2025年6月24日火曜日

週一回 その15

 読み直したら、かなりいい加減なことを書いていた部分。

 藤山氏により先鞭がつけられた「週一回」の議論に、さらなる弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編、2017)という著書である。この本では藤山氏に加えて、北山修氏、高野晶氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導するベテランの論者たちの考察が提出され、それらを含めて「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。この中で高野氏、岡田氏の論文に言及しておく必要があるだろう。

北山修、高野晶編(2017)週一回サイコセラピー序説. 創元社.
岡田暁宜(2017)週一回の精神分析的精神療法におけるリズム性について. 北山、高野編(2017)第1章(45-60).
岡田暁宜(2024)週一回におけるヒアアンドナウの解釈について 高野、山崎編(2024)第2章(31-44)
 高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その中で「週一回」は精神分析と似たところがある、という立場を高野は「近似仮説」と呼んだ(高野、2017)。そして日本の精神分析会はこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきであるとする。またこの仮説が現在まで支持されたという結論は出せないとする。
 この1017年の高野の論述は抑制が効きかつ常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。すなわち高野自身もおおむねこの「近似仮説」を棄却する立場を取っているのだ。
 山崎はこの「近似仮説」という概念について、精神分析と「週一回」との違いを、平行移動できるか否か、の二者択一ではなく、「どこが似ていて、どこが似ていないか」と言う相対的な議論として提示したのであるとし、その意味では藤山の「平行移動仮説」に基づく理論を「もう一歩推し進めて抽出したものだ」とする(山崎,2024)。つまり「週一回」を否定的な文脈のみでとらえず、その独自性を模索するべきだという立場を表明しているのだ。 

もう一人、精神分析家の立場から岡田暁宜氏の論文(2017)についても取り上げたい。岡田は精神分析とは異なる「週一回」の独自性を論じる点で、高野の考え方に類似する。岡田は「[週一回とは]『日常生活や現実に基づく』という点にその真の価値があり」それは「日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業」(p.58)という。ここにはFreud のよく知られる比喩が背景にあることは言うまでもない。Freud は精神分析を純金としてたとえ、そこに示唆 suggestion 等の余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏は「フロイトの比喩は純金に銅を混ぜることを示しているが、銅に純金を混ぜることを示してはいない」(p57)とし、少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。
岡田氏はさらに2024年の論文「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」で持論を展開する。彼は「解釈は現在でも精神分析の中心的な技法である」(p35)という立場を表明したうえで、やはり「週一回」という治療設定は、「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のために転移が結実しにくいとする。そのうえで「週一回」におけるヒアアンドナウの解釈を意味あるものにするための3つの留意点について述べる。このように岡田の議論は「週一回」の現実に基づいた独自性について強調する一方では、砂金に象徴されるヒアアンドナウの転移解釈を「中心的な技法」(p.35)とみなすという点では、藤山説と重なる面を持つと言うことが出来るだろう。