric Pub Inc.

Busch とMilrod によるパニック障害の力動的治療のマニュアルだ。出版は1997年でかなり古いが、今書いているこの論文にとっては絶対欠かせない文献。しかしアマゾンで購入すると一万円以上する。さいわいこれに関する同じ著者による論文が2013年に出されていて、open access で手に入る! したがってしばらくこれを読むしかない。

Busch, F. N., & Milrod, B. L. (2013). Panic-Focused Psychodynamic Psychotherapy–Extended Range. Psychoanalytic Inquiry, 33(6), 584–594.


ところで1997年にこの著書が出された背景としては、パニック障害はCBTと薬物療法が主たる治療手段になっていたが、やはりすぐぶり返してしまうので、本当に治療するためには力動的な治療が必要であるということが上げられるそうだ。つまりそれは人格障害的 characterological、かつ力動的 psychodynamic な問題がそこに大きく絡んできているからであるとある。(この本の紹介文より)この治療法は週二回、全体で24回のセッションからなる、と言うのだからかなりマニュアル化された治療法である。

2013年の論文ではどのようにその内容に変化があったのか興味深い。そこでこの2013年の論文を読むと、この治療法が、パニック障害のみならず、DSM-IVの不安性障害、クラスターCパーソナリティ障害にも拡張されることについての論文なのだ。その抄録によると、パニックや不安においては分離、自立、怒り、罪悪感をめぐる精神内界における葛藤がパニックの発症とその継続に関係しているという。そして治療ではパニック発作の意味や状況を検討し、それに関係した精神内界の力動、発達の要因、転移などについて検討することで、それらの力動の認識と理解を高めることである、と言う


2025年4月11日金曜日

AIはなぜ【心】を持ったのか? 3

 次に本題に入る。AIはなぜ【心】を持ったのか?ここでは具体的には「大規模言語モデル」(large language model, LLM)について話すことになるが、まずはその前提となることから。 まず私がここでいう【心】とは、話している限りは主観性と感情を備えた心としてふるまうAIのことである。この機能は専門用語では「機能的な理解 functional understanding (FU)」と呼ぶそうである。そして現在の生成AIはこのFUを獲得しているのは間違いない。(手塚治虫の火の鳥【未来編】に出てくる「ムーピー」と同様である。)この【心】の特徴を一言で言うならば、主観(クオリア)を持たず、感情を有しないということであり、それ以外は私たちの心に匹敵するものと考えられる。さてここで「大規模言語モデル」が登場するが、要するにそのようなFUをAIが獲得したのは、LLMというモデルを用いたからである。 ではLLMとはどのようなものかと言えば、たとえば以下の様な定義がAI自身から得られる。「大規模言語モデル(LLM)は、深層学習アルゴリズムの一種、さまざまな自然言語処理(NLP)タスクを実行できる。それはトランスフォーマーモデルを使用し、膨大なデータセットを使って訓練し、 これによりテキストやその他のコンテンツの認識、翻訳、予測、生成が可能になる」(ChatGPTによる回答)。 これだけでは漠然としているが、「テキストを使って訓練する」とは具体的に言えば、文章の次に続く単語を予想するという訓練を自己学習するということである。これをもう少し簡便に「穴埋め問題を自己学習する」と表現することになる(実際には2018年のBERTはこのランダムマスク法、つまり「穴埋め」方式であり、GPTは「次の単語当て」であった。)

さてこの事実を知り、またLLMの何たるかを知らない段階で私は次の二つの疑問を持った。 ①どのような訓練をしたかはさておき、AIに感情がないのであれば、自然な会話など成り立たないのではないか。AIは主観を持たないなら、すこし話をすれば必ず馬脚が現れるはずなのにそれが起きないとしたら何故か。(ただし後に分かったことは、この疑問は私がAIについて無知だったから、心とは何か、理解とは何かについて十分に考えていなかったから生まれたということだ。) ②穴埋め問題を解くだけで、どうして人と自然に会話をするだけでなく、社会常識のようなものまで身に着けた【心】が突然成立したのか。その一つのヒントは例の強化学習であり、自動的に、高速で学習が出来るような装置が出来上がったことである。 ここで私が至ったのは次の点である。文章を理解する、とはそれを抽象化するということだと考えると、LLMは穴埋め問題を解くことに習熟するとともに、その文章の抽象化を行うことが出来るようになったシステムであるということだ。そしてLLMはその中身を少し知ると、実に巧妙にできていることがわかる。

2025年4月10日木曜日

パニック推敲 その2

 パニックや不安への力動的なアプローチ

 現代における力動的なアプローチに関しては、治療者は、これまで述べた脳生理学的なメカニズムを理解し、患者の生まれ持った気質や患者の体験するパニックや不安の引き金や遠因となる様々なストレス因やトラウマ記憶について把握する必要があるだろう。その上で当面は現実の生活において生じるパニックをいかに回避するか、あるいはその症状をいかに軽減するかという具体的な対処を求められることになる。
 その際現在の精神医学においてはCBTや薬物療法が主流と考えられることは十分理解できる。薬物療法は患者において過剰に働いているタクソンシステムに対して薬理学的に働きかけるという、直接的かつボトムアップ的なアプローチと言えるであろう。また暴露、反応予防、リラクセーショントレーニングも同様に、扁桃体の記憶システムに保存された無意識的な連想 unconscious assotioation の条件付けを弱めるような働きを有するという(Cozolino p.248)。

