2025年5月20日火曜日

遊びと愛着 推敲 7

 昨日の続き。

動物どうしのじゃれ合いはきょうだいとの間でも、番う相手との間でも見られるようになる。そしてそれはラボのケージに入っているラットと人間との間でも再現される。こうしてじゃれ合いは科学的な研究対象となっているわけだ。
そこで研究者たちが発見したのは、それがラットの生後何週間かの間に見られること、そしてそれが強烈な快感を及ぼすらしいこと、そしてそれが適応的であるらしいということである。それはじゃれ合いを経た動物がその後ストレス耐性を得て、不安が軽減されるという実験結果から推察されることであり、そしてそこにはじゃれ合いの幾つかのルールないし規則性が有ることも分かった。例えば交互性などである。つまり一方的な追っかけ役、と言うのはなく、だいたい均等に、やって、やられてを繰り返すのであり、だからこそ快感なのであろう。反転現象こそが面白さの源泉なのである。

じゃれ合いのグラデーション

そこで「遊戯療法」に少し近づく。人間においてもじゃれ合いは同様に適応的ではないか、という仮説のもとに研究が進められているが、どうやらこちらの方はもう少し込み入っている。子供の親とのじゃれ合いはしばしば子供の暴力性と結びつくという。特にネガティブな感情が伴ったり、親の優位性が保てなかったりする。このことから仮説として浮かび上がるのは、じゃれ合い、ないしは遊びのグラデーションである。二種類を考えたら、それぞれのニュアンスや意味あいは違って当然だからだ。

じゃれ合い(1)

まず生直後の母子間のじゃれ合いは、愛着の段階で生じる。そこでは最初は力の差は絶対であり、そこでのやり取りはおそらく子供が将来子育てをする際に役立つことを学ぶ。つまりは対象を自分の一部とみなすという体験である。子は親を思いやる。つまり親は子供に同一化する。子供は同一化される体験を有するが、同時にその親を本気には攻撃しない、つまり「じゃれ合う」という体験を有することで、親に同一化するという体験を持つ。するとそれは自分が親になった時に子を思いやる(同一化する)体験の素地となるはずだ。あるいは性愛性とも関係する可能性が有る。その場合は少し違った形での同一化であろうが。ともかくも相手を同一化の対象とみなして接するというプロセスが、このじゃれ合い(1)だ。

じゃれ合い(2)

その後のじゃれ合いは思春期に至るまでに生じ、相手を思いやるというレベルと相手を仮想敵ないしはライバルとみなすレベルの両方がまじりあう段階になる。それは最初はそれまで愛情を注いでくれた親からの手痛い扱いやあからさまな攻撃性の表れの形をとり、子はそれを自分が独り立ちするよう促されていると受け取って親元を離れるかもしれない。またきょうだい通しの間のかなりラフなじゃれ合いは、実際に狩りの練習の意味を持つかもしれない。そこにはいじめに近いものも含まれよう。そこでは自分の攻撃性の限界を試し、それが発揮された際の効果を見極めるという意味を持つ。これが重要なのは、実際の狩りでは自らの攻撃性は十分統制されていなくてはならないからだ。狩りの相手はおそらく憎しみの対象では必ずしもない。むしろ感情すらない「モノ」扱い。最小限の力の発揮により仕留めるべき相手なのである。余計な感情の暴発はかえって命取りになりかねない。これは例えばボクシングのスパーリングや実際の試合、武道における組手や試合に相当するかもしれない。
このように考えるとじゃれ合いは攻撃性や性行動の練習、というよりは、よりニュアンスを持ったものとして理解されるべきかもしれない。性行動の方はともかく、攻撃性は、オスどうしのメスをめぐる争いと、捕食のための狩りという二種に分かれるべきであろう。じゃれ合いはその予行演習を行っているのだ。

ともかくもじゃれ合いは生直後の、愛着に含まれ、母親との間で行われるものから、その後のきょうだいを通して行われるものまでにグラデーションがあると考えるべきであろう。すると前者は必須のもの、子育てに必要なもの、後者は他の個体の脅威となるべきもの、あるいは狩猟に用いられるものという意味を持つのだ。