その後ギャバ―ド先生の「精神力動的精神療法」(岩崎学術出版社、2012年)を読み直す。この本には「ヒアアンドナウ」についての言及があるが、p80,81あたりにはかなりハッキリ彼自身の考えが書いてある。わかりやすく言うと、次のようなことだ。 「転移解釈が理想化される傾向にあるが、恥ずかしくてばつが悪いので、それを話したがらない患者もいる。しかし目標は患者が治療の外部で出会う人との関係を理解することである。転移解釈はその手段に過ぎない。」 つまりは最重要課題は、現実での関係性、というわけだ。これは精神分析のオーソリティが聞いても決して良い気持ちはしないだろう。私はメニンガー時代からのギャバ―ド先生をよく知っているが、本当に本音で語ることのできる分析家、というより人間だ。彼の書いた分析に関する文章で違和感を持ったことは覚えている限りは一度もない。むしろ「ここまで言ってくれるのか!!」と感じる事ばかりである。
この問題についてどこかで私は次のようなことを書いた記憶がある。
「大抵の分析家は、自分のことをヒアアンドナウで扱うことに難しさを感じるものだ。誰だって自分の感情を扱うのはもっともストレスフルだからだ。分析家にとっては、患者が会社の上司に対して持っている怒りを扱うことは比較的たやすい。ところが分析家が自分に向けられた怒りを同様の平常心で扱うことは非常に難しい。ある意味で分析家はいくらトレーニングを積んでも、やはり治療内よりは治療外での患者の感情についてこそ、よりよく扱えるものだ。
勿論それを扱えるようになるためには自分自身の逆転移を十分に分析する必要があり、そのために教育分析を受けるのだ、とフロイトは考えたのだろう。しかしそれでも理想と現実にはギャップがあるのだ。
ただし間違ってほしくないのは、ヒアアンドナウはとてもパワフルな治療の機会であるということだ。治療者自身が患者に向けられた様々な感情を冷静に扱うことが出来たら、患者とその治療者との信頼関係はより深まる。そして私は心からそのような治療者になりたいのだ。
そう、私の中で「ヒアアンドナウ」神話は実は生きているのである。しかし同時に思うのは、教育分析を受けることでそれを十分に扱える保証はないということであり、教育分析を受けなくても自分自身の感情に向き合える人はたくさんいるということである。