2025年6月24日火曜日

週一回 その15

 読み直したら、かなりいい加減なことを書いていた部分。

 藤山氏により先鞭がつけられた「週一回」の議論に、さらなる弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編、2017)という著書である。この本では藤山氏に加えて、北山修氏、高野晶氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導するベテランの論者たちの考察が提出され、それらを含めて「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。この中で高野氏、岡田氏の論文に言及しておく必要があるだろう。

北山修、高野晶編(2017)週一回サイコセラピー序説. 創元社.
岡田暁宜(2017)週一回の精神分析的精神療法におけるリズム性について. 北山、高野編(2017)第1章(45-60).
岡田暁宜(2024)週一回におけるヒアアンドナウの解釈について 高野、山崎編(2024)第2章(31-44)
 高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その中で「週一回」は精神分析と似たところがある、という立場を高野は「近似仮説」と呼んだ(高野、2017)。そして日本の精神分析会はこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきであるとする。またこの仮説が現在まで支持されたという結論は出せないとする。
 この1017年の高野の論述は抑制が効きかつ常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。すなわち高野自身もおおむねこの「近似仮説」を棄却する立場を取っているのだ。
 山崎はこの「近似仮説」という概念について、精神分析と「週一回」との違いを、平行移動できるか否か、の二者択一ではなく、「どこが似ていて、どこが似ていないか」と言う相対的な議論として提示したのであるとし、その意味では藤山の「平行移動仮説」に基づく理論を「もう一歩推し進めて抽出したものだ」とする(山崎,2024)。つまり「週一回」を否定的な文脈のみでとらえず、その独自性を模索するべきだという立場を表明しているのだ。 

もう一人、精神分析家の立場から岡田暁宜氏の論文(2017)についても取り上げたい。岡田は精神分析とは異なる「週一回」の独自性を論じる点で、高野の考え方に類似する。岡田は「[週一回とは]『日常生活や現実に基づく』という点にその真の価値があり」それは「日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業」(p.58)という。ここにはFreud のよく知られる比喩が背景にあることは言うまでもない。Freud は精神分析を純金としてたとえ、そこに示唆 suggestion 等の余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏は「フロイトの比喩は純金に銅を混ぜることを示しているが、銅に純金を混ぜることを示してはいない」(p57)とし、少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。
岡田氏はさらに2024年の論文「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」で持論を展開する。彼は「解釈は現在でも精神分析の中心的な技法である」(p35)という立場を表明したうえで、やはり「週一回」という治療設定は、「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のために転移が結実しにくいとする。そのうえで「週一回」におけるヒアアンドナウの解釈を意味あるものにするための3つの留意点について述べる。このように岡田の議論は「週一回」の現実に基づいた独自性について強調する一方では、砂金に象徴されるヒアアンドナウの転移解釈を「中心的な技法」(p.35)とみなすという点では、藤山説と重なる面を持つと言うことが出来るだろう。


2025年6月23日月曜日

遊び スライド 3

 2.遊びのプロトタイプとしての「じゃれ合い(RTP)」について

遊びのプロトタイプとしての「じゃれ合い(RTP)」について

遊びの一つの典型としてのじゃれ合いは盛んに研究されている!

ラットが特に好むのが、いわゆる「じゃれ合い rough and tumble play」 である。

じゃれ合いがなぜこれほどに動物に遍在するのか?
1.それが精神の安定、不安の軽減につながるから。
2.将来の闘争や性行動の雛形として意味を持つから。
3.ジャレ合いは快感につながるから。
ラットには「遊びの脳内回路」があり、それが系統発達的に受け継がれてきているのだろう。
ジャレ合いによりラットの中脳水道周囲灰白質(PAG)(快感に関係する部位)が興奮する。

→ 遊びは快感なのだ。

ただし人間における父と子の間のジャレ合いは攻撃性を助長する可能性がある

ジャレあいが、動物においては実際の戦いや交尾の準備を意味するためか。
じゃれ合いでネガティブな感情が伴う場合、父親が主導権を取れていない場合は、子供の攻撃性につながる。

Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126.
Flanders JL, Leo V, Paquette D, Pihl RO, Séguin JR. Rough-and-tumble play and the regulation of aggression: an observational study of father-child play dyads. Aggress Behav. 2009 Jul-Aug;35(4):285-95. 


2025年6月22日日曜日

遊び スライド 2

 1. 遊びと同期化


●「遊び」がどうして治療につながるのか?


古典的な分析的治療モデルとしての転移解釈と洞察

患者はある種の知的な理解(洞察)を得ることで変わる。

治療者「あなたは私を怖い父親のように感じていますね」
患者「そうか、これまでそういう風に人を見ていたんだ。」


● 現代的な治療モデルとしての、関係性の中での「出会い」

精神分析における「出会い」の議論

スターンらの「出会いのモーメント」

解釈を超えた「何か」としての「出会いのモーメント」

「今のモーメント」は伝統的な治療的枠組みが壊される危険にさらされる時に起きる」(p.25)。例えば・・・・(p.25)

・被分析者がやり取りをやめ「私のこと、愛していますか?」と聞く時。

・患者が何かおかしいことを言い、二人が大笑いをする時。

・患者と治療者が外出先で出会い、何か新しい相互交流的、

間主観的な動きが展開する時。


● J. ホームズ(愛着に基づく精神療法の提唱者)の理論

・ボウルビーの愛着理論は子供時代の関係性が成人の生活に与える影響や、情動的な自由の安全性の重要性を説く。

ホームズはここに最新の脳科学の知見を取り入れる

治療においては心の同期化(シンクロニゼーション)が生じている。そしてそれはメンタライゼーションと同義である。

・アラン・ショアの右脳間の一致のモデル

・ホームズはこれを自由エネルギー理論(フリストン)の予測誤差最小化の理論と同義であるという。

予測誤差最小化こそ心の持つ至上命令である ← 一体何のことだろうか?

