2025年5月21日水曜日

週一回 その5

 我が国の「週一回」の議論の特徴とその限界

 これまでの我が国の「週一回」の議論は、ある一定の学問的なレベルに至っていることは明らかであるものの、それはある限定された前提に基づくものということが出来る。そこでは治癒機序として基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈の重要性を重んじるという立場に立つのだ。そしてそこでの「コンセンサス」、すなわち「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」の根拠としては、週4回という治療構造では「供給が十分」であり、「週に一度のセッションではそうではない」(2023, p.67)ため、週4回では容易に転移の収集が出来、それを扱うことが可能であるものの、週一回ではそれが難しいということである。

 ここで二つ問題をあげるとしたら、まず第一には、この「週4回では転移解釈が可能で週1回では難しい」という線引きはやや恣意性ではないか、という点である。もちろん「コンセンサス」の内容は、一般的な傾向としては言えるかもしれない。ただし転移の集積は週4回という設定を設けることで自然と生じるのかと言えばそうではない。週4回でも患者の抵抗が大きく情緒的に深まらずに疎遠なままの関係もあれば、週一回でもより充実した深い関係性が築かれることもある。しかしこの議論に立ったとしても、「週1回」で転移が扱えないという結論は導かれず、せいぜい「より難しくなる」という表現の方が妥当であろう。そしてもしPOSTのように「転移をそもそも扱わない」という方針を最初から取るとしたら、そこでは数少ないが転移が扱えるような治療状況を切り捨てることになり、大切な治療の機会を失うことではないか。むしろ妥当なのは、週何回会うかに関わらず、転移の収集の程度を見ながら、それを扱うかどうかを判断することであろう。岡田の砂金の比喩を用いるならば、たとえ金の鉱脈の中心(週4回)ではなく周辺(週1回)でも、砂金が存在する限りはそれを収集された場合は、それに応じて分析的な治療を行うことが出来るのであろう。それは最初から砂金を探さないという立場とは異なる。

 ただしこの第一点目は、「コンセンサス」への決定的な反論とはならないであろう。それを相対的なものとして割り引くならば、「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」は依然として妥当であると言えるからだ。
 しかしここでいう恣意性、ないしは蓋然性の問題は様々な形を取りうるという点も付け加えておきたい。そもそもフロイトが週6日で患者と会っていたことを考えると、週4回はすでに「薄まって」いるはずだが、その議論はなぜか乏しい。また最近ではアイチンゴンモデルが変更され、国際的には週に3回も分析的なトレーニングとして認められることになったが、そうなると「週4以上では」という議論はどうなるのだろうか。また藤山氏が語っているように、週2回はすでに週一回よりはるかに分析的であるという見解もある。(個人的には私も賛成である。)するとますます「週4回とそれ以下」という線引きは相対的、恣意的ということになりかねない。

「コンセンサス」の第二の問題は 数十年前に提唱された Strachey の提言を現代まで持ち越している点である。現代の精神分析においては、治癒機序の議論も多元的になりつつある。ヒアアンドナウの転移の解釈のみが治癒機序であるという考え方は1970年代以降メニンガーにおけるPRPの結果を受けて大きな再考を余儀なくされてきた歴史がある。それを現在の議論にそれこそ「平行移動」して論じることには問題があろう。この点については、以下の章で再び扱うことになる。