2025年10月14日火曜日

家族療法の講義

 先日は某セミナーで年に一度の、家族療法に関する講義を行った。3時間(90分×2)の講義はきついが、今回は結構自分史や米国での体験を甘えの概念に絡めて話すことが出来た。あまり質問が出なくて少し焦りも感じたが、コーディネーターの中村伸一先生とのやり取りでいろいろ有意義な時間でもあった。しかし甘えの概念。考えれば考えるほど奥が深く、興味深い。

2025年10月13日月曜日

ある「自主シンポ」に参加

 一昨日は心理臨床学会の「自主シンポ」に討論者として参加した。

「心理臨床家の養成をめぐって:育てる者と育つ者の対話から」(長谷綾子先生他)

コロナ禍を経て諸学会は、学会場での対面によるものとWEBの二本立てになり、ますます様々なプログラムが開催されるようになっている。
この自主シンポで話題になった「ワークディスカッション(WD)」はイギリス生まれの新しい試みで、症例提示に応じて参加者が自由に意見を述べ、それが第三者により評価されたり、教示を受けたりということがなく、参加者は「人によりこれだけたくさんの考えが生まれるのだ」(ただ一つの正解などないのだ)という体験を持つことが期待される。これが日本の臨床心理士や公認心理師の養成機関で活用されているのであるが、これが精神分析における乳幼児観察に発しているということが興味深い。いわばWDは集団における自由連想というニュワンスを持つわけである。
ただし日本の集団の場合、なかなか参加者がお見合いをするばかりで沈黙が流れてしまうという特徴があり、それが欧米と異なるらしいということも分かった。
今回も討論者として呼ばれることで新しいことを学ぶことが出来た。




2025年10月12日日曜日

解離症の精神療法 6

  問題はこの第2段階目である。ここでは様々な教科書が異口同音に、「トラウマワーク」が述べられる。それはそうなのだが、そう簡単ではない。これが出来ないと第3段階に行けないのではないか、という気になってしまう。しかし改めて「トラウマワーク」とは何か?それがややこしく、とても奥が深い。それを短い論文でどこまで書くことが出来るであろうか。

第2段階 トラウマ記憶の直面化、ワーキングスルーと統合

安全な治療環境が整うに従い、それぞれの人格が抱えたトラウマ記憶が語られたり、トラウマ記憶のフラッシュバックが生じるということが起きやすくなる場合がある。それらのトラウマ記憶は夢によって再現されたり、日常接するメディアや映画、小説などに触発されることもある。治療者は適切な判断をもとにそれらが再外傷体験を導かないように注意しつつ、その詳細が表現されるに任せたり、必要な勇気づけを行うことで、トラウマ記憶が徐々にナラティブ記憶に改変されることを手助けすることが出来るであろう。そしてそれによりフラッシュバックの頻度が減り、特定の人格による行動化が抑えられることにつながる可能性がある。ただしトラウマ記憶を扱う際には、人格ごとにそれについての意見が分かれたり、セッションの前後で患者が不穏になる可能性を認識すべきであろう。 なおこの第2段階でトラウマを扱うことが治療者の義務のようにとらえられることで、それが患者にとっての負担になることは避けなくてはならない。トラウマを扱うということはトラウマ記憶を抱えた人格と交流するということであり、その詳細を探る事では必ずしもないことに治療者は注意すべきであろう。


2025年10月11日土曜日

解離症の精神療法 5

 しばらくほっておいたが、着々と締め切りが近づいているこの依頼原稿。実は解離性障害の各段階のところまで来て、少し止まっている。定番のように書かれている3段階説というのが、どうもそのままでは受け入れがたい。もちろん総論(建前)として正しいのはよくわかるが、あまりに教科書的なのである。とりあえず書き出してみることにする。

● 治療の各段階

以下に主としてDID の個人療法についてISSDのガイドラインに準拠した3段階をもとにのべる。


第1段階  安全性の確保、症状の安定化と軽減

治療の初期には、何よりも安全、安心な治療関係の成立が大切である。最初は異なる人格の目まぐるしい入れ替わりが生じている可能性がある。この段階においては、患者に安全な環境を提供しつつ、表現の機会を求めている人格にはそれを提供し、それらの人格をひとまず落ち着かせることも必要となろう。治療者は患者とともに、別の人格により表現されたものを互いにどこまで共有することが出来るかについて模索する。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめたり、生活史年表を作成したりするという試みが有効となる。治療は週に一度、ないしは二週に一度の頻度が求められよう。なおこの段階では過去のトラウマについて扱うことにはこの段階では慎重であるべきであろう。ただしそれがフラッシュバックの形で体験されている際にはその症状の軽減のための方策は望まれる。


