2026年2月28日土曜日

共感とその限界 1

  さてここからは今日の私の話の本題である、支持療法の有効性と限界というテーマについてお話しする。私自身は支持療法の重要さを十分理解しているつもりであるが、とりわけそこでの共感の意味を重んじている。共感と言えば、日本の臨床家ならカール・ロジャーズやハインツ・コフートの唱えた概念であり治療メソッドであるという認識を持つ方が多いと思うが、既に一昔前の概念という印象をお持ちになるかもしれない。しかし最近は愛着に基づく精神療法との関連で新たな光が当てられている概念でもある。

あらためて「共感」の持つ有効性を考える

 ここで改めて、共感はどのような形で支持療法における要となるのかについて考えてみよう。私はそれについては二つ挙げられると思う。まずは他者から見守ってもらい、わかってもらっているという感覚が安心感、安全感を生むということだ。それがなぜそれほど大切かと言えば、私たちはみな恐らく孤独を恐れ、回避しているからである。もちろんだからと言って私たちが常に他人と群れていることを望むかと言えばそうではないだろう。一人で時間を過ごすことを好む人もたくさんいるはずだ。しかしそれでも世界から隔絶されていることを望む人は極めて例外的ではないかと思う。
 たとえば山にこもり座禅をする毎日を過ごす修験者であっても、世界のどこかで誰かとつながっているという感覚はあるかもしれない。それは宇宙との一体化という形で体験されるかもしれないし、場合によっては霊界の住人とつながっているという感覚を求めていたり、実際に持っていたりするかもしれない。

 療法家とはたとえ週に一回、あるいは月に一回しか会えないとしても、患者にとって自分が理解されてその世界を共有されているという感覚は何事にも代えがたいと考える患者も少なくないのではないか。ただし療法家がどれだけ患者の孤独を和らげることができるかについては、ケースバイケースであろう。だから「共感により私たちは根源的な孤独感からの救いをある程度は得られる可能性がある」というだけに留めたい。

 共感のもう一つの役割は、それが患者の内省力や創造性を開放する力を有するという事である。私たちは自分の本当の姿を見ることに大きな抵抗がある。自分がとるに足らないないしは恥ずべき存在であったり、罪深い存在であったりすることへの危惧は多かれ少なかれ私たちが持つものである。その時に共感してもらえる存在があることで、自分を見つめる勇気や動機付けが与えられることになる。
 私たちがSNSであれほど求めている「いいね!」は恐らく私たちが世界や自分を探求してより生産的な生き方をする上で必要なエネルギーを与えてくれるものでもある。

「共感」の持つ限界?

さて以上述べたように、共感の持つポジティブな意味は大きいが、その限界についても私たちは十分理解しておく必要があると思う。もっとも根本的な疑問は、私たちはいったいどこまで他人の気持ちをわかることができるのか、という問題である。簡単に共感、共感というが(というより私もこの瞬間までそうしていたわけだが)、人の心をわかるというのはそんなに簡単なことではない。「自分をわかってもらえた」という感覚は、実はバーチャルである可能性は非常に高い。

 もし「わかってもらえた」という感覚がバーチャルなものであっても、それで本人が心地よさを感じるのであれば、それでいいのではないか、という議論もあるかもしれない。しかし「わかってもらえた」がバーチャルであれば、「全然わかってもらえていない!」もバーチャルな形で生じやすい、という事である。

 恋愛の体験を考えよう。恋に落ちた時に、「この人は初めて私のことをわかってもらえた」と感じることも少なくない。ところが二人が意気投合して同居を始め、結婚してから20年、30年とたつに従い、だんだん二人の間に距離が出来、お互いに相手のことが分からなくなり、相手にわかってもらえるどころか、相手そのものの正体があやしくなり、宇宙人の様にさえ見えてくることがある。おそらく最初の「わかってもらえた」も後の「宇宙人であるかのようにわからなくなった」もどちらも極端なのであろう。しかしどちらも同じようなインパクトを私たちに与えてくるのだ。


2026年2月27日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 1

 バウンダリーとその侵犯の歴史

 私はこの度バウンダリーの歴史というテーマでお引き受けしたが、精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場からは、とりわけ関心を持たざるを得ないテーマである。それらは主として二つの意味においてである。一つにはこれらの治療において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているからだ。そしてもう一つはそのバウンダリーが乗り越えられたり、侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。私にとってのバウンダリーのテーマはこれらに直結する問題なので、これらの二つのテーマについて主として論じる事になる。

 先ずは私の属する世界で用いるタームとしては、バウンダリーはシンプルに「境界」、それが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界そのものについては、精神分析を行う上でほとんど常に頭を去らない問題である。精神科医としての患者との関りではさほど問題意識を持つことがないとしても、精神分析的な関わりという事になると、なぜこれほど境界が問題になるのだろうか、と思うほどである。これは精神分析という世界が本来的に持っていた関心事であり、概念であると言っていい。精神分析(ここでは精神分析的精神療法も含めて論じよう)的に患者に会う場合は、いつ開始し、いつ終わるか、治療者としての役割はどこまでで,どこから踏み越えてはいけないか、という事は極めて重視される。それは通常「治療構造」と呼ばれている。そして大抵は初心の頃はこれらをいかに厳守するかという事に注意が向けられるのだ。私は精神科医になり、この精神分析のやり方を学んだときは、まるで別世界に来たような気がしたものだ。そしてその理由として教え込まれたのは、境界から外れることにはことごとく意味がある、ということだ。

 例えば午後2時に来るはずの患者が5分ほど遅れる。するとそこには必ず何らかの意味があるのだ、と教えられた。これはそれまであまり考えてこなかったことなので、とても斬新であったことを覚えている。私が精神分析の世界に入った第一歩であった。


2026年2月26日木曜日

バウンダリーについて 17

 昨日の続き。よくわからないまま思索を続ける。結局CSAの問題はそこでのトラウマ性は単に年齢の差があったり、表面上の力の差が存在していたり、という事には帰着できない気がする。昨日の例に戻ると、Bさんに振られたことによるAさんの心の痛みは、自分が未成年であり、相手が成人(22歳という想定であった)であるという事実には直接かかわってこないだろう。そしてAさんに、Bに騙され、搾取されていたという感覚が伴わない限りは、それをトラウマとしていて位置付けることは難しいであろう。Aさんがあくまでも一個人の自由意思に従ってBさんと付き合った結果だとしたら、たとえCSAの条件を満たすとしても、通常の失恋の痛手以上の要素を考えるのは難しいのではないか。  トラウマの成立にはある種の裏切り、虚偽のために人間そのものへの不信感を植え付けられるような要素が必要であるとしたら、そこには相手に服従せざるを得ないような関係性があったり、相手が自分の力を利用することで特別な関係に陥らざるを得なかったり、という事情が関係しているはずだ。それらが存在しないとしたらそこにトラウマ性を見出すことが出来ない事になるのだろう。しかし今書いたこの「トラウマ性」とはいったい何だろう?よくわからなくなってきた。  ともかくも、ここに境界侵犯の問題はどのように関わるのか。それは境界侵犯が伴うことで、後になって相手に利用され、搾取されたという感覚を生む可能性が高いからなのだろう。そしてそこには境界が侵犯されたという認識が、搾取されたという体験を新たに生むという事もあるだろう。いわゆる不貞行為が境界侵犯に相当するかは別だとしても、恋愛関係にあった相手が妻子持ちであると知った時の傷つきなどはその例かも知れない。相手に独身だと嘘をつかれていた人は、妻子持ちであるという事を知って騙されていた、弄ばれていたという感覚を持つことで、それまでの心地よい体験は一瞬のうちに悪夢になる可能性がある。  それにしても失恋がトラウマになるかどうかについては、考え出すとよくわからなくなる。その時の身の置き所のないような辛さはよくわかる。もう相手を信じることなどできない、恋愛はもうこりごり、と思う人も多いだろう。でもそれはトラウマと呼べるものだろうか。一つ言えるのは、失恋の痛手は相手への恨みへと比較的容易に変換されるものだという事だ。ストーカー被害のケースなどは、男性(時には女性?)の側に以前の恋人への恨みが募り、時には殺意にまで至るプロセスが見られる。 ともかくもバウンダリーに関する思考は、このところ全く進んでいない。これで何か論文が仕上がるのだろうか?


