こうやって考えていくと、ますますこのテーマは分析家のナルシシズムの問題に行きつくのだが、それはさておき。 ギャバ―ドさんが言っていた、「精神分析の目標は患者が治療の外部で出会う人との関係を理解することである。」という言葉に私は触発された。これで昨日私が書いた内容についても、少し自信がなくなってきたぞ。 思考実験のために具体例を考える。あるクライエントAさんが他人を信用できないとする。「結局人は自分を搾取するのだ」と思え、その例外に出会ったことがないのだ。そのような疑念をそもそも親に対しても持っていたとしよう。つまりこの人間不信は幼少時に根差している、いわば筋金入りのものというわけだ。 さてそのクライエントが職場で、ある程度は信頼できる上司に出会った。そしてその人が信頼に足る人かどうかについて知りたいと思うようになった。そのAさんは同時に精神療法を受けている。もちろんその精神療法家は信頼に足るかどうかも、Aさんにとっては大きなテーマだとしよう。 ここで考える。Aさんがその上司が本当に信用に足ると思える体験と、その療法家を信用出来るようになる体験とどちらが永続性があり、そのクライエントにとって変容的 mutative と言えるだろうか? ストレイチーならきっと次の様に考えたであろう。「もちろんその療法家との転移を解決することが根本的である」と。その具体的な手法としては here and now での転移の解釈を行うことである、というだろう。それがどのようにして可能かと言えば、週4回以上の濃厚な「家庭」(藤山、2012)の雰囲気で転移関係が深まることが前提であり、患者の無意識レベルでの動きが解釈により意識化されるのだ、ということになる。そしてその無意識レベルまで到達できることで真の「変容」が生まれるのだが、それを可能にするのは精神分析以外にはない、ということになるだろう。 でももしそうなったとしても、その分析家は治療構造は決して崩さないであろうし、長くても数年で治療は終結し、両者の直接的な接触はそれ以降はなくなる。(と言うより終結後の再会は基本的にはご法度である。) ここで重要な点は精神分析により「変容」が起きれば、それは治療外の人間関係にも変化を及ぼすであろうと、精神分析理論からは考えられるということだ。少なくとも理論的にはそうだ。 他方職場でのAさんと上司との関係について考える。その上司はAさんと家族の一員のようにして接し、それなりの「持ち出し」をするだろう。その上司の息子はかつて事故で不慮の死を遂げたが、おそらくその亡き息子に対する思いをAさんに投影している可能性がある、ということにしよう。つまりその上司のAさんの思いにこたえようとする本気度には、それなりの根拠があるのだ。そのぐらいでないと、A氏の筋金入りの人間不信を変えるには至らないだろう。その上司はその意味ではかなり中立性を欠いて、Aさんに膨大な「持ち出し」を行う可能性がある。しかしもちろんその上司はAさんとの治療関係にあるわけではないので、中立性などどうでもいいことだ。そしてAさんとはそれ以後も長い付き合いとなる可能性がある。よほどの事情がない限り、簡単に「終結」などすることは考えられない。 ただしその上司は搾取的ではないから、Aさんがやがて自分の元を離れて新しい人生を歩もうとするときには、それを支持してくれるだろう。さもないと、その時までに成立していたであろう信頼関係は崩れてしまう可能性があるからだ。
2025年3月9日日曜日
2025年3月8日土曜日
関係論とサイコセラピー 19
その後ギャバ―ド先生の「精神力動的精神療法」(岩崎学術出版社、2012年)を読み直す。この本には「ヒアアンドナウ」についての言及があるが、p80,81あたりにはかなりハッキリ彼自身の考えが書いてある。わかりやすく言うと、次のようなことだ。 「転移解釈が理想化される傾向にあるが、恥ずかしくてばつが悪いので、それを話したがらない患者もいる。しかし目標は患者が治療の外部で出会う人との関係を理解することである。転移解釈はその手段に過ぎない。」 つまりは最重要課題は、現実での関係性、というわけだ。これは精神分析のオーソリティが聞いても決して良い気持ちはしないだろう。私はメニンガー時代からのギャバ―ド先生をよく知っているが、本当に本音で語ることのできる分析家、というより人間だ。彼の書いた分析に関する文章で違和感を持ったことは覚えている限りは一度もない。むしろ「ここまで言ってくれるのか!!」と感じる事ばかりである。