2025年10月10日金曜日

遊戯療法 文字化 9

 <承前>

つまりうまいフェイントは、自分の動きをコントロールでき、また相手の反応を正確に予測出来ることにより可能になる。微調整が出来るからうまくフェイントを成功させることが出来るわけである。こうして殴り合いごっこは、フェイントの応酬、磨き合いを行うことでお互いに自分自身と相手の予想の限界を確かめつつ行われ、それにより楽しく継続される。
結局じゃれ合いは楽しく予測誤差最小化のスキルを磨く絶好の機会(道具)であるということになる。

 ここでいくつかの動物どうしの戯れについて映像をお見せできれば幸いであるが、論文ではそれは無理である。しかしそこで見られるのは、遊びは小さい子供とそれと比べようがない程強大で賢い母親との間のやりとりにも胚胎している。そこではお互いに攻撃と防御を交互に行っていても、母親は決して本気で子供を傷つけることがないように自分の行動を微調整出来ているのだ。

 ある例では犬とヒヨコがお互いに信頼し合ってじゃれ合う様子が示されるが、ひよこは犬を信頼しきってその口に入るということまでやっている。そして犬はひよこを傷つけないように、口の開き加減などで高度の微調整が行われるのだ。つまりワンコの極めて高度のPEMを発揮して、自分をコントロールできているということを意味する。

 ちなみに最近の自由エネルギー原理の理論では、「予測誤差最小化」だけでなく、「程よい予測誤差」(アソび、撓(たわ)み、揺らぎ、など)の必要性や重要性が唱えられてもいる。それは「遊び(アソび)がないところに創造性や進化はないことや、「程よい量の予測誤差」こそが快感であるという点を示している。


まとめ


 精神療法における遊びの要素は、セラピストとクライエントが同じ体験を共有する「出会い」と考えられ、それを強力に支持しているのは愛着理論に基づいた精神分析家たちである。彼らはその出会いにおいては両者の脳の同期化が生じているということを強調する。脳の同期化はおそらく母子関係を通じて、さらには身体運動の、そして言葉によるじゃれ合いを通じて発揮される。(治療においてはその不足分が補充されるという意味を持つ。)脳科学的には、遊びは「予測誤差最小化」を磨き合うゲームであるといえる。

 精神療法においても他愛のない楽しいおしゃべりは、実はじゃれ合いのように予測誤差の最小化のトレーニングとなり、患者と治療者のシンクロを促進する意味があるであろう。
このように遊びによる治療には、発達論的、脳科学的な見地からも大きな可能性が秘められているのである。
 治療者はクライエントと他愛のないおしゃべりをする能力をもっと磨かなくてはならないだろう。私の本稿の最初の提言に戻るならば、「遊び心はあらゆる治療に必要な要素ではないだろうか?」「精神療法は常にプレイセラピーである」はあながち間違ってはいないと考える。

2025年10月9日木曜日

遊戯療法 文字化 8

  そしてこの最後の部分の目的は、予測誤差最小化の問題の話を回収することである。それはジャレ合いとは要するに脳の同期化のトレーニングであり、予測誤差最小化(PEM)のトレーニングの場であるということである。そこがこの発表のオリジナルな点であると自負している。

PEM(予測誤差最小化)とは?