2026年2月25日水曜日

バウンダリーについて 16

 結局境界侵犯の典型例であるCSAの問題も、私がすでに示していた考えに行きつく。それはハイリスクであり、危険水域にある関係性である。「臨界状況」での出来事であると言っていい。そしてトラウマとしてのポテンシャルを多く含んでいる。しかし現実のトラウマとなるかどうかには高い偶発性が介在するのだ。  これを書いていて、通常の恋愛についても考えてみたくなった。両者が合意し、そしてそこに力の差 power differencial のない二人が恋愛関係に入るとする。そこにトラウマ性は? もちろんあるのだ。恋愛のかなり多くが(大部分が?)破局に終わることを考えればいい。大抵の場合両者は程度の差こそあれ、傷ついて別れていくのだ。  このように考えると恋愛はそれそのものがトラウマ的、ないし悲劇的である可能性がある。しかしそれにもかかわらず私たちはそこにかなりポジティブな価値を置くのはなぜか。そして失恋において振った方が振られて傷ついた人への加害責任を通常は問われないのはなぜだろう? それは恋愛に入る場合は、お互いにそこに自主的な選択があったという前提があるからだ。すると結果的にどちらかが傷ついたとしても、それは自己責任という事になる。ここで鍵となるのは自由な選択であり、だからこそCSAのように自由な選択が一方に与えられていない場合の加害性が問題となる。  書いているうちにますますわからなくなってきたが、よくわからないままに書き進んでいこう。二つのシナリオを考える。  シナリオ① 対等な関係の成人(ともに22歳としよう)AさんとBさんとの恋愛が始まるが、やがて破局を迎える。そして振られたAさんが言う。「Bさんは最初は私のことを『心から愛している』と言ったんです。将来結婚しようとまで言いました。しかし後になって『もうAさんには興味がなくなった』と言ったんです。これは一種の詐欺です。」そこでAは訴訟を起こそうとする。  しかしAさんは周囲に止められる。「もともとあなたがBさんを誘ったのでしょう。」これでお終いだろう。あるいは逆に最初にBさんの方からの誘いがあって始まった関係であっても「あなたはBさんと同い年で社会人なのだから、Bさんとの付き合いを最初から拒否できたはずでしょう。 」で終わるのが社会常識である。(もちろん結婚を約束してさんざん相手に貢がせたうえでの破局であれば問題はずっと複雑になるーたぶん後述。)  ところが少しシナリオを変えて、シナリオ②:Bさんは成人(22歳)で、Aさんが未成年(17歳)であったとする。たとえAさんからの誘いによる関係により始まったとしても、Aさんが傷つきを覚えて訴訟を起こしたならばまったく事情が違ってくる。Aさん(ないしはその保護者)は恐らく正当にBさんを訴えることができる。いったいどこが違うのだろうか?  一つにはシナリオ①も②も、同じ質のトラウマが生じている。Aさんの苦しみの質は類似しているはずだ。「相手は愛を誓っていたのに自分を裏切った。さんざん弄ばれた上に捨てられたのだ。」  さてそこに②の場合は歳の差(22歳と17歳)が加わることでAさんのトラウマは、本質的に異なるのだろうか?Aさんは「Bさんは17歳で社会人でもなく、正常な判断が出来ない私をかどわかしたんです!そこが絶対に許せないところです!!」となるだろうか。あまりそうならない気がする。ここからがよく分からなくなってくるところだ。おそらく多くの場合Aさんは次のような反応をするかもしれない。私は17歳でもう大人です。精神年齢から言ったらBさんと本質的に変わりません。というよりBさんの方がよほど幼稚で浅はかだと思います‥‥。」

2026年2月24日火曜日

バウンダリーについて 15

  話を元に戻す。リンド論文では、一般集団におけるCSA(子供の性的虐待)に関する基本的な通念は支持されなかったと結論づけているという話。一般に論じられているCSAのトラウマ性や有害性と大きく矛盾する結果となったのだ。これをどう考えたらいいのか。  実は私は似たような体験を持っている。精神医学的なある「常識」が一般人を対象にした研究と大きく矛盾するということを知ったのだ。「脳から見えるトラウマ」(2025年)での「トラウマと記憶」(p.46~7)という章で、私は次のようなことを書いた。  「2001年にPorter & Birt は  “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?) という論文で、通常の記憶とトラウマ記憶にどのような差がみられるかについて研究を行った(Porter & Birt, 2001)。彼らは306人の被験者に対して、これまでの人生で一番トラウマ的であった経験と、一番嬉しかった経験を語ってもらったという。すると両者の体験の記憶は多くの共通点を持っていた。つまり双方について被験者は生々しく表現できたという。またよりトラウマの程度が強い出来事ほど詳細に語ることが出来た。それをもとに彼らはそれまで一部により唱えられていた説、すなわち「トラウマ記憶は障害されやすい」という説はこの実験からは否定される、とした。さらにトラウマ記憶についてはそれが長期間忘れられていた後に蘇ったのはわずか5%弱であり、嬉しかった記憶についても2.6%の人はそれが忘れられていた後に蘇ったという。この研究ではまた長期間忘れていた後に想起されたトラウマに関して聞き取りをしたところ、それらの記憶の大部分は無意識に抑圧されているわけではなかったという。それらはむしろ一生懸命意識から押しのけようという意図的な努力、すなわち抑制 suppressionという機序を用いたものであったというのだ。この学術的な研究からは、トラウマ記憶が抑圧され、後に治療により回復される、という理論は概ね誤りであるという結論が導かれることになる。しかし実は一時的に失われていた記憶が治療により、あるいはそれとは無関係に蘇るという現象は、精神科の臨床では稀ならず見られる。それはトラウマを扱う多くの臨床家にとってはむしろ常識的な了解事項とさえいえる。これはいったいどういうことであろうか?」 わかり易く言えば、この一般人を対象とした研究では「忘れていたトラウマ記憶を思い出すというのは神話だ」と主張しているのに対して、でも臨床場面ではそれはよくある事なのに、なぜそのような研究結果になるのだろう、と私は考えたのだ。  実はリンド論文に関する私の立場も同じなのだ。CSAの有害性が臨床的にはこれほど明らかなのに、なぜ研究には表れないのか。その点が重要なのだ。

2026年2月23日月曜日

バウンダリーについて 14

 ここでこれまでの論点を少しまとめてみよう。チャット君によるとリンド論文で問題視されたのは以下のいくつかである。

● 大学生サンプル(college samples)中心の研究をメタ分析しており、「重症で大学に進学できないケースが抜けるのでは」という代表性バイアスの批判が強い。
● 結果の解釈や定義(“child sexual abuse” の扱い)が不適切では、という方法論批判が多数。
● 反応が非常に政治化し、米国議会がこの論文を非難するという異例の展開まで起きた、という点が「事件」扱いされた。この論文は成人—未成年の性的関係を擁護する根拠として扱われ得ること自体が大きな問題で、批判側は「研究設計上の限界と社会的悪用リスク」を強く指摘している。

要するにこの問題は政治と学問の微妙な関係を浮き彫りにしているという事だ。あるいは時の権力構造と学問の関係にもなぞらえることができるだろうか。うんとわかり易い例を用いよう。
最近までダーウィンの進化論が受け入れられ、「獲得形質は遺伝しない」は常識であった。とにかく学会の権威達が作っている派閥がそう言っている(という設定にしよう)。ところがある研究論文が発表され、その内容は、ラマルク説を蒸し返すようなものであった。つまり「木の実を食べてばかりいた牛の子供の首が長くなった」という内容だったのである。するとダーウィン派の権威たちは、その研究の内容について批判するのではなく、そのような論文自体の存在を否定し、「そもそもなんでこんなトンデモない論文を掲載するのだ!怪しからん!」とその学術誌を責めることとなった。「反主流派(非ダーウィン派)の学者たちがこれを自分たちの理論を擁護するものとして利用するではないか」というわけである。(結構考えて作った比喩だが、読み返しても出来の悪い比喩だ。まあいいか。
この背後には「獲得形質が遺伝しない」とばかりは言えない、いわゆるエピジェネティックスの問題が最近注目されるようになったという事情がある。要するに環境の影響が、子に残す遺伝子に反映されてしまうという事実が明らかになってきている。進化論や遺伝学上の本質に迫る問題であり、実際にはエピジェネティックスの議論がバッシングに遭っているという話は聞いたことがないので、あくまでも架空の話である。)  とにかく問題はある学術研究が、学問的な扱いを受けるのではなく、ある種の「不都合な真実」的な扱いを受けていることがあるのである。言い換えれば、学問的な問題はいつ政治的な色彩を帯びてもおかしくない、という事か。そして境界侵犯の問題もまさにそうである。
 一昔前だが、米国のMBAのどこかのチームの監督が、「黒人は身体能力に優れている」という趣旨の発言を行ったところ、アメリカで大問題になった。日本でこの話を聞いてもにわかにピンとこないであろうが、要するに「その発言は『黒人は身体能力以外では劣っている』という事を匂わせているのではないか。それは人種差別である!」となるのである。そしてもちろんここにはアメリカという国民性も大きく影響している。
 連想は続くが、「翔んで埼玉」という映画を思い出す。ネット記事から。
「『埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ!』――。埼玉県をけなした過激なセリフや設定で注目を集めたコメディー映画「翔んで埼玉」に出てくるセリフにちなみ、「そこらへんの草天丼」を春日部市の地元スーパーが商品化し、連日完売となっている。」(読売新聞オンライン 2021・5・17)
 
