精神分析的・力動的な立場からのパニック・不安の理解
はじめに
本稿は精神力動的な立場からパニック・恐怖と不安の理解と対応について論じる。なお本号で並行して寄稿される認知行動療法、森田療法、ポリヴェーガルの立場との違いを明らかにすることも求められている。
まず最初にこの論考のタイトルを「精神分析的・力動的 な立場から」とした理由について述べたい。現代の精神分析はトラウマ理論、愛着理論、脳科学等の様々な分野を包摂する傾向にあり、それはより広く精神力動学 psychodynamics と呼ぶべき分野と言える。精神力動学は「生物学的心理的社会的」という広い概念であり、フロイトの精神分析理論に代表される葛藤モデルには留まらず、いわゆる欠損モデルないしはトラウマモデルをも含みこむ(Gabbard p.4)。本稿のテーマであるパニックや不安はまさにそのような包括的な立場からとらえるべきものであると考える。
フロイトの不安の概念
精神分析の祖であるS・フロイトは不安について極めて詳細に論じたことが知られるが、それは主としてリビドー論に基づくものであった。すなわち私たちの持つ性的ないしは攻撃的な本能が精神の働きの根源にあり、それが心の上位の部分(超自我)からの干渉を受けることにより生じる葛藤が不安の本体であると考えた。その意味では不安は無意識的な葛藤の存在を知らせる好ましい兆候とみなされていたのである(Sarwer-Foner, 1983)。フロイトはまた不安を発達論的に分類し、超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、分離不安、迫害不安、解体不安などを見出した。これらの不安は臨床上しばしばみられるが、多くの場合はこれらの幾つかが複合した形をとると考えられる(Gabbard, Nemiah,1985)。
パニックや不安の生理的なメカニズム
フロイトの時代の脳はまだブラックボックスに等しく、不安の理論も極めて大胆な仮説の域を出なかった。それから一世紀が流れる中で、パニックや不安についての脳生理学的なメカニズムの理解に関して長足の進歩があった。しかしそれでもストレスや葛藤が不安やパニックを生み、そのプロセスは基本的には無意識レベルで生じる、という理解の大枠は変わってはいない。
現代の脳科学ではパニックや不安については、それらに関与する二つの神経ネットワークシステムにより説明する(Cozolino,2002)。それらは扁桃体のネットワークによる「タクソンシステム」と、海馬―大脳皮質ネットワークによる「ロカールシステム」である。外界からの知覚的、感覚的な刺激が視床で処理されると、これら二つのネットワークが発動するのである。
タクソンシステムにおいては扁桃体は視床からの刺激に含まれるある種の危険性に即座に反応して、青斑核等を通じて全身に逃走・逃避反応に備えるようアラームを伝える。この過程は無意識レベルで生じ、生体の安全を守ることが第一の目的であるために、多くの過剰反応を含む。例えば森を歩いていて上から長い物体が降ってくると、それを蛇などの危険物と察知して飛び退るなどの反応を起こすのである。
他方の「ロカールシステム」は刺激に対してワンテンポ遅れて意識レベルでの処理を行う。すなわち刺激の内容の理解や過去の記憶との参照が行われ、上記の例では「なんだ、よく見たら木の枝ではないか」と認識することで扁桃体の暴発は抑制されることになる。
私たちの日常においてはこれらの二つのシステムがうまく協調することでストレスへの対処が行われているが、生下時は扁桃体が機能するのみで、ロカールシステムはまだ機能していない。そのためにタクソンシステムによるアラームが生じた際には母親がそれを鎮める役割を果たすことになる。そしてその母親の機能が果たされない場合には、乳幼児は初期の不安反応を圧倒的かつ全身体的に体験することになる。しかしそれは大脳皮質に記憶としては保存されず、後になって刺激により突然立ち現れることになる。近年アラン・ショアにより定式化された「愛着トラウマ」においては、二つのシステムの乖離が生じることで、のちにパニック発作等の不安症状を生み出す素地が提供されることになる。
愛着トラウマは後になってロカールシステムが機能するようになっても、そこに関与する海馬にも深く影響を与えられることが知られている。海馬はストレスホルモンであるグルココルチコイド(以下GC)の受容体を有し、ストレス時に高濃度のGCを検知するとネガティブフィードバックをかける役割を果たす。しかし海馬自体がその高濃度のGCに晒されることによりダメージをこうむり萎縮することが知られている。さらには不十分な養育等の影響で海馬の容積が小さい人がPTSDになりやすいという研究もあり、ストレスと海馬の萎縮との因果関係は双方向性であることが示唆されている。(養育が不十分な場合には、子供はストレスに弱く海馬のGCのリセプターも少ないということがラットの研究などで知られている(Cozolino, p253)。
このようにパニックや不安の生じるメカニズムには幼少時の愛着の段階における養育が大きな影響を及ぼすことが分かっている。ただし子供の側が持っている生来の気質が関与している場合も考えられるであろう。 ジェローム・ケーガンによる研究では、パニックの患者は子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(Gabbard, p264)。
このような愛着段階での問題のみならず、その後の人生におけるトラウマやストレスもパニックの発症に深く関与していることが知られている。実際にパニックの患者の多くはその発症に先立つ何か月かにおいてストレスフルな人生上の出来事を見出すことが出来(DSM‐5‐TR,p244)、特に親との死別が関係しているという(Faravelli and Pallanti, 1989)(Gabbard, p.263)。またある研究は患者がより多く両親からの離別や死別、ないしは早期の母子分離が関係していることを示しているという(Milrod et al. 2004))。