 そこでまずPEMの持つ意味についておさらいしたい。脳どうしのシンクロとは、互いが相手の動きを予測し合うことを通して生じる。母親の心が音叉なら、子供は自分の音叉を差し出すだけで、自然と共鳴が起きるかもしれない。でも学習のプロセスはそうではない。常に相手の反応を予測しては、現実と照合して微修正をしていくという形でしかシンクロは成立しない。

 例えば自分が体を使うとか言葉を話すということを考えればわかるように、ものをつかめるようになるためには、「このくらいの方向で手を伸ばしてこのくらいの力でつかめばいいだろう」という予想をすることから始まる。しかし最初はうまく行かずに失敗をし、それを微修正していく。
言葉を話すのも同じであり、パパ、と言おうとしてもママと言ってしまい、パパ、だよ、と言われて修正する。この時も自分の出す声を予測しているからこそ、間違いに気がつく。他者とシンクロするためにも、子供はその実験台としての母親の反応を常に予測している。そして母親がその通りに振舞ってくれることで、子供は自分の母親への働きかけが予測通りの効果を生むことを知る。にっこり笑いかけた時に、母親も笑いかけてくれることを予測する。そしてその通りに母親が笑顔で返すことで、母親に笑いかけるという自分の行為の正しさを赤ん坊は確認するというところがある。

 そこで私の中に生まれたのが、「じゃれ合いは脳の同期化と関係しているのではないか?」というアイデアである。しかしこれは一見直観に反するのではないだろうか。なぜなら同期化はお互いに予測誤差を最小化することにより達成される。ところがそうして達成されたは同期化はある種の定常状態とみなせるようにも思える。他方じゃれ合い遊びでは、むしろ「意外性」であり、相手の予測を外すことにより楽しみが増すのであり、同期化と目指すところは逆であろう。
 しかし相手の予測を微妙に外すことは、むしろPEMを鍛えることにより成り立つのではないかということだ。以下に順を追って思考実験をしてみる。
 殴り合いごっこは、常に相手の予想を適度に裏切ることでスリルと興奮を味わうことが出来る。
 相手からの軽めのパンチの方向が予想出来、それを容易に避けることが出来、こちらからも相手が予想しやすいような軽めのパンチを繰り出す ←すべてが予想通りだとマンネリ化して面白くない。しかし相手が予測できない強力なパンチを繰り出すと、流血の事態になり、遊びは強制終了となる。だから軽く相手の予測を裏切るようなパンチが一番スリルがあり、楽しい。そこで互いに「本気で殴り掛かるふりをして、微妙に逸らす」とか「正面から殴り掛かるふりをして寸止めする」などのフェイントを行うことで、相手の予測を微妙に外し合うことになる。

でもそうできるためには、お互いに自分の体の動きをうまくコントロールでき、また相手の動きをうまく予想できなくてはならない。


2025年10月8日水曜日

遊戯療法 文字化 7

  実際に実験室で人間がラットとの間でRTPを行い、その間のラットの脳に起こる様々な変化を記録するという試みがなされる。それらを見るとラットは人間にくすぐられたり、追いかけられたりすると夢中になり、キャーキャーと嬌声を上げる様子がわかる。ただ私たちラットの嬌声の周波数は超音波レベルなわけで、私たちはそれを直接聞き取ることはできないということである。  このRTP、すなわちジャレ合いの研究は私たちにある希望を抱かせたことも付け加えなくてはならない。それは人間においてもじゃれ合い遊びを十分に行わせれば、その子は将来攻撃性がコントロールできるだろうという考えである。いわばジャレ合いに一種の治療的な意味を持たせるという発想である。そして実際それを証明することを試みた研究もおこなわれた。しかし話はそれほど簡単ではなく、時にはじゃれ合いがその子供の攻撃性を増すこともあり、特に父親が息子との遊びで主導権を取っていない場合だとその傾向が見られるということであった( Flanders,et al. 2009, Smith,et al. 2022)。これはある意味では当然なわけで、RTPは実際の戦いを模しているともいえるわけなので、RTPを行うということは、将来のほかの個体との実戦で勝利を収める練習でもあり、自分の攻撃性をいかに効果的に行使するかの練習でもあるからだ。そして父親とのじゃれ合いで父親が負けるということは息子の攻撃性をよけい野に放つということにもつながるであろう。

Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126.