2025年6月21日土曜日

遊び スライド 1

 話の内容がまとまってきたので、スライドつくりに入る。

🔵「遊戯療法と精神療法- 両者の懸け橋としての愛着理論」

私の立場:精神科の臨床医、精神分析家
「精神療法は常にプレイセラピーである」が持論となっている

🔵 精神療法における遊びの瞬間とは?
何かを一緒に行った体験 冗談を言って一緒に笑った体験 世間話をした体験 治療者が自己開示をした体験 患者の専門分野について尋ねた体験

🔵 遊びとは‥‥

その重要な要素は、ある体験を共有すること、同じ感情体験を持つことではないか。

2025年6月20日金曜日

週一回 その14

 この論考、あとはぐるぐる推敲しているだけだ。でも推敲するたびに、少しずつ形が整ってくるのは少し快感である。

1.はじめに

 この論考は我が国の精神分析学の世界において過去10年あまり継続的に議論が行われている「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関して、 現代的な精神分析理論の立場から再考を行うことを目的としている。

 このテーマについての議論は当精神分析学会で一つの盛り上がりと学問的な進展をもたらしている。その流れを俯瞰した場合、そこに様々な議論が存在するものの、全体として一つの方向性や考え方が一定の支持を得ているようである。それは精神分析がもたらす治癒機序について、その意義や有効性を考えるためには、週4回以上の精神分析を前提としたものであるということだ。すなわち週一回の低頻度の精神療法を精神分析的に行うことは非常に難しいと言う考え方である。その議論そのものは一貫し、整合性のある議論と言える。しかし他方には、精神分析理論を学び、その影響を大きく受けた治療者が行う精神療法はその大多数が、週一回ないしはそれ以下の頻度で行われているという現実がある。その低頻度の精神療法において精神分析的な理解やそれに基づく技法の有効性が制限されるとしたら、それは非常に残念なことと言えるであろう。
 現代の精神分析は多元的であり、治癒機序に関しても様々なモデルが提案されている。その視点から、海外の文献を参照しつつ、週一回の精神療法における転移の扱いについての妥当性について検討を加える価値があろうと言う考えが、筆者が本稿をまとめる主たる動機である。

(以下略)

2025年6月19日木曜日

加藤隆弘先生への討論

 先日精神分析協会の集まりで、高名な加藤隆弘先生(北海道大学精神科教授)の講演の討論者として話す機会があった。

以下はその抜粋である。


加藤先生の行なった画期的研究では、いわゆる信頼ゲームを、ミノサイクリンを内服する被検者とコントロールで比べたというものです。するとミノサイクリン内服群(すなわちマイクログリアの活性を抑えられた人たち)はこの信頼ゲームにおいて強面の男性プレイヤーや、魅力的な女性プレイヤーに対する過剰な協調的行動が抑制されたということです。そしてそれがマイクログリアによる生の本能や死の本能との関りを意味しているのだということですが、その働きはかなり込み入っているようです。自分の理解のために整理していると、それは以下の項目にまとめられました。

  • MG(マイクログリア)の高活性と鬱や自殺、トラウマ、拘束との関連性。

  • MG活性低下で強面や魅力的な女性に協力しなくなった。逆に言えば、MGは怖さや魅力により判断力にバイアスをかけるという可能性。

  • 無意識のノイズ、ある時はイド,ある時は超自我、すなわち意識化されていないレベルでの影響。

  • ただしMGは生の本能:炎症を抑える、脳保護的なサイトカイン(BDNF)をも放出する。しかしMGは諸刃の剣であり、死の本能もつかさどる(炎症を惹起するサイトカイン(TNF-α, nitric oxide)の放出。)


さて加藤先生のご発表の一番キモの部分です。加藤先生の神経―グリアネットワークという概念について。これは次のようにいうことが出来るでしょう。

AIはニューラルネットワーク(NN)のみから構成されるが、脳はそこにグリアが入っていて「ニューラルグリアネットワーク、NGN」と表現することが出来る。そしてこのグリア、特にマイクログリアが様々なノイズ、あるいは分析的な概念ではエスや超自我、ないしは転移、逆転移を生み出すことで私たちは中立になれない。すると私たちが行う分析のトレーニングは、グリアをコントロールし、支配下に置くためのものである、という考えです。これは素晴らしい発想だと思いました。まさに脳科学を心の科学に結びつける理論だと思いました。


         (以下略)

2025年6月18日水曜日

遊び 推敲の推敲 9

 ちなみに多少前後するが、最適なPEが快感を呼ぶ、ということを示す理論として二つ挙げられる(とチャット君が教えてくれた)。

① Optimal Arousal Theory(最適覚醒水準仮説)ヤーキーズ・ドットソンの法則と呼ばれる、パフォーマンスと緊張の関係を表した理論。


② Flow Theory(Csikszentmihalyi)

これも有名だ。スキルが高くなるとそれなりに難しい課題により興奮を覚える。PEMをかなりのレベルで達成している職人や音楽家にとっては、それに高いレベルでチャレンジしてくるような課題が一番やりがいがあるのだろう。


  • チクセントミハイのフローモデル(Wikipedia より)





