2021年2月16日火曜日

儚さ 5

  この「儚さ」の論文をフロイトの事実上死すべき運命mortality についての議論あるとみなすという立場は Irwin Hoffman (1998) により明確に示された。Hoffman は精神分析の文脈で死生観の問題について他に類を見ないほどに透徹した議論を展開している(「精神分析過程における儀式と自発性 Ritual and Spontaneity(Hoffman, 1998)の第1、および第2)

 ホフマンはまず精神分析においては喪 mourning に関する文献は多いが、自身の死の問題についての論文は非常に手薄である点を指摘する。そして死の問題は実は私たちの日常思考に密接にかかわっていることを、Jean-Paul Sartre Maurice Merleanu-Ponti などの実存哲学を引きつつ強調する。そもそも私たちが抽象概念を用いる際に、すでに無限という概念を前提とするが、それは同時に死の意味を理解することでもあるからだという。そして Hoffman はフロイトの1916年の「無常ということ」は彼の論文が死についてのフロイトの考えが、実はある重要な地点にまで到達していたとしている。フロイトはこのようなすぐれた考察を残しながら、結局は死すべき運命への気づきを彼の精神分析理論の体系の中に組み込まなかったようである。その意味で彼の理論は結果的に反・実存主義であったとさえ Hoffman は言う。

ホフマンによればフロイトはその理論の変遷の中のいくつかの文脈で死について論じているものの、そこに首尾一貫した死生論は見いだせないという。それらの文脈とは1.局所論的モデルからの観点、2 死の欲動の観点、3.構造論的観点、4「無常について」に見られる「実存的」観点である。

このうち1、については、ホフマンはすでにみたフロイトの有名な「無意識は不死を信じている」という「戦争と死に関する時評」(1915)の言葉を挙げ、これが多くの反論や誤解を招いた点を指摘する。死は決して人が想像できるものではないからだというのがフロイトが示した根拠であるが、フロイトはまた「ナルシシズム入門」(4)で「死すべき運命は人の自己愛にとって最大の傷つきともなる」という主張も行なっている。ここで自分が想像することが出来ない死を、しかし自己愛に対する最大の傷つきと考えるのはなぜか、ということがフロイトの議論の中での大きな矛盾点である、とホフマンは主張する。またこの考えはフロイトの「無意識は無時間的である」という提言と矛盾するという。時間性が欠如するという点については、「不死」つまり未来永劫生き続ける、ということも想像できないはずだからだ。

ホフマンは結論として、結局無意識は死すべき運命も、不死についても、両方を含みうるのではないかという(p,79)。そしてホフマンは、結局フロイトの「無意識は不死を信じている」という主張の逆こそが真なのであり、無意識に追いやられるのは、死すべき運命の自覚であるという。つまり人は「自分はいずれ死ぬのだ」という考えこそを抑圧しながら生きているというわけだ。それにもかかわらず精神分析の世界では死に関するフロイトの矛盾した主張が延々と継承されてきたということを遺憾とする。

ここまでのホフマンの主張は常識に照らしてもおおむね納得のいくものだと筆者も考える。否認や抑圧の対象になるのは、死すべき運命の方であるという主張はフロイト以降の死生学において繰り返して主張される。しかしここで同様に重要なのは、自らの死すべき運命についての心理的な処理の仕方はおそらく多層的であり、願望やファンタジーをも含みうるという事である。フロイトの「無意識は不死を信じる」という考え方は多くの反論を呼ぶ一方で、私たちの多くが「不死でありたい」という願望や不死であるというファンタジーを抑圧しているとは言えないであろうか? また通常の意味での生が終わることを覚悟はしていても、何らの形での来世の存在を信じるかにより、その覚悟は微妙に異なる可能性がある。死生観に対する私たちの意識活動の扱い方はその様に多層的でかつ流動的である可能性がある。

  ホフマンのフロイトの死生観についての考察で最も注目すべきは、第4の論点にあげた、フロイトの「儚さについて」に関するものである。ホフマンはここでフロイトは、「非公式に」死についての議論を実存的なレベルで扱っているという。つまり失われる対象に対してあらかじめ喪の作業を進めることの意味を説いたのである。フロイトが論じている喪の前触れforetaste of mourning という概念も自分自身の死に関する問題として読み替えることが示唆される。つまりそこでは愛する対象の喪について論じていながら、事実上自分の死についても論じているとホフマンは考えるのだ。つまり「儚さ」の論文はそのままフロイトにとっての事実上の死生論を説いているとも考えうるのだ。はじめは無意識の時間性を主張したフロイトは、しかしこの喪の先取りの問題において、明らかに時間性を持ち込んでおり、それはフロイトのそれ以外での機械論的な議論とは一線を画している。

 人が有限性に直面した時に生じる価値の問題について扱うという実存的な姿勢は、フロイトの「儚さ」に確かに見られるが、それによってフロイトは実存主義を超えた、ということはとてもできないとホフマンは言う。そしてフロイトは儚さや対象の有限性について二つの態度を分けてはいる。一つは詩人に見られる姿勢、すなわち美がいずれ消えてしまうということを認識することが物事の価値を奪うという事への恐れであり、もう一つは美が儚いことで価値や美しさを得るという認識である。これは私たちがすでにみた主張1、主張2に対応するということになろうが、しかし現実にはこの二つの可能性の両面が相矛盾する形で存在するという実存的な体験の在り方をとらえてはいない。
 この相矛盾するフロイトの立場を統合するうえでホフマンが提起するのが、弁証法的構成主義である。その理論によれば、私たちの体験は儀式的な相と自発的な相との弁証法的な関係により成立している。私たちの死すべき運命はこの儀式的な側面を表し、私たちの生は自発的な側面に相当する。そして両者はお互いに根拠を与えあう関係にあり、私たちの生は死後の世界の圧倒的な不可知性やそこに広がる時間の永遠性を背景にすることで意味を持つのである。
 このホフマンの見地からは、フロイトの見解2に見られる問題、すなわち対象の儚さがその対象に価値を与えるという提言については、ある種の回答を用意していることになる。つまり生は限界を背景にして意味を持つことになる。ホフマンはそのことを実際の死を目前にした人々の証言から実証したのである。