Flanders JL, Leo V, Paquette D, Pihl RO, Séguin JR. Rough-and-tumble play and the regulation of aggression: an observational study of father-child play dyads. Aggress Behav. 2009 Jul-Aug;35(4):285-95. )


4.じゃれ合いは脳の同期化を鍛える場である


 このジャレ合いにどのような意味があるのか、本稿の前半の精神療法における脳のシンクロの話とどうつながるかということについて、本稿の最後にある仮説を示すことにする。

 ここまでの話を簡単にまとめると、まず心理療法における遊びの要素が、脳の同期化ということと関係しているということを示した。そして愛着理論に基づく精神療法を唱える先生方、つまりフォナギー、ショア、ホームズと言った人々が主張しているのが、精神療法とは要するに脳のシンクロ、同期化を目指すものであり、なぜならば人間の心は乳児期の愛着の段階で母親の心や脳と同期化をすることで形成されていく、ということであった。そしてその中でもホームズ先生が、予測誤差最小化(PEM)という理論を唱えていることについても触れた。つまり心や脳の同期化とは自分の動き、と相手の動きの予測をいかに正確にできるか、ということにかかっている、というのが彼の理論であった。


2025年10月7日火曜日

遊戯療法 文字化 6

3.遊びのプロトタイプとしての

    「じゃれ合い(RTP)」について


 ここで遊びについての科学的な研究について論じたい。その中でも特筆するべきなのは、いわゆる「じゃれ合い,頭文字でRTP」と呼ばれるものである。これが哺乳類以上の動物に非常に広くみられ、科学的な研究の対象になっているのである。
 このジャレ合いとは英語で rough and tumble play (RTP)という現象として知られているが、このRTPには日本語の定訳はない。しかし「じゃれ合い 」という表現がぴったりくると考える。

これはおそらく哺乳類一般に広く見られる現象で、もちろん人間の子供もしょっちゅうこれをやる。しかし何よりも好都合なのは、ラットが非常にこれを好み、人間がその相手をしながら観察し、データを取ることが出来るという点なのだ。そしてじゃれ合いがなぜこれほどに動物に遍在するのかについては、いくつかの説があり、それは実験データにより裏付けされている。それらは
1.RTPが精神の安定、不安の軽減につながるから。つまりRTPを十分に行ったラットほど攻撃性をコントロールできるという研究結果が報告されている(Siviy, 2016)。
2.将来の闘争や性行動の雛形として意味を持つから。事実追っかけ合い、手加減した殴り合いをするしぐさなどは、まさに戦いのための練習といえるであろうし、ピン止め行為pinning という相手を押さえつけるという動きは性行為の真似事や練習という意味があると言われている。
3.ジャレ合いは快感につながるから。実はこれが一番重要かもしれない。RTPはそれが楽しいからこそ子猫も子犬もラットも、そして人間の子供も延々と続けるわけである。そしてラットの研究では、「遊びの脳内回路」があり、それが系統発達的に受け継がれてきているのだろうということが分かっている。Sivy らの研究によれば、ジャレ合いによりラットの脳の中で興奮する部位があり、それがいわゆる中脳水道周囲灰白質(PAG)である。

Siviy SM. A Brain Motivated to Play: Insights into the Neurobiology of Playfulness. Behaviour. 2016;153 (6-7): 819-844. 

2025年10月6日月曜日

高市さんおめでとう!

 昨日日本橋の某ホテルで、某製薬会社主催の講演に招かれたが、登壇間際になってケータイのメッセージに気がつく。家人が「高市さん!」とひとこと。急いでアイパッドで調べると本当のことだった。感無量に近いものを感じた。ようやく彼女が選ばれたのか。しかしどのような困難を乗り越えて???
これが麻生さんの影響力だとすると、彼には全く違った作戦があるのかもしれないが。
私は高市さんのことは詳しく知らないが、おそらく現代の政治家の一つの完成形、必要なデータや理論をくまなく頭に入れ、自分の言葉で常に喋り、しかもある重要な理念を持っている人、ある種の正真正銘の理想を持っている人、として理解している。あとは総理になって実際の政治の世界でどこまで妥協しつつ理想を追求するのか、ということである。

夜帰宅をしてから録画をしてあった「新・プロジェクトX」を見た。袴田事件がテーマだった。袴田巌氏に漸く無罪判決が出たのが去年。その間長き獄中生活を送った巌氏。そしてその原因は検察側の証拠の捏造。この国は腐っているのか、と嘆く前に人間は普通の(あるいは選ばれたはずの、正義の番人であるはずの)人でさえ、これほどの過ちを起こすという現実に驚く。そしてそれを正面から指摘することが、実はいかにリスキーで難しいことか。そして同様に、あるいはそれ以上に、政治家は様々な、一見見えない不正を働くことでわが身を守り、あるいはわが身を売り出す。そしてごくごく少数の人間がそれを告発することが出来る。そのような人物像と高市さんを私は重ねるのだが、これもある人たちから見るととんでもない偏見ということになるのか。