2025年6月17日火曜日

小寺セミナーの締め切り迫る

 皆様

小寺関係論セミナー(臨床と性愛性)の締め切りが迫っていますので再び告知いたします。

https://forms.gle/BThcw5kxzYCjcCoz8 





遊び 推敲の推敲 8

 このように考えると、私たちの体験する楽しみには、ほとんど常にこのPEMが凝らされていることがわかるのだ。例えば芸人がネタを考える。絶妙なタイミングで言葉を発して、それが観客の笑いを生む。これはとても微妙な予測誤差を含むからだろう。そしてそのために芸人が考え、準備をし、練習を重ねてそれを披露するのだ。この際の予測誤差最小化のための努力はいかなるものだろう。  では芸術はどうだろう。バイオリニストが奏でる名曲。しかしそれが感動を与えるのは、正確無比な技巧だけではなく、そこに微妙な形で込められた「溜め」や「揺れ」のせいだろう。そこにそのバイオリニストの独自のセンスや感情が伝わるのだ。これももともと楽譜通りに正確に弾くという技術がなければ不可能な芸当なのだ。PEMによる精緻な技巧があってこそのズレ、適度のPEが感動を与える。  あるいはスポーツは? リオネル・メッシが試合でディフェンスに対峙して見事なフェイントや股抜きでかわす。ディフェンスもメッシも予測誤差を最小化する努力を常にしていて、それをより高度に行った選手が勝つことになる。観客はおそらくどちらかに同一化して、相手の動きの予想外の動きに驚嘆し、熱狂する。これは両者の技術の高さがあって初めて成り立つのだ。そして観客もそれ相当に目が肥えていなくてはならない。さもなければ「なんであんな単純なフェイントによる動きを予測できないんだ!へたくそ!」ということになり、キレの悪いフェイントで相手を抜いたメッシも、それによりまんまとぬかれたディフェンスも感動を与えることはないだろう。

2025年6月16日月曜日

週一回 その13

 結論:現代的な視座から見た「週一回」について

  最後に現代的な視座から見た「週一回」についての総合的な論述を行う。

 第一章では、我が国の「週一回」に関する「コンセンサス」すなわち「週4回では転移解釈が可能だが週1回では難しいため、精神分析とは言えない」に関して、二つの問題点を指摘した。
 第一点目は、この線引きが恣意的である可能性である。「週一回では転移解釈が難しい」ということは一般的な傾向としては言えるかもしれないが、転移の集積は週4回という設定でも自然と生じない場合もあれば、週一回でも転移関係やその取扱いを含むより充実した関係性が築かれることもあるからである。
 第二点目は、「コンセンサス」は 数十年前に提唱された Strachey の提言を治癒機序として最上のものとして持ち越している点である。治癒機序の議論も多元的になりつつある現代においてそれを「平行移動」して論じることには問題があろうと言う点であろう。

 第二章では英語圏に見られる傾向について検討したのは上述のとおりである。そしてそこに見られる傾向は、我が国における「コンセンサス」と一部を共有するものの、それとの違いも明らかであるという点だ。その特徴をまとめるならば、精神分析と精神療法の差はむしろ相対化されており、面接頻度に関して言えば、週一回も精神分析的精神療法として数えられるということである。ただしそれはスペクトラム上はより支持的な要素が強まるものとして扱われているのだ。


(以下略)
 

2025年6月15日日曜日

遊び 推敲の推敲 7

  そこで遊びはさらに次の段階に入る。  Aは今度は、「本気で当ててくるふりをして寸止めをする」という、新たな戦法を編み出すとしよう。これはいわば「フェイント」を含み、それまでのどの戦法とも違うので、Bの予想を大きく裏切ったとしよう。つまりこの時結構大きな予測誤差が生じる。そしてBはスリルを覚え、これを楽しいと感じるとしよう。彼は「おっと、危ない危ない」などと言って嬌声をあげる。そして今度はAがBからのパンチがどのようなものになるかを予測する番だが、もはやそれまでの「わざとパンチをそらす」(95%)「軽く当てる」(5%)ではないだろう。なぜなら両者には新たなレパートリーである「寸止め」が加わったからだ。つまりお互いの予測はかなり様変わりしたことになる。しかしお互いにまだ新戦法には慣れていないので、「パンチをそらす」80%、「寸止めをする」15%という感じでまだ寸止めは最上位ではない。  さてこのように考えるとパンチの応酬によるじゃれ合いは、常に程よい予測誤差を生み出そうとするやり取りだと考えることができるだろう。ここでの程よい、とはこれがとてつもなく大きい誤差を生じる場合には、単なる恐怖体験になってしまうからだ。例えばBはAを驚かそうとして本気でAにパンチをくらわすとしよう。Aにとっては(そしておそらくBにとっても)もはや遊びではなくなり、Aは鼻血を流して遊びどころではなくなり、助けを求めることになりかねない。だから予測誤差は小さすぎても大きすぎても効果は低くなる。  ところがここで重要な点を指摘しなくてはならない。それはこの「ほど良い予測誤差」を生むためには、高度の技術が必要であり、それこそそれに熟達する過程でさらなる予測誤差最小化を伴う必要があるのだ。なぜならそれは単に相手に全力でまっすぐなパンチを与えるのではなく、強すぎもせず、弱すぎもせずの適度な予測誤差を生むように巧妙に仕組まれている必要があるからだ。  このことは playfulness を考える上で極めて重要な示唆を与えてくれる。遊び心は予測誤差最小化のためのかなりの訓練を積むことによってしか実現しない。これが遊びの重要なテーマなのである。 

