2025年5月17日土曜日

遊びと愛着 推敲 5

  次にラットにおける研究を離れ、人間にとってのRTPの意味を調べてみたい。それは果たして発達促進的なのか、それとも暴力を誘発するものなのか? 実はこの議論がなかなか定まらないということなのだ。参考としては以下の論文を用いる。

Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126. この論文によれば、RTPはラットなどの哺乳類の遊びと通じることもあって様々に研究されているが、その人間にとっての意味は議論が多いというのである。RTPが攻撃性をコントロールし抑制するかについては、動物ではそうであろうが、人間の場合にはそれほど単純ではないというのが、ごっこ遊びや対象遊びとは異なるのだ。後者は人間の子供の情緒発達にとって、これまでは肯定的にみられていたのである。

 確かに考えてみると、じゃれ合い(RTP)がその動物の将来の本格的な狩りに役立つとしたら、それは勇敢な戦士を生むということにはならないか。私はごく単純に、RTPは人間にとってもその攻撃性をコントロールするうえで重要である、という結論を予想していたのだが、そう簡単にはいかないことは理屈からもうかがえるのだ。以下に人間にとってのRTPについて二つ目の論文を読んでみる。

Veiga, G., O’Connor, R., Neto, C., & Rieffe, C. (2020). Rough-and-tumble play and the regulation of aggression in preschoolers. Early Child Development and Care, 192(6), 980–992. 

 この Veiga の論文によると、以前はじゃれ合いは攻撃性の制御に結びつくと言われていた時期もあったという。しかし最近の研究では、就学前の子供の攻撃性のコントロールの問題は重要だが、じゃれ合いがこれにポジティブな影響を与えているか、それともネガティブなのかは議論が多いという。先ほどのSmith の論文と似た論調だ。そして彼らの研究では4~7歳の少年少女に関して言えば、家でも学校でもじゃれ合いは感情のコントロールとマイナスの相関があったという。また父親とのじゃれ合いでネガティブな感情の表出はやはりネガティブな相関があったという。そしてじゃれ合いが長ければ長いほど、情動調節は悪かったという。

 私はこれらの見解は分かる気がするが、一つ不明なのは、ネガティブな感情が多く表出されるほど攻撃性のコントロールがなされないという所見だ。そもそもじゃれ合いでネガティブな感情は普通は体験されないはずである。どんなじゃれ合いを彼らは観察していたのだろう。
この研究を読みながら、私は一つの考えを持った。よく手の付けられなかった不良がボクシングや空手を学び、素行が良好になり、身を持ち直したという例を聞く。これなどは不良同士の喧嘩→ボクシングや空手を通じての、上級者優勢の「じゃれ合い」(スパーリング、組手)→ 自身が上級者になる過程での攻撃性のコントロール、というのと似ていないか。そしてボクシングの試合、空手の組手などは、実は攻撃性とは程遠いということをご存じだろうか。ボクサー同士の仲は、計量時に最悪なように思える。体重計を前にしてお互いにどつき合いが発生したりする。ところが試合後両者はたいていは闘争心を捨てて抱擁し合うのである。このように考えると真剣勝負とは違い、試合や組手はじゃれ合いに似ている、という仮説が浮かび上がってくるのだ。

もう一つのFlanders の論文も読んでみる。

Flanders JL, Leo V, Paquette D, Pihl RO, Séguin JR. Rough-and-tumble play and the regulation of aggression: an observational study of father-child play dyads. Aggress Behav. 2009 Jul-Aug;35(4):285-95. 

 この研究では特に父親と子供の間のRTPについて論じている。この論文でも、従来はRTPは自己統制に貢献するということが示唆されていたが、それについて改めて検証をするという。そしてその意味では、先程の二本の論文に似ている。この研究では2歳から6歳までの家での親子のじゃれ合いについて、85人のケースについて調べたという。そして父親が優勢でない場合には、これが子供の暴力に結びついているという結果を伝えている。

 これを読んでいて、いろいろな疑問がわいてきた。動物にみられるじゃれ合いでは、追っかける方と追っかける方が交互にスイッチするのが理想ということだった。もしそうだとすると、父子の場合も平等が原則ではないかと思うのだが、それではだめで、父親が優勢でなくてはならないということになる。この矛盾はどこから来るのだろうか。
 私はここにはグラデーションが存在するのではないかと思う。つまり母子の間で起きるような初期のじゃれ合いは愛着の形成に関与し、勿論平等である。しかし子供が成長するにつれて、RTPは父と子の権力争いに似た様相を呈するのではないか。つまりplay としての意味が薄れてくるわけである。そして父子のじゃれ合いは本気度を増していく。
 私の知っているケースでは、中学2年の息子と父親の争いはかなり熾烈である。そして明らかに父親が力で息子を抑えるということでバランスをとっているように思える。というか、父親は劣勢になった時点で子供をコントロールする力を半ば失い、相手にならなくなるようだ。その意味ではVeiga や Flanders の研究結果は至極もっともという気がするのである。 しかし一歩間違えれば、父が優勢な深刻なじゃれ合いは虐待になってしまいかねない。そう、じゃれ合いの議論は遊びと虐待の間の微妙な領域に私たちを誘い込む可能性が有るのだ。

ところで「じゃれ合いはグラデーションを形成するのではないか」という私の仮説については、おそらく攻撃性以外にも性行動についても言えるのではないかと思う。通常はじゃれ合いには相手を押さえつける、英語で言うと”pinning” (ピン付けする)という特徴があるが、これは性行動において動物同士で、オスがメスを押さえつけるという行動を模していると考えられる。すると一方が他方をpinning するという行動は性行動へと移っていくグラデーションを形成している可能性がある。 もちろんその結果として単なる戯れが性行動に移ってしまうという場合があり、これは正常な性交渉の始まりを形成する場合があるものの、一歩間違えるとこれが性加害に繋がってしまう。これもRTPと似ている。

しかし考えてみよう。この種のじゃれ合いが幼少時に一切経験されないとしたら、思春期以後の性行動は、いきなりのぶっつけ本番、遊びを含まない危険な行為になりかねないか‥‥。或いは性行動の起こし方がそもそもわからずにその種の行動を回避するということになりかねないのではないか。後者はいずれもデジタル世代で直接の身体接触による遊びが乏しい場合に生じてきかねない問題である。  ともあれ相互性と平等性に基づく筈の性的な関係が性加害になってしまう状況を考えてみよう。じゃれ合い にみられるような平等性が失われ、一方から他方(通常は男性から女性)への強制や脅迫が生じる。playfulness の喪失である。