推敲と言いながら、新しい部分を書き加えているだけで、全然推敲になっていないが、ともかく続けよう。(まだ考えが固まっていないので、このようなだらだらした思考が必要なのだ。) このタイトル(「遊戯療法と精神療法- その懸け橋としての愛着理論」)を思いついたときの思考の流れを再現してみる。私は愛着における母と子の右脳どうしのコミュニケーションにとても興味を持っている。それはある意味では二つのAIどうしの相互学習にも似ている。AIどうしでのやり取りで両方のAIのパラメーターの重みづけの変更が刻々と行われるわけだが、神経ネットワークの構築や改変においても類似のことが起きている。そしてそこで決定的に重要なのが、推論を立て、あるいは予想をし、それを相手により訂正されるということの積み重ねなのである。そのなかで乳幼児は他者を認識し、それと交流することを学ぶのであるが、これは実に革命的なことなのだ。いったいどうやって赤ん坊は他者の中に自分を見て、あるいは他者の心を自分の中に映し出して、交流するという複雑極まりないことが出来るようになるのだろうか?(ただしこれが意外にもAIを相手にして類似のことが成立してしまうというのが不思議なところだが。) ともかくそのような不思議な現象が生じるのが愛着のプロセスであるが、じゃれ合いはその中でも最も興味深い現象だと思うのだ。しかもこれが動物のレベルで実に間近に生き生きと観察されるのが面白い。 たとえばライオンの子供どうしがじゃれ合う。一方が相手に襲い掛かるふりをする。相手はそれに真っ向から対立するのではなく、襲い掛かられる(ふりをする)ことに甘んじる。そして次には攻守交代となり、襲われ、組み伏せられた方が今度は相手に襲い掛かる(ふりをする)ということを延々と繰り返す。その時に襲う、襲われるという関係のバランスが取れているというのが、じゃれ合いを観察して得られる所見であるというのだ。そしてその際、子ライオンは爪を肉球の下に格納し、相手を痛くしないということが重要なのだ。 ところでこのじゃれ合いには大きな快感が伴っていることが見て取れる。だから延々と続けられるのだろう。ライオンの子は、自分の一撃がどの程度相手にダメージを加えているかをかなり慎重に見極めているはずだ。つまりは相手に共感しているということになる。言い換えれば一撃が強すぎないような抑制が常にかかっているということであるが、これは相手への「愛情の表れ」なのだ。あるいは愛情という言葉があまりにもおおざっぱというのであれば、それは「同一化」によるものであり、すなわち相手はある意味で自分の一部であり、その意味で相手の痛みは自分の痛みでもあると言い換えることができよう。相手を叩く手の強さを抑制するのは、自分の身体を叩いたり掻いたりするという行動に当然のごとく伴う抑制と同質のものなのだろう。 さてそのようなじゃれ合いが最初に起きるのは母子間であるということは容易に想像できる。子供はきょうだい同士のじゃれ合いの前にまず、母親との間でそれを体験する。最初は母親は絶好の、あるいは唯一のじゃれ合いの対象なのだ。なぜならわが子に同一化し、その痛みを自分のものとして体験するのは、幼児が幼い時の母親に顕著に表れる心性からだ。(同じ母親でも血を分けていなければ、その子を殺めてもおかしくない、というのも興味深い。) 最初は子供は母親を打ったり引っかいたりする際に手加減はしないだろう。何しろ相手が痛みを体験する主体であるという認識は生まれていないからだ。母親は最初はそれを軽くいなし、あるいはされるがままになっている。ところが子供の攻撃が痛みを伴うほど強かった場合、母親は一瞬本気になり、牙をむく。それは母親から子に絶対に伝達されなくてはならない情報だ。子供はこの時不思議な体験をする。自分の行為により相手が痛みを持つ体験であり、これが他者が自分の中に像を結ぶきっかけであると Winnicott は言う。対象がいったん死に(そうになり)、そして生き残るという現象である。子供はこの体験に没頭するはずだ。そして自分を中心とする世界で何が起きたかを習得することに全力を注ぐ。それは自分の心という装置の基礎部分が形成されるプロセスだからだ。(受精した胚が分裂していくという最初のプロセスのようなものだ。) 子供が母親とのじゃれ合いで体験しているのは、一種の認知の反転現象ではないだろうか。相手に攻撃(の真似事)を加えて次の瞬間に相手の主観の側に立って、そのダメージを推し量る。そしてまた自分の主観に戻る、というくるくると反転した体験が小気味よいのだろう。ちょうど小動物をもてあそんだり、母親の尻尾にじゃれ合っているときの感覚と似ているのだろう。自分―相手―自分―相手・・・・・。ごっこあそびや as if 体験と似ている。これらの場合は現実―ファンタジー―現実―ファンタジーのクルクルの反転現象が小気味いいはずだ。 私はこの母親とのじゃれ合いは、仲間同士のじゃれ合いと分けて考えるべきであろうと思う。母親とのそれは、他の個体と共存し、生きていくための必須のプロセスである。それに比べて仲間とのじゃれ合いは、それこそ攻撃や性行動の準備としてのそれである。そうしないとこれまで既にみたように、子供のRTPがどうして将来の攻撃性と結びついてしまう可能性が有るかをうまく説明できないからだ。