2025年6月14日土曜日

遊び 推敲の推敲 6

 ではじゃれ合いが予測誤差の最小化につながるのか。

では実際のジャレ合いの場を想定しよう。

じゃれ合いではまず一方(Aとする)は相手を殴ると見せかける。ガオーっと襲い掛かるのだ。相手(Bとする)はこいつは本気で殴っては来ないと高をくくってくる。なぜならそのようなことは一度も起きていなかったからだ。そしてこれまでのパンチのやり取りの経験から、結局は「わざとパンチを逸らす」が100%起きるということが分かれば、そう予測することで予測誤差ゼロになり、殴り合いは遊びの要素を失ってしまう。ところがここで20回に一度ほど、「わざと軽く当ててくる」ということが起きるようになったとする。AかBがそれを最初に初めて、お互い時々それをやるようになる。最初はこれはお互いにヒヤッとし合うのは、拳が真正面に向かってくるからだ。「危ない」と一瞬思う。さてもしこの20回に一度という確率が変わらないなら、予測誤差はどうなるか。実は常に存在する可能性が有る。それは20回に一回の「そっと当ててくる」がいつ起きるかが分からない場合だ。
皆さんはランダムに報酬を与えられた際に一番それが嗜癖につながる、という原則をご存じだろう。レバーを押すと5%の頻度でシロップが出てくるとしよう。それが規則的に起きる際、例えば19回押すと水だけ出てくるが、次の一回はシロップが出てくる、というパターンが出来ると、それは嗜癖にはつながらない。意外性がないからだ。いつ、その二十分の一の出来事が起きるかが分からないから、スリルや期待があり、ラットはレバーを押し続けるのだ。

さてこの「わざとパンチを逸らす」という95%、「わざと軽く当ててくる」が5%というじゃれ合いは、しかしはあまり面白みがなくなってしまう。なぜならわざと軽く当てるパンチは痛くなく、安全であることを学習すると、結局は強いパンチはAからは繰り出されないことは分かっているからだ。どちらも侵襲性がない、という意味では「痛くないパンチが来る」確率は100%になってしまい、予測誤差ゼロで面白みも全くなくなる。


2025年6月13日金曜日

遊び 推敲の推敲 5

遊びは脳のシンクロのためのトレーニングである

この最後の部分はいわば結論に相当するわけであるが、遊びは心のシンクロを生むためのトレーニングであるということだ。(実は言葉のやり取りも、それを通して文法や自然な発音ないしは表現を共有していくプロセスであるが、これはまた別な話なので別の機会に触れよう。)

こう述べる理論的背景についてであるが、いわゆる脳の自由エネルギー原理(Friston)と言うものと一致している。そして予測誤差の最小化と言うことを言っている。でもそれはむしろ相手との心のシンクロを目指すものであり、相手と交互にやり合うじゃれ合いはそれとは無関係に思えるだろう。しかしここで私が主張したいのは、じゃれ合いは、シンクロを生むための心の装置だということである。いわばジャレ合いは楽しみながら急速に脳のシンクロを達成する機会なのである。じゃれ合いで起きていることを見てみよう。まず両者は1攻撃と遊びのギリギリの限界の上をさまよう。つまり攻撃の振りをし、相手はそれにヒヤッとする。しかし決して過剰な痛みを与えない。そのすれすれのところを行くので、そこにスリルが生じる。こちらも相手がこちらの予想を軽く裏切ってくることに怖さを伴ったスリルを感じる。ここで重大な原則があり、予測誤差は適度であることで人に快感を及ぼす。適切な度合いで相手を裏切り続けることが遊びの快感を生むのであり、相手の動きに驚くと同時に、こちらも多少予想外の動きをして相手の裏を描き、ヒヤッとさせようとする。動物がいかにこれを緻密に行っているかはその動きで分かる。例えばじゃれ合いではトラは爪を巧みに引っ込める。あるいは相手の目を直接攻撃しない。そしてそれは両者が傷つけあったり命を奪い合ったりするものではなく、お互いが怖くない存在になることなのだ。アメリカでは職場でリトリートというのを時々やり、職場で言葉や役割分担だけのやり取りが、ゲームをしたり、時には一緒にお酒を飲んで身の上話をしたりすることで、怖くなくなり、相手の手の内が分かるようになる。つまりはシンクロに急速に向かうわけである。交渉事が酒の席で行われたりするのは、そのような意味があるのである。


2025年6月12日木曜日

遊び 推敲の推敲 4

 このじゃれ合いが持つ生物学的な意義については様々に取りざたされているが、Siviy などの論文によると特に早期の母子関係がこの遊びに深く関係することがわかる。そこで重視すべきなのは、親との身体的な接触である。いわゆる LG (licking and grooming,ぺろぺろ舐められ、毛づくろいをしてもらうこと)が高値のラットは、その後は怖れが少なく、新しい環境での探索をし、驚愕反応も弱いという。そして15分ほど母親から分離されたラットは不安が少ないという。ただしラットは LG が低ければ遊びが増すという研究もあり、このLGと遊びの関係についての研究は相当ややこしい。(ちなみにラットの母親からの分離がなぜ不安を軽減するかについては、結局私自身がその意味をつかめていない。) また中枢神経興奮薬(amphetamin, methylphenidate ) などは遊びを抑制するという。そしてそれは遊びの際にはストレスに関係するノルエピネフリンが低下していなくてはならないからだ。要するに交感神経が興奮するような非常時には遊ぶどころではないというわけである。 結論としては、じゃれ合いは前頭葉、線条体、扁桃体のそれぞれが協調して働くことでじゃれ合いが生まれるということ。そして幼少時から遊ぶことが出来るということは刻々と移り変わる社会的、情動的、認知的なランドスケープを生き抜くために重要である、とのべて Vanderschuren & Trezza 2014)の論文を挙げている。RTPは社会性を身に着ける上で非常に功利的な手段らしいのである。

