2021年2月15日月曜日

儚さ 4

 注 1)

この「儚さ」にこの先論じる上で言及すべきなのは、Matthew von Unwerth という人の”Freuds RequiemMourning, memory and Invisible History of a Summer Walk (2006)という著作の存在である。著者 von Unwerthはこの「儚さについて」はフロイトの世界を縮小したポートレートであり、彼の人生や業績を形作った同じテーマが豊かに凝集したものなのだとする。「”On Transience is a portrait in miniature of the world of its writer, rich and teeming with the same themes that shaped his life and his work.」確かにそこにはフロイトのその他の学術論文に見られない側面が、このエッセイにはフロイトの苦悩に満ちたセンチメンタルな、あるいはロマンティックな側面が見事に表現されている。 we come to know a sentimental, melancholic, even Romantic. Book Review. Richard Gottlieb,p. 592)。)

このvon Unwerth の著書はフロイトの喪のプロセスと芸術についての問題に深く触れており、特にこのエッセイに登場したとされるリルケやザロメとの交流関係などについて詳しく調べ上げ、このエッセイを書くに至ったフロイトの人生における背景を詳しく伝えてくれる。さらにこの著書はまた、フロイトがそれらの人々との交流を通じて芸術をどのようにとらえていたかについて私たちの目を向けさせる。ただし残念なことにフロイトのエッセイを死生論とみる傾向はあまりない。そこで以下の死生論も含めた考察においては中心的に扱うことはせず、ここに紹介するにとどめておく。

フロイトの死生観に関する扱いに関してよく知られるのが、彼が「無意識は不死である」と語ったことである。フロイトが1915年の「戦争と死に関する時評」で「無意識は不死を信じている」と述べているが、それがフロイトが人の死すべき運命への扱い方であると見なし、それを批判的に扱う立場があった。その中でも特に舌鋒鋭く主張したのが、エルンスト・ベッカーである。

ベッカーはその大著「死の否認」の中で、フロイトの「無意識は不死を信じている」という主張を取り上げ、フロイトはまさにそのような形で、「死の否認」を行っていると主張した。ベッカーは自らの死すべき運命に対してそれを不安に感じたり否認したりするのは人間存在の根本的な問題であり、哲学における基本的なテーマでもあるとする。そしてそれを「実存的なジレンマ」と呼ぶ。そしてフロイトの理論体系そのものが死の否認を行っていたことを示唆する。その性愛論に関しても、抑圧されるべきは性愛性ではなくて死すべき運命そのものだという。ベッカーはそれをフロイトの決して屈しない not yielding 性格傾向に関係するとし、フロイトの分析理論の中心的な概念であるエディプス葛藤についても、それを「エディプス的な計画」と称し、人が死すべき運命を乗り越えようとする試み、いわゆるcausa-suiの一つであるとする。またフロイトの後年の死の本能という概念が、死すべき運命を生物学的、本能論的なものとして対象化ないしは矮小化する試みであるとした。

しかしベッカーはまた、現実の人間としてのフロイトが自らの死をどのように扱っていたかについても言及する。フロイトは他方ではすべてのエディプス的な戦いを止めて屈服することへの願望を有し、それがいくつかの失神のエピソードにも表れていたとする。ベッカーは実存的なジレンマを持った人間が行き着くのはfaith であるとするが、フロイトも事実上はそれへの志向性を持っていたと論じている。それはフロイトが逆説的な意味で死すべき運命という問題と深くかかわっていたことを示しているとも考えられる。もしそうであるならば、それはフロイトの「儚さ」で表現されていたと考えるべきであろうが、ベッカーには不思議にこの論文について言及していない。