2025年4月22日火曜日

関係論とサイコセラピー 推敲 7

 結局山崎氏の趣旨は、近似のあり方としてPOST(【心理療法】)を提示しているが、それ以外の【分析的】心理療法についてはどうなのだろうか?以下の山崎氏の記述から推察する。「‥‥その後経験を積んで思うのは、やはり週一回で『【精神分析的】心理療法』を行うことは難しいということである。」(「週一回」p70.)この若手の間のコンセンサスは、ベテランの先生方、例えば岡田氏や高野氏にも当てはまるのだろうか?少し検討してみよう。

岡田氏は同書の第2章「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」で彼らしい緻密な論理展開とともに、週一回の転移解釈が難しいのはなぜかについて明らかにする。彼は Merton Gill の所論について詳細に調べ、その理論に乗っ取って次の様に言う。治療は表層から深層へ、という方向に進むのが原則だ。そのうえで生じるのは先ずは there and then に基づく転移でありその解釈である。つまりは治療室の外側で起きていることに注意が及ぶというわけだが、それは「週一回」の「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のせいだ。そこで無理に here and now の解釈を行うと「結果的に間違った解釈になる  」という。転移は here and now だけでないとすれば、there and then をまずしっかり扱い、here and now への道筋をつけるべきであり、here and now を行うとしても非常に慎重になるべきだという。

これは山崎氏のまとめたコンセンサスにそいつつ、より慎重にかつ生産的に「週一回」について論じたものだと言える。とても重要な点について論じているが、こんな風にも読める。「精神分析でないと、Strachey が最も効果のあると言った here and now は扱えない。ただそれより一段階効果が弱い there and then なら十分に扱えるのだ。」

この議論も悩ましいのは、結局「週一回」は結局金である here and now の解釈を行う精神分析に勝てないということを受け入れよ、銅で我慢せよ、分をわきまえよ、と言っているようなところだ。そうか、結局は週一回は二番手なのか・・・・と寂しい気持ちになる点は変わらないのである。

 鈴木智美氏の論文「無意識の思考をたどること」(週一回(2014)の第14章)は週4でも週1でも無意識に焦点付けるのは変わらないという主張である。ただし週1回はより慎重に、という警句も見られる。いずれにせよ平行移動説への異論は、彼らも含めた現代日本における分析家や分析的療法家に共有されているようだ。その意味で山崎氏の言う「コンセンサス」の存在はおおむね妥当ということが出来るだろう。

 それをまとめるならば、週一回で転移解釈を主要な治癒機序とすべきではない。むしろあえてそれを抑制すべきである(そしてその一つのやり方がPOSTである)ということだ。


我が国の「週一回」の議論の限界


 これまでの我が国の議論は、ある一定のレベルに至っているものの、その前提は比較的限定された考えに基づくものということが出来る。そこでは基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈の重要性を重んじるものである。これはその文脈としては正確で緻密な議論と言えるが、そこで転移を扱うことが週4回でなければ十分でないという議論はどの程度妥当性があるのだろうか。

一つ言えるのは、週4回は供給が十分であり、週1回ではむしろ剥奪が大きいという議論には多少なりとも問題がある可能性があるということだ。藤山は「抱えは乏しく、患者は剥き出しのはく奪にさらされている可能性」(2023, p.67)のために「週に一度のセッションでは患者は情緒的に揺さぶられたまま残りの6日間を過ごすことになる」という。しかしこれはあくまでも相対的なものと言えるだろう。もちろん一般的には、週に4,5回会っている治療者のことを患者はより多く考えるであろう。そこにはより大きな親密さが生まれるかもしれず、それは週一回の比ではないかもしれない。
 しかしだからと言って週4回では容易に転移の収集が出来、週一では不可能とは言い切れない。週4回でも漫然と行われる過程はあり、週1回でも非常に大きな思い入れや意味づけが生まれることもある。卑近な例ではあるが、熱烈に愛し合う恋人の週一回の逢瀬と、毎日顔を合わせているが倦怠期に差し掛かったカップルと比べた場合は、どちらがより大きな「転移」が生まれるかは想像に難くないだろう。週4回なら転移が扱え、週1では無理、という問題では必ずしもないのである。ただ前者ではより多くのチャンスが生まれる(それを生かすかどうかは別として)という議論なのである。
 ヒアアンドナウはより慎重に扱うべきテーマである。それは確かであるが、それは週1回では無理で、週4回ではOKという線引きの仕方が恣意的、蓋然的とはいえないであろうか。週4回と週1回の差は、質的、ではなく量的、と考えるのが妥当であるというのが私の立場である。

 ここで言う蓋然性は様々な形を取りうる。そもそもフロイトが週6日(日曜以外!!)であったことを考えると、週4回はすでに薄まっているはずだが、その議論は乏しい。また最近ではアイチンゴンモデルが変更され、国際的には週に3回も分析的なトレーニングとして認められることになるが、そうなると「週4以上では」という議論はどうなるのだろうか。また藤山氏が語っているように、週2回はすでに週一回よりはるかに分析的であるという見解もある。するとますます週4回とそれ以下という線引きは恣意的ということになりかねない。