人間ではストレスによりロカールシステムの抑制機能が低下し、タクソンシステムの働きが優位になる。するとそれまでうまく抑制されていた恐怖体験を再浮上させるという。これが精神分析で言うところの「より原初的な防衛メカニズムへの退行」であるという(Jacobs and Nadel, 1985 )。すなわち表面上はパニック発作が収まったとしても、オリジナルな記憶はずっと眠っていて、ストレスで再活性化されるということだ。するといったん収まったパニックが別のトリガーで引き起こされるという症状変遷が起きる可能性がある。そしてその治療手段としていわゆる stress inoculation (ストレス免疫訓練)がある。これは将来のストレスに対して認知的な準備をしておくということだ。それはロカールシステムによる抑制力を高めるということに通じる。 ここでロカールシステムに関与している海馬は養育上の問題とそれによる不安やパニックの生じやすさに深く関係している。Sapolky らの研究によれば、海馬はストレスと深く関係する。主要なストレスホルモンであるグルココルチコイド(以下GC)の主な役割は、緊急時に筋肉や脂肪を分解して、脂肪酸やアミノ酸を作るとともに免疫反応を一時的に抑えることであるが、海馬はこのGCの受容体をたくさん持っている。海馬はそれにより血液中のGCの量をモニターし、ネガティブフィードバックをかける役割を果たす。すなわち高値のGCを検知すると、海馬は視床下部や脳下垂体に働きかけ、GCの産生を抑えるよう副腎皮質に促すのだ。 ところが海馬は高濃度のGCに晒されることでダメージをこうむり萎縮することが知られている。これはPTSDの患者の海馬は萎縮しているという研究結果と一致するのだが、実はPTSDになりやすい人は最初から海馬が萎縮しているという研究もあり、ストレスと海馬の萎縮との因果関係は双方向性らしいとされている。 ところで母子関係が十分に成立している場合にはこの海馬のGCのリセプターがたくさん作られ、それによりストレス時のGCの値をコントロールできることになる。逆にそれが不十分な場合にはストレスに弱く海馬のGCのリセプターも少ないということがラットの研究などで知られている(Cozolino, p253)。 まとめるならば、パニックには扁桃体と海馬‐皮質系が密接に関係している。また外傷記憶が生じる際には青斑核の関与も重要だ。そして愛着期の問題は将来のパニック発作に深く関与する。海馬を介する記憶システムが機能し始める前の愛着の時期に受けたトラウマは、無意識的な記憶となって将来のパニック発作に関与するが、それは具体的なトラウマ記憶を伴わないことになる。 以上のような脳生理学的なメカニズムを念頭に置いたうえで、パニックや不安症状を持つ臨床例について改めて考えてみる。彼らのパニック発作は日常におけるストレスにより惹起される傾向にあることが指摘されている。Kendler(1992)らの研究では、恐怖症はいわゆるストレス―脆弱性モデルによくあてはまるという。つまり生まれつきの気弱な気質と同時に環境の要因が大きいということだ。特に17歳以前で体験する親の死や、過保護的であると同時に放棄する親の姿勢が大きな要因となっているという。また養育期の母親のストレスが大きな影響を及ぼすという研究もある(Essex et al. 2010) 。 パニックの患者の多くはその発症に先立つ何か月かにおいてストレスフルな人生上の出来事を見出すことが出来、(DSM‐5‐TR,p244)特に死別が関係しているという(Faravelli and Pallanti, 1989)(Gabbard, p.263)またある研究はより多くの患者について両親からの離別や死別、ないしは早期の母子分離が関係していることを示しているという(Milrod et al. 2004)。またジェロ―ム・ケーガンによる研究では、パニックの患者は子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとされる。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(Gabbard, p264)。 同様の傾向は社交不安障害(SAD)についてもいえる。上述のジェローム・ケーガンの子供時代の「見慣れないことに対する行動上の抑制 」という特徴はSADにも当てはまるとギャバ―ド先生は記述する。そしてSADにおいてもSSRIなどの抗うつ剤だけでなく、精神療法が有効であるというのだ。SADにおいては力動的療法はCBTと比べると、後者に軍配が上がるという。そして力動的な治療者であっても患者を恐れる状況に直面化することを奨めるという。 不安障害の場合、恐れている状況に直面しない限り、無意識の連合ネットワーク unconscious associational netoworks を改変する事は出来ない。なぜならそれは扁桃体や視床などの皮質下の経路を含み、それは解釈などの認知的、大脳皮質的なアプローチでは改変できないからだという。フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がないという現実だ(2003,p835)。 つまり精神分析では意識的な問題をあまり扱わないという不文律があることが、かえって表面的な不安や恐怖症の症状を扱わないことになっている可能性があるのだ。