この問題についてどこかで私は次のようなことを書いた記憶がある。
「大抵の分析家は、自分のことをヒアアンドナウで扱うことに難しさを感じるものだ。誰だって自分の感情を扱うのはもっともストレスフルだからだ。分析家にとっては、患者が会社の上司に対して持っている怒りを扱うことは比較的たやすい。ところが分析家が自分に向けられた怒りを同様の平常心で扱うことは非常に難しい。ある意味で分析家はいくらトレーニングを積んでも、やはり治療内よりは治療外での患者の感情についてこそ、よりよく扱えるものだ。
勿論それを扱えるようになるためには自分自身の逆転移を十分に分析する必要があり、そのために教育分析を受けるのだ、とフロイトは考えたのだろう。しかしそれでも理想と現実にはギャップがあるのだ。
ただし間違ってほしくないのは、ヒアアンドナウはとてもパワフルな治療の機会であるということだ。治療者自身が患者に向けられた様々な感情を冷静に扱うことが出来たら、患者とその治療者との信頼関係はより深まる。そして私は心からそのような治療者になりたいのだ。
そう、私の中で「ヒアアンドナウ」神話は実は生きているのである。しかし同時に思うのは、教育分析を受けることでそれを十分に扱える保証はないということであり、教育分析を受けなくても自分自身の感情に向き合える人はたくさんいるということである。
2025年3月7日金曜日
関係論とサイコセラピー 18
POST(2023)について読んでいくと、「週1回」をめぐる議論と表裏一体という気がする。山崎氏による序章では、POSTの概念(というよりは用語)が生まれる背景が分かりやすく書かれている。まず分析らしさとしては、フロイトの1914年の言葉を引用する。「転移と抵抗を扱う実践はすべて精神分析を自称する権利がある」。これ自体は頼もしい言葉だ。週1回でもOKなのではないか、という気持ちを起こさせる。しかし週4回という高頻度だから治療者患者間の関係性を扱えるのであり、そこでは濃厚な「家庭」(藤山、2012)の雰囲気が濃い。それに比べて週一回では「関係性を扱うことが難しい(というより正確には、扱おうとしても無理をして扱う形になりがちである)、ひいては『精神分析的にするのが難しい』ということになります。」と書かれており、やはり同じロジックに出会う。そして山崎氏は本音を吐露する。「精神分析は、単なる治療ではない。治療以上のものである」という提言は何かかっこいい、という。実は私も正直その通りだと思う。精神分析の持つ「本物」感。そしてそれは常人(治療者も患者も)には容易に通過できないような関門を通ってこそ成し遂げられる。私も分析家になることを一つの目標として渡米した時はそう考えていた。 しかし、と山崎氏は言う。「それは患者が求めているものなのか?(それは必ずしも精神分析ではないだろう。)」ここら辺の理屈は至極真っ当である。 真っ当と言えば、15ページにある山崎氏の主張もそうだ。「『コントロールしようとすることはよくない』という精神分析的価値観とユーザーの適応やQOLを向上させようとする志向性を持つPOSTの実践がバッティングするのです。」(p15)要するに精神分析は患者に治療の方向性を任せるという形をとりつつ、結局は分析家の主導で事を進めるのではないか、ということだ。そうなんだよねえ。 p17に出てくる「精神分析主義」と「心理臨床主義」という対立概念も面白い(p17)。そして山崎氏は、自分は精神分析に肩入れをする一方では、精神分析を「絶滅危惧種」とも呼ぶ。これは「父親」に対するアンビバレンスそのものである。そして20ページ目でまたもや本音。「[テレビドラマの]俳優が歌舞伎のエッセンス日をごろの仕事に生かすことは不可能ではないはずです。」
