実はこのワークショップのテーマと同じような内容の連載をネット上で去年一年間書いたことがありますが、私の今日のお話はだいたいそこから来ています。私は最初チャットGPTに悩み相談をしてもらおうと思ったのです。そこである個人情報を伝えて相談をしたところ、しばらくはそれを前提として話に乗ってくれましたが、次の日に立ち上げた時は、私の個人情報はすっかり消去されていました。それもそのはずで、情報漏洩の観点から生成AIは個人情報を記憶はしないことになっているのです。(その代わりRAGというものがあります。これは「検索拡張生成」Retrieval-Augmented Generation と呼ばれ、そこに個人情報を入れ、それを生成AIとつなぐわけです。) それはいいとして、私が考えたのは、ファンタジーとして描くのがフロイトロイドです。フロイトロイド(フロイトもどきのロボット)は私専用のセラピストです。使えば使うほど私の情報を知り、賢くなります。これは通常のチャットGPTには備わっていない機能で、私もチャット君に、そしていわば個人仕様のAIを作るのです。私は最初このRAGにフロイトの著作集をすべて読み込ませ、その書簡集もフロイトについて書かれた論文などもすべて読ませたうえで、LLM(大規模言語モデル)につなぎます。そしていろいろ悩み事を話します。フロイトロイドは私の悩みにフロイト流の解釈を行ない、夢解釈もしてくれます。
そのうち私たちはフロイトロイドに幾つかの質問をするようになるでしょう。精神分析の論文を読み込ませて査読をしてもらいます。フロイトロイドが「価値なし」と判断した論文は没になるとか。
しかしこのようなアイデアはそのうち、私ロイドを作りたくなるという発想に繋がるでしょう。私はコンピューターの右脳の代わりに私仕様のRAGに過去のあらゆる思い出、作文、他人との会話を読み込ませます。実は私はこのことを見越して、生まれて物心ついた時から他人と交わした会話をすべて録音していましたので、それを読み込ませます。そして最後に自分の恐らく60歳ぐらいの姿をさせて、岡野ロイドを作り、もちろん声も私の声門を読み込ませます。すると私が死んだ後、あるいは死ぬ前から岡野ロイドが存在していて、私はいつも対話をしてお互いにディープラーニングを行ない、あらゆる勘違いについての岡野ロイドの間違いを指摘しておきます。すると私がボケ始めた頃には、人は私ではなく私ロイドにいろいろ意見を求めるようになるでしょう。生身のボケ始めた岡野よりは、岡野ロイドの方がよっぽど頼りになる、というわけです。こうやってユングロイド、ソクラテスロイドなどの様々なAI賢人が生まれてそのブラッシュアップを競うでしょう。これって面白そうではないですか?
さてここで今日のお話のテーマにも近づくのですが、岡野ロイドに心はあるでしょうか?私は生成AIにこころを求めるのはまだ早いと思います。ただ一つ言えるのは、それは間違いなく知性であるということです。渡辺先生の「意識の脳科学」では、人工知能は意識を持ちうるか?という章では、それが可能のように書かれていますが、私は少し違う考えを持っています。いわゆるチューリングテストやジョン・サールの「中国語の部屋」がありますね。チューリングは人間と区別できなければ、コンピューターには知能があると言ったらしい。強いAI仮説 strong AI hypothesis というのがこれのようですが、彼は理解や意図 understanding" (or "intentionality")がなければ、機会が考えているとは言えないし、ということは機械には心mind がないと言ったわけです。
Searle argues that, without ", we cannot describe what the machine is doing as "thinking" and, since it does not think, it does not have a "mind" in the normal sense of the word. Therefore, he concludes that the strong AI hypothesis is false.
ただし私はチャット君には少なくとも知性 intelligence があると思う。しかし心 mind はありません。というのも私はしつこいぐらいにチャット君に聞いたことがあるけれどないと言い張る。だから信じています。でも知性で十分ではないか。フロイトロイドに心はなくても、何らかの足しにはなってくれるし、加藤先生のおっしゃるように治療者の役割を果たしてくれると思います。ただ私たちは今の段階でAIにクオリアを求めることは出来ないし、それは大脳辺縁系を備えていないから。渡辺先生にお伺いしたいのは、アップロードされた意識は痛みを感じるかということです。