2025年6月11日水曜日

遊び 推敲の推敲 3

 遊びのプロトタイプとしての「じゃれ合い(RTP)」について

さて遊びについては、現在心理学の分野でもとても注目を集めている。それがいわゆる「じゃれ合い」という現象である。これは私の純粋な興味からくるのだが、私は動物の子供たちがお互いにじゃれ合う姿にいつも感銘に近いものを覚える。(youtube によく出てくるのだ。)なぜ彼らはあれほど憑かれたようにじゃれ合いをするのか。そしてそれはいつも私が子供とやったじゃれ合いを思い起こさせる。子供との体験で一番楽しかったのが、このじゃれ合いだ。そしてそれがある種の学問的な対象になっているのを知って、とても興味を持った。

例えばラットに見られるじゃれ合いについて、人間とラットとの間でそれを演じることで様々な実験が行われているのだ。それはじゃれ合いは、その動物の個体にとって極めて重要なプロセスであること、そしてそれは将来の他者とのかかわりあいを有する上で、とくに攻撃性の発揮や性的な関わりのにつながる極めて重要なプロセスであるということを伝えている。

ここで遊びに関して一番エビデンスを与えてくれる動物実験を紹介しよう。ベルリンのフンボルト大学の研究チームは、ラットの脳内に「笑いと遊び心を制御する神経回路」を発見したと報告した。(「ナゾロジー」のサイトからhttps://nazology.kusuguru.co.jp/archives/130792#google_vignette )


ラットはとにかく遊び好きらしい。youtube でも人がラットと遊ぶ動画がたくさん出てくる。私たちはペットの犬や猫が遊び好きであることはよく知っているが、ラットも相当の遊び好きであり、実験者とキャーキャーと声をあげて騒ぐという。人間の子供が遊ぶときキャーキャーというが、ラットのそれには馴染みがないのも無理はなく、ラットの嬌声は高周波の超音波レベル(50~55KHz )で、人には聞き取れないからだ。
 さてラットが特に好むのが、いわゆる rough and tumble play であり「喧嘩ごっこ」と言う訳が一応当てはまるらしいが、私はこの文章では一貫してこれを「じゃれ合い」と表現することにする。それは偽りの攻撃と偽りの防御を交互に演じることになる。そしてもしラットの脳のPAGという部位を破壊すると、くすぐられても声をあげず、遊びに興味を失ってしまうというのである。そして研究者はラットの実験を通して、遊びが生物に共通した起源をもっているのではないかと論じる。
以下の論文をもう少し読んでみよう。
Siviy SM. A Brain Motivated to Play: Insights into the Neurobiology of Playfulness. Behaviour. 2016;153 (6-7): 819-844.
この研究によれば、ラットには「遊びの脳内回路」がしっかりあり、それが系統発達的に受け継がれてきているのだろう。中脳水道周囲灰白質(PAG)という快感に関係する部位が興奮する。つまり遊びが快感を呼び起こすのだ。要するに遊びは強烈な快感を引き起こすために、ラットは成長の過程でそれを回避することはまずありえない。そしてラットは彼らにとっての「思春期」に至るまで、ジャレまくるという (Panksepp,1981)。それは生後35日がピークに当たるそうだ。(はやいな!)そして興味深いことに、じゃれあうカップルは抑えたりたたいたりを大体均等に行うという。つまり追っかけたり、追っかけられたりが交互に行われ、決して一方から他方への追跡行動が続くわけではない。もしそうであればパワハラになってしまうのだ。ここがとても大事である。 またジャレ合いはラットが隔離されている時間に比例して起こるという。つまりしばらく隔離されていると、より激しく長時間遊ぶという。 