これで思い出したのが、最近のすし職人の話。シャリを握るだけで何年もの修業が必要であるはずなのに、近頃は数週間ですし職人を育成するということが起きているらしい。そして店を出した寿司屋がそれなりに人気だったりする・・・。 おっと、この比喩は少し危険すぎるか。しかし精神分析の草創期にはかなり短期間のフロイトのかかわりだけで分析家になった人もいたのも確かである。 山崎氏の、「訓練分析を受けていないと転移・逆転移を扱うのが難しい」という考えについては、少し疑問を感じる。これもケースバイケースだからだ。「それを言ったら肝心のフロイトは分析を受けていたの?」となる。ただし私はすべての医療者は、自分が受ける立場を体験することはとてもいいと思う。出来れば体験入院くらいはしたいものだ。(昔の米国の精神科医はそうしていたといううわさを聞いた。) 山崎氏の精神分析の民主的ではない(権威主義的な)側面とPOSTの民主的な側面との違いというのも面白い。
2025年3月6日木曜日
関係論とサイコセラピー 17
POSTにおける解釈の意味について考えよう。それが転移を扱うか否かの問題はとても重要なのだ。POSTにおいては「『無意識の意識化』や内省の促進を期待するのではなく」、「『前意識の意識化』によって自分自身や自分のパターンの認識が広がり、結果として他のPOST技法と同じく発達促進的に作用する」事を目指すという(p178)。そしてここでPOSTにおいて用いる解釈について、「心に留め置く」解釈と「伝える」解釈を区別する。 そしてこの辺は少しややっこしいが、「心に留め置く解釈」には「今、ここでの転移解釈」が、「伝える解釈」には一般的な解釈や転移外解釈が含まれる。この伝えるか伝えないかに関しては、Roth(2017)のレベル1~レベル4の転移解釈のレベルの考えを援用している。1、とは転移外解釈、2は非特異的転移解釈、3は今、ここでの特異的解釈、4は逆転移を含みこんだ理解に基づく3,ということになる。このレベル1→4とは結局どれくらい深いか、どれくらい無意識レベルに踏み込んでいるか、ということになる。そしてPOSTが、1,2についてのみ「伝え」、3,4は「心に留め置く」ということは、1,2は前意識レベル、3,4は無意識レベルということになる。 ここで少し理解しずらいのは、「今、ここ」の解釈は3に属するからPOSTでは扱わない、という点である。たとえば「だれかにそばにいてほしいと思っていたのですね」は2,だが「ここで私にもそばにいてほしいと思っていたのですね」だと3になり、それは伝えない、ということになる。これは少し画一的すぎるという考え方も成り立つであろう。今ここで、ということをGill が言い出した時、それはもっとも切実かつ情緒的な意味合いを持つものとして論じられたはずだ。それをPOSTでは用いないというのは少しもったいない気もするのである。
2025年3月5日水曜日
関係論とサイコセラピー 16
さて順番が違うと思うが、昨今話題になった著書POSTについて改めてひも解いてみよう。POST(精神分析的サポーティブセラピー、岩倉他著、金剛出版、2023年)の内容を見ると、明確にこれを「分析的でない』とする方針を打ち出していることは意外である。POSTは以下のように定義されている(p4)。
①目標は患者の適応状態の改善である。
②無意識については扱わず(言及せず),意識を大切にする。
③転移一逆転移についての理解は治療者の心の中に留め置く。
④見立てや理解は常に精神分析理論に基づく。
⑤患者の自我に注目し,自我を支持する,つまり退行抑止的に関わる。
⑥自我にかかっている負担軽減を目的として,必要に応じ環境調整やマネジメント作業を行う。 ⑦自我を支え,補強することを目的として,励まし,助言などの直接的な介入も用いる。
⑧転移を扱わないため,治療構造や頻度,終結についての扱いは柔軟で多様である。
ウーン、転移をここまで切り捨てているとは思わなかった。これでも「精神分析的」サポーティブセラピーと言えるのだろうか。転移、逆転移は、治療者は心には思っても扱わない(言及しない)とある。かなりあっさりと転移を扱うことをあきらめた感がある。このことは改めて論じなくてはならないが、ここにはある古典的な前提がある。
「治療者は患者の無意識を(患者より先に)知っている。しかしいきなりそれを言葉にされても患者にとっては侵入的と感じたり、理解不能である。本当は患者の無意識にまで踏み込んで、変容を惹起したいところだが、それはPOSTの目的には反する」ということになる。
これは大変だ。どこから話していったらいいのだろう?
