そこで遊びはさらに次の段階に入る。 Aは今度は、「本気で当ててくるふりをして寸止めをする」という、新たな戦法を編み出すとしよう。これはいわば「フェイント」を含み、それまでのどの戦法とも違うので、Bの予想を大きく裏切ったとしよう。つまりこの時結構大きな予測誤差が生じる。そしてBはスリルを覚え、これを楽しいと感じるとしよう。彼は「おっと、危ない危ない」などと言って嬌声をあげる。そして今度はAがBからのパンチがどのようなものになるかを予測する番だが、もはやそれまでの「わざとパンチをそらす」(95%)「軽く当てる」(5%)ではないだろう。なぜなら両者には新たなレパートリーである「寸止め」が加わったからだ。つまりお互いの予測はかなり様変わりしたことになる。しかしお互いにまだ新戦法には慣れていないので、「パンチをそらす」80%、「寸止めをする」15%という感じでまだ寸止めは最上位ではない。 さてこのように考えるとパンチの応酬によるじゃれ合いは、常に程よい予測誤差を生み出そうとするやり取りだと考えることができるだろう。ここでの程よい、とはこれがとてつもなく大きい誤差を生じる場合には、単なる恐怖体験になってしまうからだ。例えばBはAを驚かそうとして本気でAにパンチをくらわすとしよう。Aにとっては(そしておそらくBにとっても)もはや遊びではなくなり、Aは鼻血を流して遊びどころではなくなり、助けを求めることになりかねない。だから予測誤差は小さすぎても大きすぎても効果は低くなる。 ところがここで重要な点を指摘しなくてはならない。それはこの「ほど良い予測誤差」を生むためには、高度の技術が必要であり、それこそそれに熟達する過程でさらなる予測誤差最小化を伴う必要があるのだ。なぜならそれは単に相手に全力でまっすぐなパンチを与えるのではなく、強すぎもせず、弱すぎもせずの適度な予測誤差を生むように巧妙に仕組まれている必要があるからだ。 このことは playfulness を考える上で極めて重要な示唆を与えてくれる。遊び心は予測誤差最小化のためのかなりの訓練を積むことによってしか実現しない。これが遊びの重要なテーマなのである。