 何と日本人(埼玉県人?)の鷹揚なことか。同じような映画を米国で作ったらどうなるのだろう? ある州に関してあからさまにディスる内容の映画を作ったら、その州では大騒ぎになるのではないか。

2026年2月22日日曜日

バウンダリーについて 13

  実はここまで行くと論じなくてはならない論文がある。いわゆる「Rind論文」だ。これは米国の心理学会では皆が知っている論文だ。私はこの論文を米国にいたころダウンロードしておいたのでアイパッドから読めるが、発表当時はそのあつかわれ方が極めて議論を呼んだことを記憶している。実は先ほど私は最初この論文の著者が思い出せずに「確かこんな論文があったんだけれど‥…」とChat君に聞いたところ、すぐにRind の名前が出てきたが「この論文を引用する際には、注意事項があるよ!!」と警鐘を鳴らしてくれた。

チャット君は「いわゆる 『Rind論文問題(Rind et al. controversy)』 として有名で、世論・専門家・政治の場まで巻き込んだ炎上になりました。」と言う。

ちなみにRind論文とは Rind, Tromovitch, & Bauserman(1998)“A Meta-Analytic Examination of Assumed Properties of Child Sexual Abuse Using College Samples”(Psychological Bulletin.124:22-53.)であり、その内容をひとことで言えば、児童期の性的虐待と、その後の精神病理との関連の大きさが全体としては弱いことを示したのである。しかしこの論文がアメリカでは大炎上したのだ。

 まずこのRind論文の抄録の和訳を紹介しよう。今ではチャット君のおかげであっという間に用意することができる。
<抄録>
一般の人々や専門家の多くは、児童期の性的虐待(child sexual abuse: CSA)は、性別を問わず、一般集団において広範かつ強い心理的害をもたらすと考えている。本研究では、このような一般的信念を検討するため、大学生サンプルに基づく59件の研究をレビューした。メタ分析の結果、CSA経験を報告した学生は、対照群と比べて平均的にはやや適応が低いことが示された。しかし、この適応の低さはCSAそのものに起因すると結論づけることはできなかった。というのも、家庭環境(family environment: FE)がCSAと一貫して交絡しており、FEはCSAよりもはるかに多くの適応の分散を説明していたからである。また、多くの研究においてFEを統制すると、CSAと適応との関連は概して有意ではなくなった。CSAに対する自己報告による反応や影響に関するデータからは、否定的影響は広範でも典型的に強いものでもなく、男性は女性に比べてはるかに否定的な反応が少ないことが示された。大学生サンプルから得られたこれらのデータは、全国調査サンプルの結果とも完全に一致していた。以上の結果から、一般集団におけるCSAに関する基本的な通念は支持されなかったと著者らは結論づけている。

さてこの論文による議論に関しては、それについてまとめたリリエンフェルド(この人も実は曲者だ!)の論文の要旨を読んでいただこう。Lilienfeld SO. When worlds collide. Social science, politics, and the Rind et al. (1998). Child sexual abuse meta-analysis. Am Psychol. 2002 Mar;57(3):176-88.

抄録)
1998年にRind, Tromovitch, Bausermanが Psychological Bulletin に発表したメタ分析は、児童期の性的虐待と、その後の精神病理との関連の大きさが全体としては弱いことを示した。ところがこの論文は発表直後から、メディアで影響力のあったドクター・ローラ・シュレッシンガーや多くの保守系団体から激しく非難され、さらには米国議会によっても糾弾される事態となった。加えて、アメリカ心理学会(APA)も、著者らの結論から距離を取る姿勢を示した。この一連の出来事は、いくつかの重要な問いを浮かび上がらせる。すなわち(a)政治的に論争を呼びやすい研究結果を報告する際に研究者が負う責任とは何か、(b)学問および科学の自由はいかに守られるべきか、(c)一般社会やメディアに広まる論理的誤りや誤解を正すうえで、APAはどのような役割を果たすべきか、そして(d)大衆心理学と学術心理学のあいだに存在する大きな隔たりと、それを縮める責任がAPAにあるのではないか、という点である。


2026年2月21日土曜日

バウンダリーについて 12

  昨日の続きである。もちろんこのことは「バウンダリーの問題はそんなにうるさく言う事ではないよ」ではない。バウンダリーの逸脱は非常に頻繁に人間社会で起きている可能性があり、その一部で確実に犠牲者を生み、また一部ではそれなりに関係が進展していくという現実があるという事だ。例えば昨日の例では選手とコーチの関係が男女の関係に発展するという事がどの程度頻繁なことは分からずとも、生じるべくして生じていて、一部では悲劇が生じ、一部では「上手く行く」(????)という事だろうか。では●出監督の話は「上手くいった」(結果オーライ)の話なのか?これは非常に難しく、錯綜としたテーマなのである。ただ一つの仮説として成り立つのは次のことだ。

 バウンダリーの侵犯(ここからは境界侵犯に呼び変えよう)は極めてハイリスクな出来事である。確実にトラウマを生む素地といえる。ところが他方にそれに対する感受性があまり高くない場合には、その境界侵犯のトラウマ性を克服、凌駕する力を相手が持ち、境界侵犯により新たに始まった関係性を生き延び、場合によってはそれを利用する場合がある???

 例えば●出監督の無節操さ(と敢えて呼ばせていただこう)を●チャンが「これってアリなの?」と疑問に思いつつも受け入れてその関係をwin-win なものにして生き延びる?これも現実だという事だろうか?私はこの問題は余りにリスキーすぎてこれ以上ブログでは論じることが出来ない。という事で今日はここでおしまい。(実は明日のレクチャーの準備で忙しいのである。)


2026年2月20日金曜日

バウンダリーについて 11

バウンダリーの問題の難しさは、「バウンダリーの問題をどこまで及ぼすかについてのバウンダリーが曖昧だ」という事だろうか? 2015年2月3日に私はこのブログで次のようなことを書いた。

「ここで小出監督とキューちゃんの話を載せよう。週刊文春に「阿川佐和子のこの人に会いたい」という企画があるが、その342回目(2000年)の記事をとってある。わりと理想的な師弟関係が描かれているようである。「高橋は(タイムが)遅かったから、最初に『お前は今に世界一になるよ』と言ったら『えーっ!?』なんて意外な顔していた。ところがそれを毎日言い続けてみな。『ほんとかな』って首をかしげるようになるんですよ。そこでもっと『お前は強くなる!』っていうとね、『よし頑張ってみよう』という気持ちが芽を出してくる。その芽を摘んじゃいけないんですよ。子供だって同じだよ。」とある。
 ところがそれと一緒に保存してあるのが「噂の真相」の記事。「国民栄誉賞をもらったシドニーの英雄高橋尚子と小出義雄監督の●●関係」というもの。(2000年12月号)
 これを読んで師弟関係についていろいろ考えさせられた。これは醜聞に属する話だ。(●●は私が施した伏字である。)しかしここで浮かび上がるのは師弟関係とバウンダリー(境界)の問題、ないしはパワハラの問題である。ということで記事を再度読み始めると・・・・ウーン・・・・・・・・・・・・・。やはりこれは問題だ。というより詳しくは書けない。いろいろな人が傷つくだろう。ということで一般論に移るしかない。
 どうやらアスリートとコーチや監督の関係には、「一心同体」ということがよくあるらしい。そうじゃないとコーチが務まらないというところまであり、だからコーチは一人しかできないという常識のようなものもあるそうだ。いっそに暮らし、一緒に風呂に入り、一緒に生活をする。問題のK監督はと言えば、そのような形で選手とズブズブの関係にあり、しかも過去には明白なセクハラもあったという。」