まずはたとえ話から。患者は治療者を父親のように感じて恐れているが、それに気が付いていない(無意識的である)としよう。治療者はそれをどうやって知ることが出来るだろうか、ということが問題だが、まあ知ることが出来たとする(というよりそれが事実であったと仮定する)。治療のプロセスでいろいろ紆余曲折があったとして、患者は最終的にヒアアンドナウの解釈により「ああ、先生のことを父親のように恐れていたんだ」と理解し、合点がいったとする。これは週4回でも週1回でも望ましいプロセスと言える。そしてそのようなプロセスは週4回では週1回より起こりやすいかもしれないが、これもケースバイケースである。頻度が低くても起きる可能性はある。 つまりヒアアンドナウによる解釈が時宜を得たものかどうかは、治療の形式だけでは一概に決められないのだ。何しろ週4回でも一向に深まらない場合もあるのだから。だからPOSTと言えども最初から転移を扱わないと決める必要はないのではないか。治療はあくまでも文脈依存的なのだ。さもないとPOSTも転移もかわいそうだ。そしてそれをどの程度扱うかどうかは治療の進展具合により判断していくものだろう。週4回でも週1回でも、時期尚早なことはしない。これは当然のことである。
2025年3月4日火曜日
関係論とサイコセラピー 15
この文脈でヘンリー・ピンスカーの「サポーティブ・サイコセラピー入門」(秋田、池田、重宗訳、岩崎学術出版社,1997) を久しぶりにひも解いてみる。ここにはさぞかし「週4回でないなら、転移はあまり扱わない」ということが強調されているかと思いきや、案外そうでもない。まずピンスカーの言うサポーティブセラピー(支持療法)のエッセンスは私も承知している。これは私が好きなものだ。 「サポーティブ・セラピーは、症状を改善し、セルフ・エスティームや自我機能、適応スキルを維持、回復あるいは改善させるための直接的な方法を用いる。」 そしてそう言う一方で、転移ということについて論じている個所はとても多いとは言えない。つまりこういうことだ。サポーティブ・セラピーにとっては、もう転移云々はあまり関心がないのである。彼らは治療は患者のためになればいい、と思っている。(そして確かに治療は第一にそうあるべきである)。そこに転移を通しての自己理解,などのことは、そもそも優先順位から外れているようなのだ。エビデンスに基づく治療においては、患者が望むのは「自己が変容すること」とはかなり別のことという理解は、もう前提となっているのであろう。 ただしピンスカーの本ではいわゆる表出的、と支持的、という区別に関して論じてはいる。というのも「支持的」という表現の対概念は「表出的 expressive」 であり、表出的、とはつまり分析的(ブンセキ的、と言ってもいい)、ということなのだ。つまり解釈を含んだ本来の分析的な手法との関係については論じていることになる。 ピンスカーの本をさらに読んでいくと、表出的とは「当初は患者の意識外にあるように見える思考や感情に注意を向ける」とある。つまり精神分析的な治療とは「転移解釈」というよりはもっと一般化して「(解釈により)無意識を扱う」と理解でき、それよりも意識レベルを扱う手法として支持的療法を定義づけているのだ。 少し言い直すとこうだ。ピンスカーの支持療法とは「週4ではなく週1だから支持的」というよりは「解釈的ではなく支持的」という意味だ。まあ支持療法では週1,2回が普通であろうが、場合によっては週4回であっても支持的でありうる、ということか。いずれにせよピンスカーの本では「頻度が低いから分析的にやらない(やれない)」という文脈がどうしても薄いのだ。我が国で起きている週4だから転移解釈OK、それ以下なら転移解釈は無理、という議論がどうしても明確には見えてこない。むしろ支持的にやるのが患者の(少なくとも意識レベルの)望みにかない、それを行うのに週4回セッションを行う必要は必ずしもない(それに患者の側もそこまでの金銭的、時間的負担は通常は望まない)というニュアンスか。
