「遊戯療法と精神療法- 両者の懸け橋としての愛着理論」
私は精神科医であり、精神分析家であるが、精神療法は常にプレイセラピーの要素を持つことが望ましいというのが持論である。言い換えれば「playfulness (遊びごころ)はすべての精神療法において必須である」と考えている。と言っても何か特別な介入を行うわけではない。患者さんと冗談を言い合ったり、一緒に笑ったり、ある話題について楽しく話したりすることを指して私は playful なかかわりと呼んでいるのである。さらにはこの playfuless のことを患者さんや治療者がともに発揮する自由さとか、柔軟性、ウィットのセンス、防衛的でないこと defenselessness と言い換えてもいいだろう。逆にこの意味での playfulness が欠如している場合には、およそあらゆるタイプの精神療法において、その効果が半減してしまうと考えている。
さてこのように考える私は、いわゆる精神療法と遊戯療法をあまり厳密には区別していないのである。また私は遊戯療法の専門家ではないが、私が扱うことの多い解離の患者さんは、かなりしばしば子供の人格で訪れるので、まさに精神療法と遊戯療法は同時に起きていると感じる。 さてこのような意味での playfulness にはいったいどのような学問的な意味があるのであろう、ということを今回この基調講演のお話をいただいて改めて考えることにした。そしてそこで至ったのは、愛着が一つのキーワードであろうということだ。愛着の問題について考え直すことで、このplayfulness の持つ意義を少しでも明らかにしたいというのがこの発表の意図である。
愛着は現在様々な分野において関心を集めているテーマである。それは最近の精神分析の新しい流れとも、脳科学的な知見ともつながっている。そして愛着こそが精神療法と遊戯療法と精神療法をつなぐ架け橋となる概念なのである。
そしてこう書いている際に常に頭にあるのが治療者としての Winnicott の姿である。
精神療法における遊び 一緒に「遊んでいる」感覚 一緒に笑った体験
遊び心 playfulness と言うテーマに関連して、私はメニンガー・クリニックでの見学生の立場での体験を思い出す。まだ私が米国に渡ったばかりの30歳の頃、それから2年して医師の免許を取得してレジデントになる前のころだ。私はそのころメニンガーに入院している患者さん達に面接を申し込んでいろいろ話を聞くという機会を持つことを許されていたのだ。「国際留学生」と言うちょっと曖昧な立場で、そのような形での病院への出入りが許されていたのである。その頃の入院患者さんの多くが、彼らの主治医のつっけんどんで観察者のような態度に苛立っているのを目にした。メニンガーでは医師の多くが精神分析家であったり、分析家になるためのトレーニングの最中だったりしたということも関係あるかもしれない。(ちなみに私は渡米したその年から、メニンガーでの見学生の経験を通じて、分析家たちの持つ独特の雰囲気に違和感を覚えていたことになる。ある意味では今と変わらない体験をすでに持ち始めていたのだ。)
その中である初老の男性の患者Cさんのことを時々思い出す。彼は自分の担当医であるD医師のことを鼻持ちならないと言って怒っていた。D医師はCさんよりかなり年下で、まだ精神科医になりたてだったが、CさんがD医師にネガティブな感情を伝えると、D医師は、それはCさんの父親に対する怒りが向けられたものだという、一種のエディプス的な解釈をしたという。しかしCさんはその言葉にますます憤りを感じたというのだ。
私はCさんと面接をする中でD先生に対する怒りについて聞きながら、それが分からなくもないと思っていた。確かにD医師はまだ新人で経験も浅く、それを患者に見透かされないようにとかなり上から目線で、虚勢を張っていることが見て取れた。さて少し省略して話を進めると、私はその怒りの問題を抱えた(ことになっている)Cさんと何回か話して、結構親しくなったのだが、それは彼が仕事としている生物学についての話を聞いたことと関係していた。彼は大学の生物学の教授だった。ちなみにメニンガーに入院している患者の多くが社会的には立派に機能していて資産を持った人たちであり(だから保険に入り高い入院費を払えるのだ)、一時的な鬱状態やそのほかの問題のために数か月単位で入院していたのである。そしてCさんの行った研究などの話を聞くうちに、彼はとても饒舌になり、私が興味本位に向けた質問にも詳しく答えてくれた。結果的に私はCさんからいろいろなことを教わったのだが、彼にはそれがとてもポジティブな体験だったらしい。Cさんが専門としている生物学に関して、私の他愛もない質問に答える時の彼は笑顔を見せ、とても生き生きとしていた。そして時には冗談を言い、楽しげだったのだ。
Cさんはおそらく私とのかかわりの中で人間らしく扱われた気がしたらしい。というのもメニンガーでは患者はどのような病理を持っていて、それが医師やほかの患者との関係にどのように表れているかばかりを扱われ、弱者や病者としての立場に甘んじるという体験を送っていたからだ。同じようなただの外国人の見学者という弱者の立場にある私との話は、ある意味では息抜きになり、自信を取り戻すきっかけになったらしい。
さてこれと playfulness の話を結び付けるのは簡単ではない気がするが、同じような体験は今でも日常の臨床の中で起きる。患者さんがもつ趣味や「推し」についての話をしている時に、私もある程度そのトピックに興味がある場合にそれが起きやすい。私がそのトピックに関して、患者さんに比べて初心者であるということを示し、それなりに相手に対するリスペクトを示すことはとても大事であり、それによりある種の対等な、というよりは彼らの土俵での対話が起きる。そこで彼らがそのトピックについてどのような興味を持ち、どのような夢を持っているかについて聞いているうちに、彼らがいつもの自信なさげな態度とは全く異なる表情を見せることに気が付く。彼らは余裕を持ち、自由さを増し、その話題についての知識の乏しい私に対して気遣いを見せてくれたりする。いつもは治療者対患者という傾きを持った関係がある種の逆転現象を見せることがここでは意味があるように思う。そしてこれは遊びにおける対等性の問題に関連すると言っていいだろう。
さて私は精神分析家であり、精神療法における遊びの要素について考える場合も、それを精神分析の理論の文脈で理解しようと試みる。結論としてはそれは可能なのだが、それは従来論じられてきた精神分析理論とはかなり異なる理論が必要となる。少なくとも患者の無意識を知ることを手助けすることをモットーとするフロイト的な精神分析とは大きく異なる。それは最近の治療者患者関係を重視する関係精神分析的な流れによりフィットすると言えよう。関係精神分析的な理論によれば、患者を変えるのは、治療者と患者の関係性であり、そこでの出会いであると考える。そして両者が情緒的につながる瞬間が治療的な力を発揮すると考える。そのような関係論的な流れの中でも特にいわゆるメンタライゼーションの流れが多くの学問的な裏付けを与えてくれるのだ。そしてメンタライゼーションが重視するのが愛着理論である。そこでは治療者患者関係が一種の愛着関係に類似のものとして理解されるのだ。愛着理論に基づけば、精神障害の少なくとも一部は、幼少時の愛着関係の問題が深く関係していると考えられる。そして治療者と患者の関係も母子関係の再現としての要素が少なからずあると考える。