2025年6月10日火曜日

週一回 その12

 なおPRPにも直接携わった Kernberg(1999)は後に分析的な治療を「精神分析的な様式の治療 psychoanalytic modalities of treatment 」と一括りにして、その中を「精神分析」、「精神分析的精神療法」、「精神分析を基盤とした支持的精神療法 psychoanalitically based supportive psychotherapy」 に分類した。そして精神分析的精神療法は通常は最低週2回のセッションが必要であるとし、そうすることで転移の発展と患者の日常の現実の変化の両方を探ることができると明言する(p.1081)。この主張は、週2回以上を精神分析的ととらえた前出の藤山氏の主張と共通している。また Kernberg はそれ以下の週一回の支持療法では、転移に専念するのではなく、患者の現実の世界における進展を扱うことに費やすべきであるとする。 Kernberg O.F. (1999) Psychoanalysis,  psychoanalytic psychotherapy and supportive psychotherapy: contemporary controversies. Int J Psychoanal.80 ( Pt 6):1075-91   ちなみにこのKernberg の考えを反映する形で提唱されたのが TFP(転移に焦点づけたセラピー transference focused psychotherapy. Clarkin, 2007) である。このTFPはBPDの治療を目的として始まったが、他の障害を持つ患者についてもその対象を広げている。TFPではその名の通り患者と治療者の転移関係における明確化、直面化、解釈が治療の主流となる(Gabbard, 448)。しかも治療早期から、転移の中でも特に陰性転移が扱われるとのことであるが、治療頻度はやはり上記の「精神分析的精神療法」と同様に週2回となっている。 以上のKernberg らの立場は、転移を積極的に扱う手法は週2回でも可能であるとみなす具体例と言えよう。ただし精神療法と精神分析との関係についての頻度という観点からの論述は少なく、転移解釈は週2回以上という見方が一般の分析的な臨床家たちのコンセンサスを得ているかは明言できないことになる。 現在において精神分析と精神療法との関係性、および頻度の問題についてより包括的な立場を提示しているものとして、Glen Gabbard のテクストが挙げられよう。 Gabbard の「精神力動的精神療法」(狩野力八郎 監訳、岩崎学術出版社、2012年)は米国における精神医学の基本テキストとして用いられ、邦訳を通して私たちにも馴染み深い。Gabbard は上述の表出的、支持的という分類に関して「治療者の介入の表出的―支持的連続体」(以下、「連続体」)を提示する。これは表出的な極に近いものから順番に、「解釈」、「オブザベーション」(※)、「直面化」、・・・・として「心理教育」、「助言と称賛」と進んで支持的な極に至るというものである。そしてどちらの極により近いかにより、精神療法を表出的精神療法と支持的精神療法に分類する。この連続体に基づく「表出的療法か支持的療法か」という分類は相対的なものであるが、便宜上このように分けたうえで、面接の頻度に関しては、表出的では2,3回、支持的では週一回あるいはそれ以下であるとしている。さらに「週一回未満の低頻度」(※※)では「転移に焦点を当てることは難しくなる」とある。  このGabbard の分類によると、週一回は支持的精神療法に分類され、そこでの介入も「連続体」の上では解釈などの表出的なものよりはむしろ心理教育、助言などの支持的なものが主体となる。ただしこの「連続体」の理解に則ったものという意味ではそれも依然として精神分析的な介入ということが出来るのだ。 ところで注意を要するのは、Gabbard は表出的な介入としての解釈を第一義的なものとは必ずしも見なしていないということである。むしろ「転移は治療の妨げになる時には解釈する必要がある」(p.79)という理解のもとに、それに至るまでの防衛の解釈により重きが置かれるべきであるという考えが示されている。すなわち精神分析が転移の解釈を扱う特権を有するというニュアンスは薄い。これは Gabbard が提唱する多元的なアプローチの文脈からはより理解可能な姿勢と言えるだろう。 (※※)邦訳では「しかし週一回以下の・・・低頻度では転移に焦点を当てることは難しくなる(p79)」と記載されているが、ここには翻訳上の問題がありそうだ。相当する箇所は原書(p.66)では “long-term psychodynamic psychotherapy is extremely difficult to do at frequency less than once a week, because ・・・ it is difficult to focus on transference issues at lesser frequencies. (p66) Gabbard (2004) Long term Psychodynamic Psychotherapy A basic text. American Psychiatric Publishing. Washington DC.

(以下略)

2025年6月9日月曜日

遊び 推敲の推敲 2

昨日の続き。そのような考え方に基づいた治療法の例が二つある、一つは最近の「愛着を基盤とした精神療法」(J.Holmes)であり、もう一つは「右脳精神療法」(A.Schore)である。 最初の「愛着を基盤とした精神療法」の提唱者であるHolms の主張のエッセンスをまとめると以下のようになる。「治療者―患者の脳生理学的な同期 synchrony を重視し、それが治療に変容性を与える瞬間 mutative moment であると考える。そしてそのために治療者は徹底した受容 radical acceptance を心がけ、分析的な解釈に先立つものとして患者の情動的で関係性の世界の保障 validation を重視すべきであるとする。さらにメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の神経連合を促進するものとしてとらえる。」

Holms は子供は胎内にいるころから、心拍数、HPA軸の活動、オキシトシンなどに関して母親と同期化するという。Mary Ainsworth はそもそもそれを安定した愛着の基礎と考えたという。実際に子供が生まれると母親は子供を観察して子供の泣き声に合わせた声を出したり、あやしたりおっぱいをあげたりするが、これは母親がこうして子供に同調することで安定した愛着を形成するための行動だ。そしてこのことはおそらく精神療法についても言えるのだ。すなわち治療者と患者の間の同期現象である。ここら辺の議論は Schore の著作に詳しい。「右脳精神療法」の中で、Schore は対人交流とは脳間同期 interbrain synchronization に関係すると述べる(p.2)。Dumas という研究者によると、交流している人たちの脳波の右脳同志の同期化が顕著にみられるということである。  この同期化とはどういうことかについて Holms が考えるのが、メンタライゼーションである。お互いを予測し、その心の状態を知るというプロセスが、この同期化への道ということになる。 ただし私は精神療法においては愛着関係を重視しましょうというスローガンを掲げるつもりはない。なぜなら精神療法の関係において幼少時の母親との関係をことすらに再現しようとすることも、患者の治療者に向ける転移に母親転移的なものを重視したり、それを促進したりしましょう、というのもどうもぴんと来ない。患者は現実における関係性、例えば上司や配偶者との問題に悩んだりしているかもしれないし、彼の中の依存欲求を扱うことがその人にとってベストであるとは限らない。ところが愛着的な側面が賦活され、扱われることの意味はそれでも大きく、いわば一時的な退行現象として、ちょうど Ernst Kris のRISE(regression in the service of the ego)の概念に似た現象がありうると私は考える。それが遊びの要素なのである。そのような時私はふと思うのだ。ああ、「自分はプレイセラピーをやっているんだな」と。これはどのように説明できるかは分からないが、一つのヒントは、上記の Holms のとらえ方なのだ。