某ホテルでの講演はあまりいい出来ではなかったが、私の前の清水研先生(有明病院)の「死と向き合う患者の精神療法」にたくさんの示唆を受けた。

しかしそれにしても、理想を追求できるのは、一つの才能ではないかと思うようになって来ている。

2025年10月5日日曜日

遊戯療法 文字化 5

  この図(ここでは省略)は対話をしている二人の人間の脳波が特に右脳において顕著に同期化していることを示すが、ショアはこのような同期化が愛着関係においても、そして精神療法においても起きているであろうと論じているのである。

三番目のジェレミー・ホームズは「愛着に基づく精神療法 (attachment-informed psychotherapy(AIP))」を提唱している。これは Jeremy  Holmes, Arietta Slade により提唱され、MBT(メンタライゼーションを基礎とする治療)と近縁である。彼によれば愛着は精神療法全体に浸透しているテーマである。そしてAIPは治療者・患者の同期化 synchrony により、愛着の感受期を再開し、それまでの前提を再構成するという。AIPの原則は徹底した受容 radical acceptance であり、そこでは治療者は患者の情緒的、関係的な世界の validation を行ない、それは解釈や変化を促すことに先立って行われなくてはならない。またメンタライジングにより、前頭皮質—扁桃核の結合が強化される。AIPは親密な関係における誤解や破綻、そして安全基地や治療者の脳の貸与 Borrowed brain of the therapist による修復は不可避的なものと考える。このように心と心の出会いを非常にサイエンティフィックに論じたのがこのホームズであると言える。 

 以上述べたフォナギー、ショア、ホームズに共通した視点があることにお気づきであろう。治療とは愛着関係を再現し、そこで治療者・患者の間の心の、生理作用の、脳の同期化を治療作用と考えるという視点である。これは分かりやすく言えば、心理療法の世界は結局H.コフートやC.ロジャースの理念に回帰しているともいえるということである。治療機序としての治療者の共感は、患者の側の共感力を育て、それは脳科学的にみれば脳の同期化というプロセスを介しているということだ。

 ところでこの最後のホームズの理論の中で、特にこの脳の同期化と言うことをより詳細に論じている部分があり、その理解は以下のこの論考の論旨にとって重要である。ホームズは同期化、シンクロが起きるプロセスで鍵となる概念はいわゆる「予測誤差最小化」とであるという。彼は相手と同期化するためには、相手の動きを予測して、実際の動きとの答え合わせをし、予想外の部分、つまり誤差の部分を常に小さくするというプロセスが働いていると説く。この「予測誤差最小化」という耳慣れない概念がいきなり登場することはいかにも唐突な印象を与えるかもしれない。ちなみにこのPEMの概念は、カール・フリストンという人の唱えたいわゆる「自由エネルギー理論」に基づく概念である。


2025年10月4日土曜日

遊戯療法 文字化 4

 このボストングループを率いていたのがかのダニエルスターンである。一昔前に日本でも盛んに話題になったスターンの著書「乳児の対人世界」(1985)をご存じの方も多いだろう。彼は実証的な研究(母子の交流を録画して細かく分析するミクロ分析をとおして、乳児の心的世界の解明を試みた。そして同書で「精神分析の発達理論として描かれた乳児」と「発達心理学者が実際の観察をもとに描く乳児」とを統合し、そこから乳児の主観的世界を「自己感」の発達として見直したのである。

 スターンの著書「出会いのモーメント」はその彼の立場を鮮明にした本であるが、そこで彼は「出会いのモーメントmoments of meeting」は伝統的な治療的枠組みが壊される危険にさらされる時に起きる」として、以下の例を挙げている。(スターン,2007,p.25)

被分析者がやり取りをやめ「私のこと、愛していますか?」と聞く時。患者が何かおかしいことを言い、二人が大笑いをする時。患者と治療者が外出先で出会い、何か新しい相互交流的、間主観的な動きが展開する時。これらの例はスターンが出会いのモーメントとして具体的にどのような瞬間を言おうとしているかをよく表していると言える。

