2021年2月14日日曜日

儚さ 3

 ここでこのエッセイにおけるフロイトの主張の要旨としては以下の二点があげられるであろう。

主張1 対象を失うことによるつらい喪の体験はやがて終結し、人は再び新しい対象を求めることができる。

主張2 対象は、それが儚さを有することで、その価値や美を高めるのである。

 このうち主張1については比較的議論の余地が少ないであろう。これは「儚さについて」に先立って書かれた「喪とメランコリー」の主要なモチーフが繰り返されており、喪の後人の関心は別の対象に移り、そこで再び美を体験するという主張である。そしてのちに述べるように、フロイトはこの後この主張を変更していき、1923年の「自我とエス」に見られるように、喪の作業は容易には終結しないという見解へと移っているのだ(Clomwell)。ところがこの主張2については、すでに主張1とある意味で齟齬をきたしている。それは美しい対象はそれが消えていく運命にあることそれ自体でその美や価値を増すという主張である。つまりここでは喪に服された対象について依然として論じているのであり、しかも儚さゆえに価値がさらに増すという根拠は明確に述べられていない。フロイトは、Transience value is scarcity value in time” 言い切っているだけなのである。たとえるならば、主張1では、花は枯れる運命にあっても、その運命と折り合いをつけることで、別の花をめでることが出来るという主張であり、主張1はもとの花は枯れる運命にあっても、その運命と折り合いをつけることで、もとの花をさらにめでることが出来るという、別々の主張であることが分かる。儚さと美の関係を論じる際には、この主張2にその斬新さがあることは間違いあるまい。フロイトがこのエッセイで、この対象をもっぱら美や自然と呼んでいることからも、そしてこのエッセイに芸術家(詩人)が登場することからも、対象の喪失と美的価値の関係はフロイトの最大の関心事の一つであることは明らかである。そしてやはりここでも「儚さ」の底に流れているより深いモティーフである。すなわちフロイト自身の死すべき運命の受け入れ方であり、死生観であり、またフロイトの人生をかけた作品としての精神分析理論をフロイトがどのようにとらえていたかである。

「儚さについて」のエッセイが私たちに促しているのは、このエッセイを通してフロイトが人の命も含めた儚さの受容がいかに美や価値と結びつくのかを、フロイトの後を継いで探求することなのである。