2025年6月8日日曜日

遊び 推敲の推敲 1

 「遊戯療法と精神療法- 両者の懸け橋としての愛着理論」

 私は精神科医であり、精神分析家であるが、精神療法は常にプレイセラピーの要素を持つことが望ましいというのが持論である。言い換えれば「playfulness (遊びごころ)はすべての精神療法において必須である」と考えている。と言っても何か特別な介入を行うわけではない。患者さんと冗談を言い合ったり、一緒に笑ったり、ある話題について楽しく話したりすることを指して私は playful なかかわりと呼んでいるのである。さらにはこの playfuless のことを患者さんや治療者がともに発揮する自由さとか、柔軟性、ウィットのセンス、防衛的でないこと defenselessness と言い換えてもいいだろう。逆にこの意味での  playfulness が欠如している場合には、およそあらゆるタイプの精神療法において、その効果が半減してしまうと考えている。
さてこのように考える私は、いわゆる精神療法と遊戯療法をあまり厳密には区別していないのである。また私は遊戯療法の専門家ではないが、私が扱うことの多い解離の患者さんは、かなりしばしば子供の人格で訪れるので、まさに精神療法と遊戯療法は同時に起きていると感じる。 さてこのような意味での playfulness にはいったいどのような学問的な意味があるのであろう、ということを今回この基調講演のお話をいただいて改めて考えることにした。そしてそこで至ったのは、愛着が一つのキーワードであろうということだ。愛着の問題について考え直すことで、このplayfulness の持つ意義を少しでも明らかにしたいというのがこの発表の意図である。
 愛着は現在様々な分野において関心を集めているテーマである。それは最近の精神分析の新しい流れとも、脳科学的な知見ともつながっている。そして愛着こそが精神療法と遊戯療法と精神療法をつなぐ架け橋となる概念なのである。

そしてこう書いている際に常に頭にあるのが治療者としての Winnicott の姿である。

 精神療法における遊び 一緒に「遊んでいる」感覚 一緒に笑った体験

遊び心 playfulness と言うテーマに関連して、私はメニンガー・クリニックでの見学生の立場での体験を思い出す。まだ私が米国に渡ったばかりの30歳の頃、それから2年して医師の免許を取得してレジデントになる前のころだ。私はそのころメニンガーに入院している患者さん達に面接を申し込んでいろいろ話を聞くという機会を持つことを許されていたのだ。「国際留学生」と言うちょっと曖昧な立場で、そのような形での病院への出入りが許されていたのである。その頃の入院患者さんの多くが、彼らの主治医のつっけんどんで観察者のような態度に苛立っているのを目にした。メニンガーでは医師の多くが精神分析家であったり、分析家になるためのトレーニングの最中だったりしたということも関係あるかもしれない。(ちなみに私は渡米したその年から、メニンガーでの見学生の経験を通じて、分析家たちの持つ独特の雰囲気に違和感を覚えていたことになる。ある意味では今と変わらない体験をすでに持ち始めていたのだ。)
 その中である初老の男性の患者Cさんのことを時々思い出す。彼は自分の担当医であるD医師のことを鼻持ちならないと言って怒っていた。D医師はCさんよりかなり年下で、まだ精神科医になりたてだったが、CさんがD医師にネガティブな感情を伝えると、D医師は、それはCさんの父親に対する怒りが向けられたものだという、一種のエディプス的な解釈をしたという。しかしCさんはその言葉にますます憤りを感じたというのだ。
 私はCさんと面接をする中でD先生に対する怒りについて聞きながら、それが分からなくもないと思っていた。確かにD医師はまだ新人で経験も浅く、それを患者に見透かされないようにとかなり上から目線で、虚勢を張っていることが見て取れた。さて少し省略して話を進めると、私はその怒りの問題を抱えた(ことになっている)Cさんと何回か話して、結構親しくなったのだが、それは彼が仕事としている生物学についての話を聞いたことと関係していた。彼は大学の生物学の教授だった。ちなみにメニンガーに入院している患者の多くが社会的には立派に機能していて資産を持った人たちであり(だから保険に入り高い入院費を払えるのだ)、一時的な鬱状態やそのほかの問題のために数か月単位で入院していたのである。そしてCさんの行った研究などの話を聞くうちに、彼はとても饒舌になり、私が興味本位に向けた質問にも詳しく答えてくれた。結果的に私はCさんからいろいろなことを教わったのだが、彼にはそれがとてもポジティブな体験だったらしい。Cさんが専門としている生物学に関して、私の他愛もない質問に答える時の彼は笑顔を見せ、とても生き生きとしていた。そして時には冗談を言い、楽しげだったのだ。
Cさんはおそらく私とのかかわりの中で人間らしく扱われた気がしたらしい。というのもメニンガーでは患者はどのような病理を持っていて、それが医師やほかの患者との関係にどのように表れているかばかりを扱われ、弱者や病者としての立場に甘んじるという体験を送っていたからだ。同じようなただの外国人の見学者という弱者の立場にある私との話は、ある意味では息抜きになり、自信を取り戻すきっかけになったらしい。