ここで精神療法を愛着理論と結び付けた三人の現代的なアナリストを紹介したい。彼らとはピーター・フォナギー、アラン・ショア、ジェレミー・ホームズの3人である。それぞれの理論を簡単にご紹介しよう。

フォナギーらは「メンタライゼーションに基づく治療」MBTを提唱した先生であるが、彼らのいうメンタライゼーションとはわかりやすく言えば、人の心に共感し、相手がどんなことを考えているのだろう、ということを考えることである。それはいわば心をシンクロ(同期化)させることであり、さらに具体的には患者が相手の心を通して自分を見るという作業を意味するからだと言う。そしてこれは実は愛着期の子供と母親の関係に似ていると言える。そして実際にフォナギーはウィニコットが描いたような母子間の心のつながりを治療として描いている。

 次のアランショアは、最近小林隆司先生の翻訳などを通じてご存じの方も多いとであろう。彼の「右脳精神療法」においては、母子間の心のシンクロが、特に右脳同士で生じると主張する。

 乳児期は右脳の機能(愛着、間主観性、社会性)が優位で、愛着を通して母親と子供の右脳の同調が生じるとし、母親は眼差しや声のトーンや身体接触を通して乳幼児と様々な情報を交換しているということ、そして母親との愛着は乳児の情動や自律神経の調節に寄与するということを強調する。ショアの視点というのは、患者の多くはこの愛着の段階で問題が生じており、一種の愛着不全、あるいは彼のいう愛着トラウマの犠牲となっているという。すなわち母子の間で右脳のシンクロが起きないと、乳児は右脳を鍛えられず、右脳の機能としての他人に共感したり、情緒的な関係を持ったりということが出来ないと考えたのだ。そしてこの右脳のシンクロとして、Guillome Duma の研究を示す。


2025年10月3日金曜日

遊戯療法 文字化 3

  その後、精神分析における真の治療作用は、このような転移解釈を超えた何かではないか、という議論が起こるようになって来ている。その一つが、治療者との関係性の中での一種の出会いということである。この出会いとは治療者と患者がお互いに一人の人間として心を通じ合うということを意味し、先ほどの話と一致することになる。

2.出会いの理論と愛着理論

この出会いの治療作用としての役割については、「ボストン変化プロセス研究グループ」により提唱されている。

Boston Change Process Study Group (2010) Change in Psychotherapy:  A Unifying Paradigm. Norton & Norton. 

 彼らの著作である「精神療法における変化-統合的なパラダイム」(邦訳「解釈を超えて」)という著書には次のようなことが書いてある。

「出会いのモーメント moments of meeting」とは人間としての治療者との真摯なつながりに由来するような特別な瞬間であり、それが治療者との関係性を改変し、患者自身の自己感をも変化させる。(p10)

 さてここからはこの出会いの理論についてのお話になりますが、精神療法を出会いとみる視点は主として愛着論者からもたらされたと言える。彼らは精神療法における治療者患者関係を母子間の愛着との類似性、ないしは再現という視点から理解しようと試みたのである。

 精神分析の分野で愛着研究を行っている研究者たちはよく「baby watcher」と呼ばれるが、彼らは科学的な手法を使ってこの出会いということを究明しようとした。彼らは実際の母親と乳幼児のやり取りを同時にビデオに録り、母子の細かな動きを観察しようとした。彼らは精神分析家でありながら、同時に動物学的な視点を備え、その点が分析のエスタブリッシュメントとかなり意見を異にしていたといえる。ここで彼らの意見を極めて単純化して言うと、患者は人生の中で最初の出会いである母親との愛着関係にある種の問題が生じていたのではないか、と考えたと言えるだろう。

 この精神分析の中で主流派と発達論者が最初から犬猿の仲であったことは重要な事実ですから、ここで強調しておこう。何しろ発達論者の創始者とも言えるボウルビイは精神分析の始まったころからその本拠地の一つであるロンドンで活動をしていたのだ。ところがボウルビイはクライン派のリビエールに分析を受けて、メラニー・クラインやアンナ・フロイトのもとで学んだのに全然違った考えを持っていた。

