2023年11月16日木曜日

連載エッセイ 10の推敲 3

 報酬系が焦げるとなぜ苦しいのか

 報酬系が「焦げた」結果どうなるのだろうか?それは感情が湧かず、何事にも意欲がわかない、ちょうどうつ病の様な状態である。クラックコカインを使用しなくなっても心はもとの状態に戻れないのだ。それはなぜだろうか?

 実は私達は報酬系がある程度興奮している状態で、通常のやる気や満足感を保っていることが出来るのだ。言うならば報酬系の興奮というコップの水は、ある程度満たされていることで、適度の幸せ感を維持することが出来る。しかしこのコップの水位が下がってくると、その幸せ感が減り、私達はうつ状態のようになってしまうのだ。この幸せ感の維持もまた報酬系の重要な働きである。

 この件については、実は前回の連載に伏線を張っておいたので思い出していただこう。サルに緑信号を見せた後にシロップを与えるという事を繰り返すと、そのうち緑信号を見せた時点ですでにドーパミンが興奮するという実験について説明していた。「ところでこの実験にはもう一つ重要な見どころがあった。それは緑信号を見せた後にサルにシロップを与えなかった場合に起きたことだ。その場合サルは期待を裏切られたことになるが、その際はドーパミンの興奮がいわばマイナスになり、サルは著しい不快を体験することになる。

 「ドーパミンの興奮がマイナスになる」という言い方は、説明なしに聞いても意味不明だったはずだ。なぜならここではドーパミンの興奮が起きるか起きないか、という書き方しかしていなかったのである。だからドーパミンの興奮が「マイナス」というのは意味をなさなかっただろう。しかし実はドーパミンニューロンの興奮は日常的に、一定程度は起きていていたのである。先ほどのコップの水のたとえだ。するとドーパミンニューロンの興奮も受容体の数も低下すると、ドーパミンのコップが空っぽに近くなってしまう。そしてこれはうつ状態に似た実に苦しい体験だ。実際実験的に脳内のドーパミンを枯渇させたラットは何事にも興味を失って運動を停止してしまうことが知られている。

 もちろん焼けた報酬系にはコップの水が残っている以上は、少しは快感刺激には反応する。美味しい食事をしたり、SNSでの発言に「いいね」が付いたらそれなりに嬉しいはずだ。しかしそれ等の刺激に対する報酬系の反応はごくわずかである。そして唯一の救いはクラックコカイン、あるいは報酬系を焦がした原因の物質を使用することだ。しかしそれによる反応も鈍ってしまっているから、到底初回のような快感は得られないのである。

 さてこの焦げた報酬系はそれからどうなるのか? 実は幸いなことにそれは回復していくことが知られている。人間の火傷のように、十分な手当てでそれは修復されていく。コカイン以外には何の楽しみも得られなかった人が罪に問われて収監され、一切薬物を使用することが出来ずに時間が経つと、報酬系はゆっくり修復されていくのが普通だ。コカインを絶たれた「潰れ」の時期を経て、彼は徐々に人間らしさを取り戻していくだろう。そして差し入れてもらった本にも興味を示し、食事の時間が待ち遠しくなる。その人の報酬系は、興奮の度合いも受容体の数も回復されていく。彼の報酬系は一見普通に戻ったように見えるかもしれない。彼は久しぶりの娑婆の空気を満喫するだろう。では彼はしばらく嗜癖薬物から遠ざかることですっかり薬物から解放されたのであろうか? 否、である。例えば彼はある清涼飲料水●●コーラの宣伝を目にするかもしれない。そして自分が一度魅入られた薬物のことを思い出す。自分は再びヤクの取引人と連絡が出来る立場にある事を自覚する。その瞬間突然の苦痛に襲われるかもしれない。今目の前にクラックコカインが存在せず、すぐにでも使用できないことの苦しみに襲われるのである。それはどういうことか。