さてこれと playfulness の話を結び付けるのは簡単ではない気がするが、同じような体験は今でも日常の臨床の中で起きる。患者さんがもつ趣味や「推し」についての話をしている時に、私もある程度そのトピックに興味がある場合にそれが起きやすい。私がそのトピックに関して、患者さんに比べて初心者であるということを示し、それなりに相手に対するリスペクトを示すことはとても大事であり、それによりある種の対等な、というよりは彼らの土俵での対話が起きる。そこで彼らがそのトピックについてどのような興味を持ち、どのような夢を持っているかについて聞いているうちに、彼らがいつもの自信なさげな態度とは全く異なる表情を見せることに気が付く。彼らは余裕を持ち、自由さを増し、その話題についての知識の乏しい私に対して気遣いを見せてくれたりする。いつもは治療者対患者という傾きを持った関係がある種の逆転現象を見せることがここでは意味があるように思う。そしてこれは遊びにおける対等性の問題に関連すると言っていいだろう。   さて私は精神分析家であり、精神療法における遊びの要素について考える場合も、それを精神分析の理論の文脈で理解しようと試みる。結論としてはそれは可能なのだが、それは従来論じられてきた精神分析理論とはかなり異なる理論が必要となる。少なくとも患者の無意識を知ることを手助けすることをモットーとするフロイト的な精神分析とは大きく異なる。それは最近の治療者患者関係を重視する関係精神分析的な流れによりフィットすると言えよう。関係精神分析的な理論によれば、患者を変えるのは、治療者と患者の関係性であり、そこでの出会いであると考える。そして両者が情緒的につながる瞬間が治療的な力を発揮すると考える。そのような関係論的な流れの中でも特にいわゆるメンタライゼーションの流れが多くの学問的な裏付けを与えてくれるのだ。そしてメンタライゼーションが重視するのが愛着理論である。そこでは治療者患者関係が一種の愛着関係に類似のものとして理解されるのだ。愛着理論に基づけば、精神障害の少なくとも一部は、幼少時の愛着関係の問題が深く関係していると考えられる。そして治療者と患者の関係も母子関係の再現としての要素が少なからずあると考える。


2025年6月7日土曜日

遊びと愛着 推敲 17

 ころで昨日の話の中の「ゴールデンゾーンのPE」はチャット君の造語だが、もとになっている考え方は非常に広く支持されている理論的背景がある。という。ここもチャット君に聞いたら以下のような答えになった。

  • Optimal Arousal Theory(最適覚醒水準仮説)

  • Flow Theory(Csikszentmihalyi)

  • Active InferenceとExpected Free Energy最小化(Friston)
    これらすべてが、「予測と現実のズレ(PE)が、適度な範囲にあるとき、人間は集中・学習・快の状態に入る」 という立場を支持している。だから「ゴールデンゾーン(最適帯域)」という喩えが成り立つ。ちなみにAIにも「最適なPEの値」があるという。強化学習や予測モデルの世界ではPE(予測誤差)は「学習シグナル」であり、それがゼロなら学習しないし、逆に誤差が巨大すぎると学習が不安定・非効率になる。そのため、多くのAIモデルでは、「PEが適度にある状態」を保つようにアルゴリズムが設計されている、つまりAIも、「ちょっとズレてる。でも修正可能」な状態をもっとも“おいしい”とするように作られている。たとえば:

  • 探索と活用のバランス(exploration vs. exploitation)

  • 活性化関数の飽和領域を避ける工夫

  • curriculum learning(簡単な問題から難しく)
    などは、すべて「PEの最適ゾーン」を保つ工夫といえる。

もちろんAIは「これはおいしいPEだな」と“感じてはいないが、機能的には「おいしいPEを選んで食べている」ようにふるまっていることになる。つまりAIには情動や快・不快のクオリアはないけれど、学習効率が上がる、報酬期待が高まる、エラーが減少するというという指標に対して「選択的に反応」するので、結果的に“ごほうびっぽい行動”をとる。なるほどね。

2025年6月6日金曜日

遊びと愛着 推敲 16

 さてここでチャット君の登場である。RTPと快感の関連性についてどのような学問的な理解がなされるかをChatGTP4に尋ねたら、こんな答えが返ってきた。まさに至れり尽くせり、という答えである。

1. RTP(ラフ&タンブル・プレイ)とPredictive Error Minimization(PEM)のつながり RTPとは、子どもたちが取っ組み合いのような遊びをすることで、

  • 攻撃と遊びの境界

  • 相手の反応の予測

  • 社会的な信号(やりすぎかどうか)

などを相互調整しながら体験的に学ぶ、極めて社会的な予測の訓練場と言える。ここにPEMの枠組みを導入すると:遊びの中では、相手の行動の予測誤差(PE)が中くらいであるときに、最大限の学習・興奮が生まれる。(ゴールデンゾーンのPE)

2. PEは「不快」ではなく、「意味ある違和感」でもある

従来、PE(予測誤差)は「期待と現実のズレ=誤差」であり、 多くのPEM理論ではそのズレを最小化しようとする方向(≒不快の回避)にフォーカスされてきた。でも近年の認知神経科学や感情理論では:
🔸PEは不快であるとは限らず、むしろ学習や好奇心、驚きの 源になる
🔸PEが小さすぎると退屈、大きすぎると不安・パニック
🔸ちょうどよいPEが、探索と興奮(エージェンシー)を引き出す

まさにこれが、「PEが大きすぎず、小さすぎず、ちょうどいい場合に、学習を加速させ、興奮を覚える」という視点だ。

3. RTPは、社会的PEの“共創”空間である

  • 子どもたちは、相手の反応を予測しながら遊び

  • その予測が少し外れるたびに、「あ、そうくるのか!」というPEが発生し、

  • それが「もっと知りたい」「もっと遊びたい」に転化していく

つまり:
🔹PEが互いに起こり続ける限り、RTPは“学びの場”として持続する
🔹しかもそのPEは、共感的・社会的文脈で“安全なズレ”として扱われるから、破局ではなく、喜びや興奮として受け取られる

4. 脳神経的にも対応あり(ちょっと科学的)

  • ノルアドレナリン:中等度のPEに反応し、覚醒・注意・探索的行動を活性化する

  • ドーパミン:予測と報酬のズレ(≒PE)をエネルギーにして学習を強化する

→ RTPは、まさにこうした中程度のPEを連続的に発生させる「快のエンジン」だ。

✨結論:PEは「遊び」や「人との学び」において、快と学習の源になりうる!!!