つまりこういうことだ。分析家と患者の間のバウンダリーの問題をるるつづってきてが、現実世界ではこのようなことが非常に頻繁に、日常茶飯事で起きているのではないか。そしてもしこれが現実だとすると、バウンダリーの問題はかなり深い闇の世界に繋がっているのではないか、という事である。

2026年2月19日木曜日

バウンダリーについて 10

もう一つの具体例。とある県の●●知事。あのお騒がせの事件は私たちの記憶に新しいだろう。
ところで彼は私が某大学に勤めていた時に、そこの教授として勤務をしていて、顔見知りとなった。だから私にとっては彼に起きたことは人ごとに思えない。(ところで今Wikiで知ったことだが、彼はつい数日前に慢性硬膜下血腫で手術を受けたという。大丈夫だろうか。心配だ。)
ところで彼は数年前にスキャンダルに襲われたが、その経緯が私の記憶に残っている。11年間不倫関係にあったある女性が、彼を突然週刊誌に告発したわけだが、そのきっかけは確か●●氏の方から関係の解消を迫られたことであった。これはとても興味深いことだ。おそらく相手の女性は「私を切りにかかったのね。都合が悪いとこうやって自分の存在をなきものにするのね。やはり彼は私を利用しただけなんだ」と感じたのであろう。彼との思い出がどれだけ楽しく、また彼女も完全に合意の上で付き合っていたとしても、である。(ちなみに一次資料に当たっていないので、かなり私の推測が含まれる。あくまでもそのような事情であった可能性について書いているに過ぎない。)
このような例は実に多いことに気が付く。特に不倫関係にある場合に、別れ話をきっかけに「(家族持ちの)不倫相手から利用されていた」「自分は被害者であり、犠牲者だ」という気持ちが高まり、それが相手への怒りに変わるという例である。
 私がここで強調したいのは、相手の女性にとってはそれまでの楽しかった関係がトラウマになってしまうということは心的事実としてあるということだ。「さんざんその関係を楽しんで勝手な人だ」などとは決して思わない。たとえそれまでその相手と幸せな時間を過ごしており、一度も相手から傷つけられたという体験がなくても、過去の記憶はそっくりそのままトラウマ記憶となりうる。
 もう少し別の架空事例を挙げるならば、ある夫婦が幸せな生活を送り、夫が先に亡くなったとする。残された妻は彼と過ごした数十年のことを大切な思い出にし、自分の結婚生活は幸せだったとしみじみ感じるとしよう。ところがそこで大変なことを知る。その夫は実はその婚姻生活のかなりの部分、別の女性との不倫関係にあることがわかったのだ。するとそれまでの数十年の生活は妻にとってのトラウマとしてのしかかってくる。たとえどんなに楽しい思い出に満ちたものであってもそうなのだ。
 例えば子供が生まれて一緒に子育てをした楽しい思い出があったとする。しかしその間にも夫は不倫相手と会っていたことが分かったのだ。するとその楽しい思い出はその楽しさゆえに、「何も知らずに騙されていた」という悔しさの感情をさらに大きくするかもしれない。これほど苦しい体験はありえないのではないか。
 なんだか話がそれてきたが、ギャバード先生の”Timed-release”の話(「不発弾」といういい方もありかな)あるいはトラウマの事後性の問題が境界侵犯審判に深く関係しているという話をしていてこうなったのだ。

2026年2月18日水曜日

バウンダリーについて 9

  昨日の続きについて。ギャバ―ドさんの比喩はこのように考えてはどうか。彼は飛行機のパイロットである。もちろん彼は操縦には自信がある。しかし乗客をたくさん載せた飛行には重大な責任が生じる。その時「ビールの1,2本なんて平気平気」と一杯やってから(なぜか呼気チェックもすり抜けられて)操縦桿を握るだろうか?さすがに私でもこれはいけないと思う。そして患者との個人的な関係に入る事にも同様の問題が生じると論じるのであれば、これはまた別問題である。  しかしこれを論じているうちに、ギャバ―ドさんが言っている「タイムリリース」効果のことが重要に思えてきた。性的な関係はそれにどのような意味が後になって付与されるか分からない。その意味でそれは「のちになって効いてくる薬物のようなのだ。そしてそれは分析家の行動を(かつての)患者にとって決定的に外傷的なものにしてしまう可能性がある。そしてそのようなリスクまで冒して患者と個人的な関係を持つことは決して倫理的に許されないのだ。(ちなみにTimed-release(タイムリリース錠)は、薬やサプリメントの成分が体内で時間をかけてゆっくりと吸収されるように加工された,徐放技術の一種、という事である。)  このトラウマの事後性(こっちの表現の方がよく用いられるな)はもちろん性的な関係に留まらない。いくつかの例をあげよう。親子の関係でも、これまで一生懸命育ててくれた母親が年老いて介護が必要になり、娘にそれを請うとしよう。そして娘は自分の生活があるので、母親に施設に入ってほしいと言う。それに対して母親は言うのだ。「将来面倒を見てもらうために一生懸命あんたを育てたのに、何てこというの?」  もちろんこれをどのように聞くかは娘次第だが、彼女は衝撃を受けてもおかしくないだろう。「これまでの子育てはすべて、私を将来利用するためのものだったの?」  私は親子の間で交わされる会話は時には大変な誤解や曲解や、あるいは真実の吐露を含む可能性があると思うが、それは長年のお互いの情緒的なコミットメントがこのような一言で反転したり、被害的、加害的な意味付けが行われる可能性があるからである。そしてこれは男女の関係でもいとも簡単に生じる可能性がある。それはその関係性のどの時点でも、何処にさかのぼっても生じる可能性がある。「自分は長い間騙されていた」「自分は裏切られていた」「自分はただ弄ばれただけだった」・・・。  ギャバ―ド先生の論文に戻ると、境界侵犯を伴う治療者―患者間の個人的な関係は、はるかに時を経ても、例えば離婚等による破局の際にはもと治療者側が患者側から訴訟を受けるというケースを多く見てきているという。

2026年2月17日火曜日

バウンダリーについて 8

 ギャバードさんのある論文 (Gabbard GO. Boundaries, technique, and self-deception: a discussion of Arnold Goldberg's "Some limits of the boundary concept". Psychoanal Q. 2008 Jul;77(3):877-81; discussion 915-9.) を読んで考えさせられた。この論文で彼は、Arnold Goldberg (例のコフート派の有名な分析家であろう)の論文(Goldberg, A(2008)Some limits of the boundary concept. Psychoanalytic Quarterly. 77:861-875.)に対する批判を行っている。ゴールドバーグは「境界侵犯をしても被害者は出ないことはあるではないか」と述べる。つまり境界侵犯は必ずしも罪ではないのはそのような例があるからだという。そして上げるのは次のようなケースだ。

長年にわたる精神分析が終了した後、分析家と患者が結婚したとする。二人は合意のもとにそれを行い、それ以降幸せに暮らしたとする。これは何の問題もないではないか、とゴールドバーグは言う。
 これに対するギャバ―ドさんの反論はとても精緻なものだが、アナロジーとして彼が出しているのを読んで「?」と思った。彼はゴールドバーグの主張は、かなりの飲酒をしても事故を起こすことなく車を運転して帰宅したなら、その人に罪はないのか、というのに似ているという。

私はこのギャバ―ドさんの反論はどこか違っている気がするが、なぜだろうか?