2025年10月2日木曜日

FNSの世界 推敲の推敲の推敲 4

 現在の精神医学において変換症がFNSへと移行するためにはDSM-5を待たねばならなかった。しかしその移行の経緯はかなり込み入っていた。  まずDSM-5(2013)では変換症(機能性神経学的症状症)という表現が登場した。そしてさらにDSM-5-TR(2022)では機能性神経学的症状症(変換症)へと変更になった。つまりSDM-5₋TRでは変換症の方が( )の中に入り、FNS(機能性神経学的症状症)という呼び方がより正式な扱いをされることとなったのである。  このようにDSMで着々と起きているのは変換症という用語の使用の回避である。ちなみにICD-11(2022)ではconversion という表現がなくなり、変換症に相当するのは、「解離性神経学的症状症」となっている。こうしてFNDの時代が到来したことになる。

なお世界的な診断基準であるDSM(米国精神医学会)とICD(国際保健機構)は,精神疾患一般についての理解や分類に関してはおおむね歩調を合わせつつある。ただし変換症を解離症に含めるかどうかについては顕著な隔たりがある。すなわちDSM₋5においても変換症は、「身体症状症」(DSM-IVにおける「身体表現性障害」に相当)に分類される一方では、ICD-11では解離症群に分類されるのである。   言うまでもないことだが、このFNDの”F”は機能性 functional であり、器質性 organic という表現の対立概念であり、神経学的な検査所見に異常がなく、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。そして変換症も、時間が経てば、あるいは状況が変われば機能を回復するという意味では機能性の疾患といえる。だからFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。  上記のごとくDSM-5において変換症がFNSに取って代わられたのはなぜだったのだろうか?これについてはFNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone の論文(2010)を参考に振り返ってみる。本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freud は鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したい。」(Freud, 1894)  しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudによる仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからだという。もちろん心因が常に意識化されているとは限らず、心因が存在しないことを証明することも難しいが、その概念の恣意性を排除するという意味でもDSM-5においては conversive disorder の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。

Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.  DSM-IVあった「症状が神経学的に説明できないこと」については、DSM-5やICD-11ではあえて強調されていないことになったことは注目に値する。実際には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)

<以下略>

2025年10月1日水曜日

遊戯療法 文字化 2

 例えばまだ10代の女性の患者さんが初診時に緊張した面持ちだとする。彼女が千葉出身でC高校に通っていることがわかると、たまたま同じ高校に通っていた私は次のように言ってみる。「C高校か。毎日あの坂を登って登校するのはきついよね。」

するとそれまでこわばっていた患者さんの顔が急に綻んだりする。  この例はたまたま患者さんと私の出身高校が同じであるという偶然があったから行えた介入だが、もっと普通のやり方でこのような交流を行っている。たとえば今年の夏は非常に暑い日が続いていたが、精神科の外来を訪れる患者さんで何となく接触を取るのが難しい場合には、私はよく「ここまでいらっしゃるのは大変だったでしょう。今日の暑さは半端ありませんね」と言ってみる。すると必ず患者さんの表情が崩れて、「いやまったくそうですよ!」となるのが普通だ。

 このような例を考えた場合、私が考える遊びの要素、ないしは遊びごころとはある体験を共有すること、同じ感情体験を持つことではないか?と思うのである。


 このような話をしても、ここでの「遊び」や「遊び心」がどうして治療につながるのかは読者には不明かもしれない。確かにこれは例えば精神分析とは全く無関係なかかわりあい方と言えるかもしれない。しかしそもそも治療とは何か、ということが精神分析の世界の中でも従来から大きく変わってきているのも事実なのである。

 古典的な分析的治療モデルにおける「患者に変化をもたらすもの」(治療作用)とは「転移解釈」であり、患者はある種の知的な理解(洞察)を得ることで変化する。


治療者:「あなたは私を怖い父親のように感じているようですね」(転移解釈)
患者:「そうか、これまで自分はちょうど今ここで起きていたように、人を歪曲して見ていたんだ。」(洞察)

ここに見られるような転移解釈とそれに基づく洞察というのが、精神分析の治療作用なのだとされてきたのです。これはフロイト以来、モーゼの十戒の様に信じられてきたことである。