2025年5月25日日曜日

レクチャーデイ 強度のスペクトラム ①

 昨年4月に行った分析協会主催の「レクチャーデイ」の発表を文章で提出するという仕事を全く忘れていた。そこでチャット君の力を借りて作成した。前半は以下のとおりである。(チャットによるまとめの絶対的なメリット:タイポが原則的にはあり得ないこと。)


Lecture Day 10回 令和6414日 「頻度について考える : 精神分析と精神療法の共存」

   「分析的な出会い」と強度のスペクトラム


はじめに

精神分析と精神療法の異同については、これまでもさまざまな議論が展開されてきた。その中で「頻度」は特に重要な論点の一つであり、両者を区別する上でも、また共存の可能性を探る上でも不可欠な視点である。

しかし、頻度について議論を深めるためには、それ以前に考慮すべき前提があると私は考える。以下の二点がその出発点である:

1.     精神分析において何が「治癒機序(therapeutic action)」として機能するのかの再検討

2.     精神分析と精神療法の治癒機序は異なるのか、という問い

まず、米国精神分析協会の定義を紹介したい: 「分析的精神療法は精神分析の理論と技法を基盤としているが、頻度は週1回と低く、通常はカウチを用いず座位で行われる。とはいえ、自由連想の使用、無意識の重視、治療者・患者関係への焦点といった点で、精神分析に極めて近い。」

私自身の立場は、おそらくこの定義に近いものであり、以下の観点から整理しておきたい。

精神分析と精神療法には、共通の治癒機序が働いていると考えられる。そのため、両者を本質的に区別する必要はない。この立場は、高野晶先生の「近似仮説」や藤山直樹先生の「平行移動仮説」と親和性がある。
すなわち、精神分析は精神療法のスペクトラムの一形態として理解されるべきである。
条件が等しければ、週4回の頻度が望ましいだろうが、「週4でなければ本物ではない」といった議論は不適切である。
4回か週1回かという頻度の選択は、単に「どちらが優れているか」ではなく、経済的・時間的制約や治療者側の事情などを踏まえた実際的な妥協である。

なお、藤山先生の「平行移動仮説」とは、精神分析の技法や病理論を、訓練分析を受けていない治療者による週1回の臨床実践にそのまま応用可能とする考え方である。

何が「治療的」なのか?——いわゆる「治癒機序」について

 頻度の問題を考察するにあたって、「治癒機序(therapeutic action)」の検討が不可欠である。その代表的な議論として、James Strachey1887–1967)が1934年に提唱した「変容惹起的解釈(mutative interpretation)」がある。これは転移解釈を通じて心的変化を促すプロセスであり、長らく精神分析の中心的治癒概念とされてきた。

Stracheyによれば、
患者は攻撃性などの本能的衝動を治療者に向ける。
その結果として、患者は自己の内的対象と現実の治療者の姿とのギャップに気づき、新たな外的対象として治療者を受け入れるようになる。
このプロセスが積み重なることで、患者の内的対象イメージが修正されていく。
治療者はその間、自らの逆転移を吟味しつつ、情緒的反応を抑制し、解釈を通じて対応する。

この転移解釈モデルが王道とされる一方で、それとは異なる方法論や治療的立場の模索が始まる契機となったのが、いわゆる「週1回」の精神療法実践である。頻度が低くても効果が得られる事例が報告され、精神分析の定義そのものが問い直されるようになった。

メニンガー・クリニックにおける試み

 代表的な実証研究として、196070年代に Otto Kernbergらの主導により、BPD(境界例)患者を対象としたPsychotherapy Research ProgramPRP)が実施された。

● BPD治療において、標準的精神分析と支持的精神療法の効果比較が目的とされた。
● 3群(精神分析/洞察的精神療法/支持的精神療法)に分類し、治療成果の違いを検討。
結果的に、頻度や技法にかかわらず、治療効果には有意差が見られなかった。
洞察によらず変化が生じる例も多く、支持的アプローチにも「構造的変化」が確認された。

この結果から導かれたのは、以下のような結論である:

「すべての治療は常に表出的であり、かつ支持的である」(Wallerstein
治療的介入は状況に応じて、両者の間を往還する(Gabbard
治癒機序としての「転移解釈」だけを特権視すべきではない