先ず飲酒運転に関して。もし運転手がものすごくベテランで、自分が行きつけのバーでコップ2杯のビールを飲んだくらいでは全く運転技術に支障が出ないことを知っていたとしよう。(実は飲酒運転が合法であるどこかの国で、さんざん経験済みだとしよう。)そして帰宅先はなんと、直線距離50メートルくらい先だ(だったらどうして最初からバーに歩いて来なかったのか、と突っ込まれるかもしれないが。)これは問題だろうか?私だったら大して良心の呵責もなく50メートルの距離を「安全運転」して帰宅するかもしれない。いわばこれは「軽い」違法行為で、結構起きていることかもしれない。60キロ制限の道路を62キロで走行するようなものだ。

分析における境界侵犯の例として同じようなレベルのものを考えてみる。例えば分析家が分析の関係を終了させた後、患者をお茶に誘い、10分ほどよもやま話をして別れたとする。ただの一回だけだ。そしてその後はもう会わないとしよう。これは上の飲酒運転の深刻さになぞらえることが出来そうな気がする。もと治療者と患者が個人的な付き合いをしてしまった点は境界侵犯にあたるだろうが、患者の側に被害はないとみなせるし、その意味ではゴールドバーグの「被害者の出ない境界侵犯」の例と言える。(ちなみに精神分析の世界では、分析家の卵、つまり協会の候補生が卒業して分析家になった後には、自分の教育分析家と同僚の関係になり、一緒にクラスを教えたり、一緒に飛行機に乗って学会に参加したりするのが普通であり、この種の「境界侵犯」は日常茶飯事である。そしてそれが深刻な問題に発展したという話も聞かない。
 ここまでは飲酒運転のアナロジーは説得力がある気がする。しかし‥‥(続く)

2026年2月16日月曜日

バウンダリーについて 7

 ギャバードさんは精神分析の草創期におけるフロイトの弟子たちの過ちに対して、フロイトはその火消しに躍起となっているとし、その例を山ほど挙げている。しかし最後にフロイトも聖人では決してなかったことを強調している。フロイトは性的な意味での境界侵犯こそなかったが、それ以外の境界侵犯についてはそれをいくつか行っていたことが知られる。一つよく知られるのは娘のアンナに対する分析を行ったことであるが、アンナも自分のことをケースとして報告して分析家となったという意味では決して単なる犠牲者であったわけでもない。それでも彼女は自分が父親に報告した夢が無断で使用されたことについて不満であったとギャバ―ド先生は書いている。  フロイトの境界侵犯については、比較的最近になって明らかになったホレイス・フリンクをめぐる問題の方が強烈だ。私がこのブログでちょうど10年前に書いたもの(2015年12月31日)を再録しよう。

[このいわば「フロイトスキャンダル」とでもいうべき問題は]私がメニンガー・クリニックで精神分析のトレーニングを受けている頃に明らかになったものである。1990年の3月にそれが公表された新聞(New York Times, 1990316日付) のコピーをスタッフが競って読んでいたのを思い出す。

 これはフロイトがある患者に対して行った治療に関する新たな史料が発見されたことに起因しているが、そのあらましを記してみよう(Edmunds, 1988)1920年代にホレイス・フリンクというアメリカの精神科医が、自分の精神の病の治療をかねてウィーンでフロイトの分析を受けた。一世紀以上も前の話だ。フリンクは当時、自分自身の患者である既婚女性アンジェリカ・ビジューと関係を持ってしまっていた。
 このフリンクによる分析治療が問題だったのは、こともあろうにフロイトはフリンクに、彼自身も妻と離婚して、アンジェリカも夫と別れさせた上で二人が結婚するように勧めたということだからだ。つまりフロイトは患者と関係を持ってしまっている自分の患者に、それを制止するどころか、それをさらに教唆したということだ。そしてそこにはある金銭的な事情がからんでいたらしいというのが、この一連の話のポイントである。
 そこにはアンジェリカが銀行の跡取りである大資産家であったということが関係していた。フロイトはフリンクに、「あなたは潜在的な同性愛者であり、しかもそれが顕在化してしまう恐れがあり、それを防ぐためにはアンジェリカと結婚する」必要があると説いたという。そしてフロイトは、フリンクにさらにこう言ったという。「あなたが自分の潜在的な同性愛に気がつかないということは、私を金持ちにしたいという願望に気がつかないことと同じだ。」そしてアンジェリカとの結婚による資産を精神分析に寄付することを迫ったというのだ。しかし二人の結婚はそれぞれのもとの配偶者の人生を狂わせ、フリンク自身も精神病を発症し、それほど犠牲を払った結婚はすぐに破局を迎え、フリンクはその後非業の死を遂げることになる。アンジェリカの夫はフロイトを告発する文章を新聞に出そうとするが、結局はその機会のないままに病死をしてしまう。これらの経緯から見て、フロイトが彼らの人生を破壊してしまったといっても過言ではなさそうである。

以上の事実は、フリンクの娘の調査により明らかになったという。そこで見つかったフロイトからフリンクへの直筆の手紙が何よりもの証拠になったのである。非常に筆まめなフロイトがみずから招いた不幸とも取れようが、もちろんフリンクをはじめとしてこの一連の悲劇に巻き込まれた人々が最大の被害者であることは言うまでもない。

このような経緯を見る限り、いわゆる「フロイト神話」は崩れる一方にあるとしても無理ないであろう。1980年以降、公にされる資料や行われる研究はほとんどが、フロイトが理想的な治療者とはいかに異なっていたかについて明らかにする。なぜこのようなことが生じるのだろう? 私たちはそれでもフロイトを「信じる」べきだろうか?

ただしこの種の疑問は的外れなのであろう。なぜならその背景にあるのは、私たちの持つ、過度の理想化に走りやすい傾向だからだ。もとよりフロイトは高潔で公平無私の人間などではなかった。特別高い倫理観を備えていたとも言い難いところがある。冒頭で述べたとおり、フロイトを理想化し、その人間としての偉大さを強調しようとする限りは、それを否定するような材料はこれからでも続々と出てくる可能性もある。またこれは後に述べることだが、フロイトの人間性についてその完璧さを願いつつ資料に当たっても、結局はその倫理性に関してはむしろ俗人に近い印象を受ける。ではフロイトの何がすごかったのか? 彼の真価はどこら辺にあったのだろう?

2026年2月15日日曜日

バウンダリーについて 6

  引き続き精神分析の草創期について。ギャバ―ド先生は言う。「精神分析の歴史の早期には、分析家たちは患者の向ける転移の強さに驚いたが、逆転移の意味についての理解が洗練されていなかった‥‥」え?そういうこと?という事は分析理論が十分でなかったから「患者の強烈な転移ゆえに」境界侵犯が起きたという風に理解できる。しかしだったら後になって精神分析の理論がより発展して、その結果として問題がなくなったのかと言えば、そうではない。境界侵犯や治療者による患者の性的搾取の問題は起きるべくして起きているのだ。ただし一つ違うのは、ユングやフェレンツィなどの様に悪びれることなく境界侵犯を行うケースは減ったという事であろうか。現代では境界侵犯は倫理的に大変問題であると自覚し、またそのように扱われることも知っているのだ。でも秘密裏に依然としてそれは起きていると考えるべきであろう。どうもこのギャバ―ド先生の説明にも「誘った患者が悪い」的なニュアンスが透けて見えるようだ。  1118ページには大切なことが書いてある。精神分析には誘惑の要素が確かにあった。Friedman が述べているように、フロイトは精神分析が患者からの恋愛転移に力を得て進められるというような考えを持っていた(p.1119にあるように、フロイトは性愛的な魅力を治癒を真に導くものと考えた。Freud regarded erotic attraction as the true vehicle of cure….)。患者からの愛をそれに代わる代替物(それ自体があまり定義されていないが)を与える形で治療が進むとしたら、治療者が返すものの中になにがしかの「愛らしきもの」が必然的に混入することになり、これは境界侵犯にきわどく迫る事になりはしないか。こんなことを考えていたフロイトはやはり問題だろう。  精神分析では患者との個人的な関係に関しては、治療を終えてからはよろしい、とか終えてから一定期間が経ったらよろしい、などと考えた時期もあったが、ユングとシュピールラインの関係がそうであったように、そのような約束は何にも意味をなさなかったのだ。


2026年2月14日土曜日

バウンダリーについて 5

 ギャバ―ド先生の、古典となっている論文がある。

Gabbard GO. The early history of boundary violations in psychoanalysis. J Am Psychoanal Assoc. 1995;43(4):1115-36.

