2023年11月17日金曜日

連載エッセイ 10 の推敲 4

 最初の部分は昨日の分と重複している。

渇望という魔物
 彼は例えばある清涼飲料水●●コーラの宣伝を目にするかもしれない。そして自分が一度魅入られた薬物のことを思い出す。自分は再びヤクの取引人と連絡が出来る立場にある事を自覚する。その瞬間突然の苦痛に襲われるかもしれない。今目の前にクラックコカインが存在せず、すぐにでも使用できないことの苦しみに襲われるのである。これが渇望と言われる現象である。そして彼をこれから待ち受けるのは、何かの刺激によって突然襲ってくるこの渇望である。刑務所にいた時は一見平穏だった心は一気に薬物依存者のそれに戻される。これはもう脳の条件反射に近い。彼はこれに今後一生さいなまれることになるのだろうか。
 読者の皆さんは「同じことは刑務所で起きていてもおかしくないか?」と思われるかもしれない。それはそうなのだ。でもその程度ははるかに弱い。刑務所ではたとえ薬物をやりたくても、麻薬業者への連絡は事実上決してできない。だからそれを行い、薬物を手に入れてすぐにでも使用する、という想像は十分に生々しくは生じないのだ。これが決定的なのである。マイナスWの原型を思い出してほしい。目の前のチョコレートが取り上げられた時の苦痛、である。いったん想像上で薬物をほとんど使用するまでになるためには、それが現実的に可能な状況が必要なのである。そしてそれは刑務所内では訪れないのだ。
 ある窃盗癖の方Aさんの話をしよう。彼はスーパーでどうしても万引きがしたくなり、それを繰り返すことで露見するという事が繰り返され、最終的に執行猶予付きで釈放になった。2年間の猶予期間の間はAさん特に万引きをしたいという願望に襲われることはなかった。余裕で執行猶予の期間を過ぎ、もう再発はしないであろうと考えていた。ところが2年を過ぎてしばらくたったある日突然、「何かがおかしい」、と感じたという。そして気が付くと敢えて財布を持たずにスーパーに向かっていた。そこでいくつかの商品を店員に分からないように鞄に入れて店を出ようとしたときに御用になった。そして警察に通報され、全てが振出しに戻ってしまったという。
 このケースで渇望を引き起こした重要な因子はお分かりだろう。執行猶予を過ぎたことで刑務所に直行するというリスクが去ったという事が、万引きへのハードルを下げたことが原因だったのだ。これもまだ重要なトリガーだったのである。
 Aさんがなぜその日朝からソワソワし、運命づけられたようにスーパーに向かったかは不明である。しかしこれは突然襲ってきた万引きをしたいという渇望である。それを確実に遂行するために彼は現金をあえて持たずに出かけたのである。
 渇望のメカニズムは分かっていないことが多いが、これが記憶のメカニズムに関わることが多い。そしてその意味でこの現象はトラウマのフラッシュバックと似ているところがある。フラッシュバックは過去のトラウマ体験が、ありありと、生々しく蘇り、あたかもそのトラウマの渦中に身を置いているような体験となる。そこでは自律神経系の反応も著しい。フラッシュバックはまたどのようなトリガーによりいつ生じるかが予測できない場合もある。しかしいずれにせよ脳がある刺激に感作された状態ということが出来る。感作とは、アレルギー反応のように、あるアレルゲンが突然体に激しい生理学的な反応を起こすようになった状態を言う。つまり脳がある強烈な記憶を担っていて、否応なしに反応してしまうというパターンを成立させている状態を指す。