2025年3月3日月曜日
関係論とサイコセラピー 14
そのほかの立場はどうだろうか?グレン・ギャバ―ド 先生の「精神力動的精神療法」(池田暁史訳、岩崎学術出版社)は、転移についてかなりの個所で述べているが、あまり精神療法において転移を扱うことの難しさについては論じていない。彼は現代における長期精神力動的精神療法を以下のように定義づける。「治療者―患者間の相互作用に細心の注意を払う治療で、二人の場への治療者の寄与を巧みに理解し、そのうえでタイミングを慎重に見計らって転移解釈や抵抗解釈を行うもの」(p3)。「転移解釈」も「抵抗解釈」とならんですんなりと入って来る。彼が述べる力動的精神療法の基本原則(p4)にも「患者の治療者に対する転移が主な理解の源となる」と書いてあるが、その後ろに「治療過程に対する患者の抵抗が治療の主な焦点になる。」ともある。どうやら転移解釈に至らない場合には患者の抵抗を扱うべし、それでいいのだ、ということを言わんとしているようだ。「転移解釈」は錦の御旗であり、分析的である以上それを掲げないわけにはいかないが、それのみの達成のために一直線に行くべきではないということだ。 ギャバ―ド先生は転移の解釈については次のような警句を発している。「原則としてセラピストは転移の解釈を患者の気づきに接近するまで先延ばしにするべきだ。」「セラピストによって与えられる解釈はめったに劇的な治癒をもたらさない。」 ウーン、海外のサイコセラピーの本を読んでも、週4だから転移を扱い、週1だからそれは無理、ということがなかなか出てこないのだ。その代わりに出てくるのが、ギャバ―ド先生のような慎重論。「転移は機が熟するまでは無理に解釈をしないように」。 実は週4回でも転移がなかなか生じないことがあるし、週1でもしっかり生じることがある。問題は量より質、という感じか。そして転移が生じなくても、それに対する抵抗を扱えばいい、というロジックである。ここら辺でよいのではないか、と言う気もする。
2025年3月2日日曜日
久しぶりの英語論文
臨床をすると同時に研究に携わっている者には、本や論文の出版は記念すべきことである。特に論文はそれがアカデミックな成果の証という意味では特別の意味を持っている。「ちゃんとまじめに勉強もしている」という風に自分で思いたいからだろう。しかし論文掲載までの道は遠い。とりわけそれが英語の論文であれば。
ということで私も英語論文で掲載されたものは数えるほどしかない。書いてはボツ、直してもボツ、最後はあきらめる、ということの繰り返し。めでたく受理されて掲載、というのはまれな出来事だ。しかし先日そのなかなか起きないことが起きて、英語の論文(といっても短い症例報告だが)が掲載された。
最近の英語論文は open access 流行りである。これは誰でもタダでダウンロードできるシステムのことである。そのかわり著者は膨大な掲載料を取られる。いわゆるハゲタカジャーナル(大した査読もなく、営利目的でオンラインで著者に高額をチャージして多くの論文を掲載してしまうジャーナル)ではなくても、それを支払わないと掲載しません、と編集部に迫られ、著者としては泣く泣くその掲載料を払うのだ。Nature や Science のような高名な雑誌に掲載されるために1000ドルあまりを著者が負担することになる。
ということで私も短いこの論文の掲載に1000ドル以上支払うことになった。うまくできたシステムであるが、どの程度営利目的なのかよくわからない。