そこには精神分析の草創期にいかに多くの分析家たち(フロイトを除いた著名人のほぼ全員)が境界侵犯を犯していたかが描かれている。フロイトとユングやフェレンツィ、A.ジョーンズとの書簡集は精神分析の研究の歴史の中では遅くなってから公開されたが、そこには精神分析の歴史の偉大な先輩たちの様々な境界侵犯の例が描かれている。 ギャバ―ド先生はこれらの問題はもはや隠されるべきではないという自覚が生まれ、またこの問題がごく一部の人々に限られているのではなく、私たちすべてがそれに陥る可能性がある all of us are potentially vulnerable.(1116) と述べている。ちなみにこの表現は重要だ。私が「男性はしょうもない」と自重を込めて言う時はまさに同じことを考えている。もちろん「私もそのような問題を犯しかねない」と言っているのではない。「私もそのような問題を犯しかねないリスクを負っている」と言いたいのである。別の意味では私たちは当事者側なのだ。
 さらにギャバ―ド先生は言う。離婚や家族の死やほかの破局的な出来事の際には、いかに分析を受けてエキスパートと呼ばれる人でも判断を誤る可能性があるという(1117)。ただしこう書きながら私は思うのだ。ギャバ―ド先生はこれによりかなり加害者を免責しているのではないか。私の考えでは慢心や油断や自己愛によりそのような問題が起きやすいと言えないであろうか、という事である。


2026年2月13日金曜日

バウンダリーについて 4

 前回は臨界状況について述べた。それはそこで相転移が起こりかけている状況だと言った。だからこそエキサイティングで不安を誘い、事件性を秘めている。そしてその臨界状況を超えることは時には breakthrough になり、ときにはトラウマティックである。

ところで「臨界」と聞いてまず想像するのは、例の原発ではないか。ちょっとググってみると、最近ではAIの模範的な回答が出てくる。

「臨界(Criticality)とは、原子力発電において、核分裂の連鎖反応が一定の割合で自発的に持続している状態のことです。この状態を原子炉内で制御棒などを用いて安全にコントロールし、エネルギーを取り出すのが原子力発電の仕組みです。一方、制御不能な状態で臨界に達すると、大量の放射線や熱が発生する「臨界事故」となります。」

私は少し前までは、臨界事故=核爆発だと勘違いしていた。さすがに臨界事故ではそこまで行かないが、メルトダウンがその結果であり、チェルノブイリ事故や福島の原発事故のようになる。(しかし臨界を超えた最大の事故といえば、メルトダウンどころではない、まさに核爆発であり、それを実は人為的に引き起こすのが核兵器という事になるだろう)。

というところでここからは(多少強引だが)boundary violation 境界侵犯の話になる。これがわれらがG.ギャバ―ドさんが若い時から扱っていたテーマの一つである。  


2026年2月12日木曜日

明日の授業の準備

 明日のとある授業のために、ルイス・アロンの「心の出会い」を久しぶりに読んでいる。アロンの本の特徴を一言でいえば次のようになるだろうか?


本書の一番のテーマは、「治療者の主観性」を現代的な精神分析ではどのように扱うのか、という事に尽きる。古典的な考えによれば、患者は自由連想で即興で、衝動的にものを言い(つまり「一次過程」をそのまま表現し)
、治療者は客観的でバイアスのない中立的な観点からその自由連想にコメントや解釈を加えるという図式が成立している。つまりこちらは完全に二次過程である。いわば分析家は患者の心を見通すことが出来ると考えていたわけである。それも患者の意識だけでなく無意識過程も。ところが患者だけでなく治療者も、衝動的で主観的であることがわかってきた。両者は変わらぬ、生身の人間だからだ。それを分析家たちはしぶしぶ認めるようになった。考えても見よう。裁判だってあれほどの冤罪がある。分析家だって同じだ。だから謝った人間観により打ち立てられた精神分析理論を脱構築しなくてはならない事になる。

それにしてもよく書かれた本である。


2026年2月11日水曜日

開業精神療法におけるAIの意義について

  ある学会の抄録を書いている。

 開業精神療法を行う私たちにとって、AIがどのような意義を持つのかという問題は、この二、三年になって急速に大きなテーマとなりつつある。これは精神療法のオンライン化の可能性と共に私たちの臨床に直結する問題となりうる。私はこの問題について、以下の三つのテーマに沿って論じたい。それらは、1. AIは心を交わすに値する存在なのであろうか? 2. AIは治療者としてどのような役割を演じる可能性があるのか? 3. AIから治療者は何を学べるか?である。

1. AIは心を交わすに値する存在なのか?

 ほんの数年前まで、私たちは「人工頭脳」とまともな会話を交わすことなどおよそ不可能と考えていた。ところが202211月の対話型AI (ChatGPT)の公開以来、わずか3年あまりのうちに私たちの考えは大きく変わりつつある。多くの患者が日常的にAIを用いて様々な相談を行っていることを耳にする。そして私たち治療者の多くも同じような体験を持っているであろう。しかし同時に私たちが持つのは、AIを一人前の心を持つ存在として関わっている自分たちに対する違和感ではないか? そもそもAIは「心を持たない」存在のはずである。それは構造上ものごとの真の「理解」が出来ず、主観性やクオリアの体験を持つことが出来ない。そのような存在と心を通わせ、共感をし合えることなど可能なのであろうか?この問題についての私の考えは、AIは間違いなく「知性」であり、「心を持つかのごとくふるまう」何かであり、それをかりそめの心(【心】)として扱わざるをえないという現実である。


<以下略>



2026年2月10日火曜日

バウンダリーについて 3

  さてなぜ柔構造の概念が面白いかと言えば、構造が規定する境界線上で様々な駆け引きやダイナミクスが起きるからである。アーウィン・ホフマンは「儀式と自発性」の中で liminal space (境界空間)、すなわち患者がオフィスに入ってくる瞬間から、カウチに身を横たえて自由連想が始まるまでの短い時空間に様々なことが起きる様子を書いてある。(もちろんカウチから起き上がり、最後にドアを閉めて退出する間も、やはり境界空間である。)最初の一瞬は二人の社会人としての出会い(町で偶然出会った時のように)であり、普通にあいさつを交わすであろう。お互い愛想笑いを浮かべるかもしれない。そしてカウチに横になりアナリストとアナリザントの関係に入る。ところがその間の移行期に、実に様々な人間的なやり取りことが起きる可能性があるのだ。例えば治療の終了時に境界空間が始まるが、患者がそれまで話しかけていたことをいかに収めるか、いかに話し終えるまでの時間を(それでも話し続けることで)治療者に要求するのか、という人間的な駆け引きが起きるのだ。あるいは「今日は緊張してあまり話せなくてすみません」等の本音もこの空間で聞かれるかもしれない。 この問題と、「臨界状況」をめぐる議論とは繋がっている。臨界状況とは複雑系においてある種の部分的、ないしは総合的な相転移が生じかけている状況であり、そこでも様々なことが起きる。人間の脳の活動で考えれば、ある行動を起こす、ある言葉を発する、という現象自体が臨界状況から析出してくる。(これを書きながら、アマゾンで「ALT236著 佐野ゆか訳 リミナルスペース ー新しい恐怖の美学 2025年」をさっそく注文した。)

 臨界状況の面白さをどう表現したらいいのだろうか。そこでは何が起きるか分からない、いろいろなものがギリギリのバランスをとっていて、どれかが一気に結晶化するような不可知性、偶発性が関係していることは間違いない。


2026年2月9日月曜日

バウンダリーについて 2

 ところで境界についてこれまで書いてきたこととしては二つある。一つはいわゆる「治療的柔構造」の議論、もう一つは臨界状況の多産性、という事だ。結局自分が書いてきたことを頼りに書き進めるのが無難だろう。

 柔構造については、こんな議論をした。「治療構造を厳守せよ、という事が叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボだ」。こう書いてみると非常に乱暴、というか「何言ってんの?」と自分自身に突っ込みを入れたくなる。よくこんなことを書いたものだ。でもこんなことを書きたかったのだ。
 境界は実は何かに刻印されて動かないのではなく、その時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを治療者の側が「一回50分ですから」と言って一分も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているだけであることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性であり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。

 こう考えてみよう。コンビニで菓子パンを200円で売っている。客はレジのところで190円にと値引き交渉をするだろうか?客から見れば、「ちょっと高いんじゃない?」とか「値上げ前は190円だったじゃない」と言いたくても、そんなことをレジでいちいちやっていたら回らない。それこそそのたびに店長に聞きに行く、などのことをしていたらレジでお客さんの列が出来てしまう。だからコンビニで値引き交渉をするなんておかしな人だと思われてしまうと思うだろう。ところがお肉の量り売りをするときはちょっと心持多めにしてあげるなどのことは普通に行われるだろう。もともと物の売り買いは売り手と買い手が交渉して値段を決めていたのだ。せり売りやオークションなどを見れば、それが原型だと分かるだろう。定価での売り買いは、どちらか、あるいは両者の利便性のためにそれが選択されただけである。

 その意味で私は構造は「柔構造的」であると言ったが、それが原型であることを言ったまでで、構造は自由に破られてもいい、と言っているのではなく、原型としての柔構造の理念(すなわち原則的に両者の合意で境界が決まるもの)を忘れない方がいいであろうと主張したのだ。
 そして治療構造はまさにそのような性質のものである。柔構造的な部分はいくらでもあると言っていい。患者は治療費を翌月の第一月曜日に振り込むという契約だったとしよう。患者はその日に忘れて火曜日に振り込む場合は、すでに構造は壊されている。それを許容するかどうかは、結局治療者と患者の話し合い(がもし必要であれば)で決まるだろう。あるいはセッションがきっちり50分で終わるのではなく、10秒ないし20秒超過しても許容範囲としている場合には、すでにそれが柔構造であることを示している。