 しかしパニックや不安を抱えた患者の力動的なアプローチには、海馬―皮質系のロカールシステムに働きかけた、トップダウン式の治療の併用が必要となる。そしてそこにはCBTやストレス免疫療法を含めた(p.248)あらゆる言語的な介入が含まれることになる。

 力動的な介入には欠損モデルないしはトラウマモデルに基づく考え方が必要であることはすでに述べたが、そこにはその人の生来の気質や幼少時の愛着その他の養育上の問題、そしてその後の人生におけるストレスやトラウマの影響を考える必要がある。
 もしパニックや不安がかつて体験したトラウマや心的ストレスに関係していることが比較的明らかな場合、それらの記憶のフラッシュバックやそれが誘因となりパニック発作が生じている可能性がある。その際その過去のトラウマをいかにあつかうかが臨床上重要な治療的課題となる場合が多い。ただし治療者はひたすら患者の過去のトラウマ記憶を扱えばいいかと言わばそうではない。トラウマ記憶の不用意な扱いは再外傷体験を生み、フラッシュバックの頻発を生むかもしれない。しかしトラウマ記憶を回避することだけが望ましいかと言えばそうではない。フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がない(2003,p835)という問題がある。そしてそのためには上述のトップダウン的なアプローチもまた重要となるのである。 

 幼少時の愛着の問題が見られる患者の場合は、力動的なアプローチはより錯綜したものとなる。そこでは愛着トラウマに関連した棄損された自己イメージや対人関係上の問題が扱われることになるからだ。そしてそれはいわゆる複雑性PTSD(以下、CPTSD)における「自己組織化の障害」に対するアプローチに相当すると考えることが出来るであろう。筆者は特に原田の示した治療指針を参考にしたい。(原田、2021、p118)原田はCPTSD関わる幼少時の繰り返されるトラウマを「複雑性外傷記憶」と呼ぶが、これはアランショアの言う「愛着トラウマ」にほぼ相当するものと思われる。そしてそれに対する認知療法的なアプローチを提唱する。その中でも外傷記憶の活性化により「友好・安心モード」から「敵対・混乱モード」に移るという図式を提唱し、それを患者への心理教育も含めて治療のターゲットの一つとする。これは患者が示す問題について、それを認知的、行動的なレベルでの表れにフォーカスを絞った治療方針として非常に有効と思われる。


AIはなぜ【心】を持ったのか? 2

 いわゆる「フレーム問題」の克服

ところでこの自己学習型のAIはいわゆるフレーム問題を解決した。フレーム問題とはある特定の条件下での正解を教え込ませても、それから少しでもずれるともう間違えるという問題。将棋で言えば、古いAIならちょっと常識とはずれた手を打つとたちまちAIは対応できなくてとんでもない反応をしてしまう。これは一つの問題と一つの正解を組み合わせて覚えこませるという詰込み型の学習しかしなかったコンピューターには永遠について回る問題だ。つまり古いコンピューターは非常に狭い枠組み(フレーム)でしか機能しなかったという問題である。もう少し分かりやすく言えば、古いコンピューターは一切応用が利かなかったということだ。
発達障害の傾向が強いと、人との自然な日常会話を練習しても、少しでも新しい表現とか抑揚で話しかけられるととたんに対応できなくなることに似ている。 ところが自己学習したAIは正解そのものではなく、正解に近いものをいくつか挙げる能力があるために、あいまいな入力に対応できるようになっているという長所がある。
例えば猫の絵を検出するAIを作るとする。昔の詰込み型だとあらゆる猫の画像を覚えこませてそれを猫だと教えることになる。すると世の中に存在するすべての猫やその画像を入力しない限り、そこに含まれないものは猫と検知しないことになる。かなりの数の猫の画像を覚えこませても、猫の尻尾だけとか一筆書きの猫のイラストだったりすると、たちまち間違える。地上に存在するあらゆる猫の画像をインプットしても、その中の一枚に髭を一本描き加えるだけで猫と認識しないということが起きる。これがフレーム問題だ。
ところが自己学習型だと、答えを予想させ、例えば猫である確率が80パーセントで、ライオンである確率が5パーセント、などの答えが出せるようになる。つまり内部の装置はあみだくじのようになっていて、その橋桁を少しずつ調整することで、正解に近付くことが出来るようになっているのだ。
そしてこの自己学習はまさに人間の子供がいつの間にか行い世界を知るというプロセスと同じ。そしてそこで決定的に重要なのが、これは猫か、犬か、と予想をして、答えを得て自分の脳の回路を修正するというプロセスを繰り返すこと。このプロセスが決定的で、例えば英語を習得する際に他人の話す英語をただインプットしても決して話せるようにならない。本来母国語でも親との会話を通して試行錯誤をすることでしか習得できないのだ。鳥も鳴けるためには、親鳥の鳴き声をただ聞いているだけではなく、試行錯誤で鳴いてみて修正される必要があるのだ。ただこのことは当たり前のようでいて、AIの研究の発展の中ではなかなかわからなかったという。