 私がこの柔構造について論じるのは、精神分析的な構造などで、患者がそれを少しでも破ると鬼の首を取ったようになる治療者が散見されたからである。構造を破ろうとすること=治療抵抗という見方である。これでは患者の方から構造を変えるイニシャチブを起こすことが出来なくなってしまうからだ。


2026年2月8日日曜日

バウンダリーについて 7

 ギャバードさんは精神分析の草創期におけるフロイトの弟子たちの過ちに対してその火消しに躍起となっているとし、その例を山ほど挙げているが、最後にフロイトも成人では決してなかったことを強調している。フロイトは性的な意味での境界侵犯こそなかったが、それ以外の境界侵犯についてはそれをいくつか行っていたということが知られる。一つよく知られるのは娘のアンナに対する分析を行ったことであるが、アンナも自分のことをケースとして報告して分析家となったという意味では決して単なる犠牲者であったわけでもない。事実彼女は自分が父親に報告した夢が無断で使用されたことについて不満であったと言われる。しかし最近(と言っても35年も前のことになるが)になって明らかになったスキャンダルの方が強烈だ。私がこのブログでちょうど10年前に書いたもの(2015年12月31日)を再録しよう。

[このいわば「フロイトスキャンダル」とでもいうべき問題は]私がメニンガー・クリニックで精神分析のトレーニングを受けている頃に明らかになったものであり、1990年の3月にそれが公表された新聞(New York Times, 1990316日付) のコピーをスタッフは競って読んでいたのを思い出す。
これはフロイトがある患者に対して行った治療に関する新たな史料が発見されたことに起因しているが、そのあらましを記してみよう(Edmunds, 1988)1920年代にホレイス・フリンクというアメリカの精神科医が、自分の精神の病の治療をかねてウィーンでフロイトの分析を受けた。フリンクは当時自分の患者である既婚女性アンジェリカ・ビジューと関係を持ってしまっていた。(実は精神分析の草創期は、そしてそれ以後も、分析家が患者と関係を持ってしまうことは、ありふれた出来事であり、それをしなかったフロイトがむしろ例外的に見えてしまうという事情がある。)

この分析治療が問題だったのは、こともあろうにフロイトはフリンクに、彼自身も妻と離婚して、アンジェリカも夫と別れさせた上で二人が結婚するように勧めたということだからだ。つまり患者と関係を持ってしまっている自分の患者に、それを制止するどころか、それをさらに教唆したということだが、そこにはある金銭的な事情がからんでいたらしいというのが、この一連の話のポイントである。そこにはアンジェリカが銀行の跡取りである大資産家であったということが関係していた。フロイトはフリンクに、「あなたは潜在的な同性愛者であり、しかもそれが顕在する恐れがあり、それを防ぐためにはアンジェリカと結婚する」必要があると説いたという。そしてフロイトは、「あなたが自分の潜在的な同性愛に気がつかないということは、私を金持ちにしたいという願望に気がつかないことと同じだ。」と言い、アンジェリカとの結婚による資産を精神分析に寄付することを迫ったというのだ。しかし二人の結婚はそれぞれのもとの配偶者の人生を狂わせ、フリンク自身も精神病を顕在化させ、それほど犠牲を払った結婚はすぐに破局を迎え、フリンクはその後非業の死を遂げることになる。アンジェリカの夫はフロイトを告発する文章を新聞に出そうとするが、結局はその機会のないままに病死をしてしまう。経緯から見てフロイトが彼らの人生を破壊してしまったといっても過言ではなさそうである。

以上の事実は、フリンクの娘の調査により明らかになったという。そこで見つかったフロイトからフリンクへの手紙が何よりもの証拠になったのである。非常に筆まめなフロイトがみずから招いた不幸とも取れようが、もちろんフリンクをはじめとしてこの一連の悲劇に巻き込まれた人々が最大の被害者であることは言うまでもない。

このような経緯を見る限り、いわゆる「フロイト神話」は崩れる一方にあるとしても無理ないであろう。1980年以降、公にされる資料や行われる研究はほとんどが、フロイトが理想的な治療者とはいかに異なっていたかについて明らかにする。なぜこのようなことが生じるのだろう? 私たちはそれでもフロイトを「信じる」べきだろうか?

ただしこの種の疑問は的外れなのであろう。なぜならその背景にあるのは、私たちの持つ、過度の理想化に走りやすい傾向だからだ。もとよりフロイトは高潔で公平無私の人間などではなかった。特別高い倫理観を備えていたとも言い難いところがある。冒頭で述べたとおり、フロイトを理想化し、その人間としての偉大さを強調しようとする限りは、それを否定するような材料はこれからでも続々と出てくる可能性もある。またこれは後に述べることだが、フロイトの人間性についてその完璧さを願いつつ資料に当たっても、結局はその倫理性に関してはむしろ俗人に近い印象を受ける。ではフロイトの何がすごかったのか?彼の真価はどこら辺にあったのだろう?


バウンダリーについて 1

  「大人の事情」は続く。突然「バウンダリー(境界)の歴史」についての論文を書くことになった。せっかく書評5本が終わったのになあ。しかし悪くないテーマである。

 私はバウンダリーについての専門家では全くないが(というか、そういう人はいるのだろうか。「境界評論家」とか、聞いたことないなあ)、最近この件が問題になっているのはよくわかる。私たちの周りで常に起きている境界侵犯の問題である。これはトラウマの文脈でも顕著であり、重要なテーマであることは言うまでもない。ではその歴史とは何か。一言でいえば、昔はバウンダリーは今よりはるかにあいまいだったのだ。あってなきがごとし。特に我が国はそうか。何しろ日本家屋は障子と襖で仕切られ、しばしばそれは開け放たれていたのだ。プライバシーはあってなきがごとし。

 それでも昔から境界の問題が確実に存在したのは、たとえば土地の境い目だろう。人は自分のテリトリーを必要とする。いわゆる「縄張り」というわけだが、これは動物のレベルでももちろん存在する。私はネーチャー系の番組が好きだが、コブダイが自分のテリトリーである岩礁を見回り、侵入者を厳しくチェックするのを見た。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。自分の利益に関わる境界は意識されやすく、個体(個人)が成立した時からすぐに線が引かれるのだ。

 そのように考えたら境界の基本はオリジンはパーソナルスペースという事になるだろうか。新幹線で京大に通っていた頃のことを思い出す。自由席の隣の人の間のひじ掛けは、そこにどちらが肘を掛けるかをめぐって結構ナーバスになった。

 いわばパーソナルスペースとしての境界は侵害されたらすぐわかるが、それに比べて、身分、人種、関係性に関わる境界はかなりあいまいな部分を含む。それは場合によっては交差していることで複雑な問題を醸す。

 例えば精神科の職場で職場の上司が、少し遅れて精神分析のトレーニングを開始すると、職場の部下が自分のスーパーバイザーになったりする。その場合二人がそれらの役割による縛りを押し切って異性関係に入ろうとすると、かなりややこしいことが生じる。
 将棋の世界などどうなるのか?藤井六冠はどんなに年上の先輩棋士との対局でも上座に座るだろう。でも忘年会などでの席順はどうなっているのだろうか?敬語の使い方は?

 というわけでバウンダリーについての論文はこのようにまったくまとまりのない書き散らしから始まるが、私は実はこの段階が結構好きである。一人でブレインストーミングをしている感じである。


2026年2月7日土曜日

レマ「体は語る」書評 ②

 レマの書評の後半部分

 以下に本書のいくつかの章についての私なりの理解や考えを述べておきたい。

序章 身体が語るときでは、 著者レマの精神分析家としてのスタンスが語られる。そして私たちの身体の在り方が、さかのぼって両親との体験に根差している、というのがレマの主張の主要部分である。それはフロイトの「自我は真っ先に身体自我である」という言葉に反映されているというわけだ。ただしレマはガレーゼやイヤコボーニの研究によるミラーニューロンの研究やメンタライゼーションの概念をも広く援用している。



<以下略>

2026年2月6日金曜日

レマ「体は語る」書評 ①

 こちらもなんとか完成にこぎつけた。実に苦労した書評である。

 美しい装丁の施された本書を手に取り、しばらくページをめくっていくうちに、私はこれは新たなるヒステリー論ではないかと思った。それにしては本書にヒステリーという言葉が一向に出てこないのはなぜだろうと思いつつ、本書を読み進めることとなった。しかし本書はかなり難解である。内容がなかなか入ってこないのは私に原因があるのではないかと思いつつ読み直すうちに、私はようやく本書の持つ意義や重みを実感できるようになった。
 私の文章は「書評」という形をとるものの、そもそも本書の内容に評価を下すような力は私にはない。それに本書の冒頭には、ドナルド・キャンベルによる秀逸な紹介文があり、本書の内容の要約を知る上ではそれで十分である。以下は本書により触発された考えをいくつか述べさせてもらうことにする。

(以下略)

2026年2月5日木曜日

「ジャネの再発見」書評 だいたい完成版

 本書「トラウマと解離の文脈 ピエール・ジャネの再発見」は、原題が Rediscovering Pierre Janet である。つまり訳書の副題に対応しているのだ。表紙カバーではこちらの部分は小さく書かれていて、一見解離とトラウマに関する専門書と見間違いやすいが、まさしくピエール・ジャネその人についての解説書である。邦訳書の題としてこちらが選ばれなかった理由は分からないが、おそらくジャネの名が日本人の読者にはまだなじみが深くないという懸念かもしれない。

 それはともかく、本書は日本の精神医学や臨床心理学において極めて大きな意味を持っている。解離やトラウマについての専門書という以外にも、特に精神分析とかかわりを持つ読者にとっても極めて重要な情報を含んでいるのだ。筆頭訳者である若山氏が序文で雄弁に述べているように、精神分析の隆盛は、現実のトラウマの存在の軽視と表裏一体の関係にあった。(8)実はフロイト自身が幼少時の性的トラウマをヒステリーの病因として特定し、「ナイル川の水源の発見」になぞらえたことがその証左である。いったいフロイトがなぜそれを途中で断念したかは謎であるものの、本書はその問題にも果敢に挑んでいる。

 本書の驚くべきところは、ジャネが現代の論客であるアラン・ショアやスティーブン・ポージス、フィリップ・ブロンバーグらの議論にまでつながって論じられていることで、いわばジャネの理論が刷新されていることだ。ジャネのいわゆる現実機能 fonction du reel とメンタライゼーションは近いといい(129)、それは結局は最近言われる解離における右脳の機能低下、ショアによれば右脳の高位と低位の統合の失敗を反映しているという。

紙面の都合で詳しい解説はできないが、私が考える本書の読みどころだけでもかいつまんで紹介しよう。

「はじめに」では1970年のエランベルジェの「無意識の発見」がジャネの理論を知らしめる上で極めて大きな意味を持っていたこと、そして本書が半世紀を記念して出版されたものであるということが述べられる。

第2章「意識から下意識へ」はジャネのトラウマと解離の理論を改めてわかり易く詳述する。私はこの章を読んでジャネの「心的緊張」という概念が少し飲み込めた気がした。

第3章「ジャネとフロイト」では、フロイトにとってジャネがいわば仮想敵であったことが述べられている。フロイトは敵を見つけることで奮起をしていたというところがあり、それをフロイト自身が明言していたというのだ。

第4章「ジャネとユング」

ユングはフロイトと精神分析を離れてからは、年上であるジャネから大きな影響を受けたという内容が書かれている。この話も興味深い。

第6章「ジャネからフェレンチ、ブロンバーグへ」は、ジャネの理論がいかに現代の関係精神分析に繋がっているかを改めて教えてくれる。ジャネは精神分析の文脈でも偉大なる先駆者だったのだ。

「エピローグ DSMと解離」ではジャネが現代によみがえり、DSMについての論評をしているという体裁をとっている。ところどころにフランス語も出てくるのが面白い。

 ざっとかいつまんで述べたが、本書は精神分析の学徒にとっても、解離やトラウマの臨床家にとっても極めて示唆に富んだ書と言える。ぜひご一読をお薦めする。


2026年2月4日水曜日

ジャネ書評 ⑥

 第13章 解離性障害の病因、病態、治療に関するジャネの見解

本章では解離性障害の病因に関して、ジャネが極めて詳細な論述を行っていることがわかる。彼はまさに医学哲学者 medicin-philosophes の呼び名にふさわしくスティグマ、固着観念、トラウマ、といった概念を駆使した彼の理論が詳細に述べられる。私たちが単純に「トラウマにより解離が生じる」と言って済ましかねないのに比べ、ジャネははるかに詳細な理論化をおこなっていることがわかる。例えばベルグソンにしてもサルトルにしても、デリダにしてもフランス人の書くものは極めて決め細かく、それだけに難解である。

(253)あらためて、ジャネの言う「スティグマ」とは基本障害であり、「固着観念」は付加的な障害であるという。これは過去の現在化(ゲープサッテルのいう”presentification of the past”)、変化に抵抗を示す、という意味ではフロイトの「抵抗」に近いという。スティグマについては、第1章に詳しく、「意識野の狭窄、下意識現象の存在、感覚麻痺、健忘」などを含むという。そしてそれを要約したものが「意識野の後退」であるという。


エピローグ DSMと解離

ジャネが現代によみがえり、DSMについての論評をしているという体裁をとっている。ところどころにフランス語も出てくる。言われていることはとてももっともな理論。PTSDと解離の中途半端な分類はよくないという主張。PTSDの解離タイプというが、そこで離人現実感喪失症だけを特別扱いすること、そしてFBのみを解離症状とするなどがとても中途半端である。そう、ジャネは一世紀も前にかなり包括的なトラウマ―解離理論を打ち立てていたのである。


2026年2月3日火曜日

アランショアの書評 (ほぼ完成版)

アラン・ショア著小林隆児訳「精神療法という技法の科学」(遠見書房、2025年)

 壮大な本である。一言で表現するならば、「神経科学や愛着理論、精神分析理論などを縦横無尽に援用しつつ新しいパラダイムに基づいた精神療法の在り方を論じたアランショアの書」とでも言えるだろうか。

 ただネットや店頭でこの大著を目にした事情通の読者はこう考えるであろう。「確かにアランショアという名前は最近よく聞く気がする。訳者である小林先生は確かショアの入門書を書いた方だろう。それに「右脳精神療法」とあともう一冊、薄い本が翻訳されている。まずそちらを読もうか。確かに小林先生の労作以外にもう一冊が翻訳されていて、それらを置いて本書を購入するのは屋上屋を架すという印象を与えるかもしれない。しかし本書は極めて充実した内容で、入門書を読みもう少し内容を詳しく知りたい人間にはうってつけである。そしてそれは私自身の体験でもあった。

 本書「精神療法という技法の科学」The sciene of the Art of Psychotherapy (2012)はショアがこれまで出した6冊の著作のうち4番目に相当し、彼が考える精神療法(感情調整療法、のちに右脳精神療法という呼び名に改められる)について詳細に論じたものである。同じ小林隆児氏の手による「右脳精神療法」(2022年に発刊)と共にショアの臨床理論を知るためには非常に重要な書である。

 翻訳者の小林隆児氏は、2022年にショアの最新作「右脳精神療法」を訳出した後、その理解を深めるためにも、ショアの「感情調整三部作」の次の第4作目である本書を日本の読者に提供することが必要であると感じたとのことである。

 本書は574ページとかなり分厚いが、英語の原書でも458ページというボリュームである。それだけに本訳書の出版先を探すことにも小林氏は難渋したというが(訳者あとがき)、本書は内容も極めて緻密でショアの驚くべき生産性(それは本書を訳した小林氏にも通じることかもしれないが)を感じさせる。本書を通読した読者はそこに盛られている情報量に嘆息するのではないか。少なくとも私はそうであった。最終章のマッキントッシュとの対話にも表れている通り、ショアの頭には、莫大な情報量に基づく理論体系が渦巻いているようだ。それは最新の脳科学が示す生後一年の驚くべき脳の感受性とその脆弱性への理解を基盤とした愛着理論に根差した養育や臨床の在り方についての知識や思考である。この驚くべき頭脳が生み出し続ける著作は各方面に大きな影響力を及ぼしつつ、現代的な人間理解や精神病理に関する一つのパラダイムシフトを提案しつつある。私たちはこの「アメリカのボウルビイ」の異名を持つという(503)ショアの偉大な精神に非常に多くを負っているのである。精神療法が目指す一つの方向性を知りたい方にはぜひご一読をお薦めする。