2024年10月18日金曜日

「●●的ワークショップ」に際して思うこと その4

 久保田泰考先生のテーマはひとことで言えば、心は、意味は、非時間的であり得るか、ということである。これも難しいテーマであるが、私達の意味を産出し、理解するという活動がAI上のどの様な動きとcorrelate するかというのは興味深い問題だ。久保田先生は、脳の活動パターンは、言語学的特徴よりも、BERT(言語モデルの一つ)の処理プロセスと類似すると述べる。 これは要するに、私たちが言語で考えているわけではないということを意味すると私は思う。 例として、「犬が人を噛む」と「人が犬を噛む」という文章を考えよう。この両者の違い、特に後者の奇妙さは、英語で言われても、日本語で言われても「わかる」という感覚は同質であろう。「人が犬を噛んだ」というニュースを読んだ時の違和感や奇妙な気持ちは、それが英文であっても、日本語であっても同じだし、そのことを後で思い出す時に「あのニュースは英語で聞いた」ということは普通起きない。どの言語で得られた情報かはどうでもいい事だし、いったん脳に入った後は、その情報の媒介といての言語から意味はあっという間に離れてしまう。そしてそこで想起するのは、AがBにCをする、というシークエンスであり、この場合はAが人、Bが犬、Cが噛む、に相当する。これは一つの記憶と言ってもよく、その意味というのは、それを思い浮かべた際にそれが刺激する様々な記憶の種類や特徴による。 例えば犬が人を噛むというシークエンスを思い浮かべた時に連想する記憶と、人が犬を噛むというシークエンスを思い浮かべた時の連想とでは全く異なる。それが「意味」の違いなのだ。とするとこの人、犬、噛むをBERTに読み込ませた時の動きはこのシークエンスを作ることであり、それ自体は文法に従った処理ではなく、つまり言語学的特徴とは異なるものというわけだ。そしてこのシークエンスが決定的であるという意味では、久保田先生の発表の冒頭に出てくる「絵」のような言語は存在しないことになる。それは少なくとも「動画」ないしはメロディーの形を取らざるを得ない。 このように考えるとAIがやっていることは恐るべきことだ。私達が何かを語りかけると、それに対する答えとして最も確率の高いものを、それが正確かどうかとは関係なく生成する。これは言語活動というより一種の反応の応酬のようなものだ。しかしこれが人間のしていることと異なるかと言えばそうではない。私達も誰かに何かを質問された場合、それから思いつく連想を言っているに過ぎないことが多い。それは質問の意味が必ずしも正確に伝わるわけではなく、またその質問の真意にそのまま正直に答えることを回避したいからでもあろう。政治家の間の論争を見るとそれがよく分かる。 このように考えると無意識とは何かということについてもフロイトのそれとは異なるイメージを思い浮かべざるを得ない。私の立場では、無意識の代わりにあるのはニューラルネットワークであり、そこで自動的に生成されるもののうちの最も表層が意識として登ってくるに過ぎないというものだ。無意識に何かが隠されているというよりは、ニューラルネットワークの中である表象ともう一つの表象がより太い神経線維のつながりを持っているか否か、ということなのだ。少なくともそれは無限に存在する意味の宝庫ではない。例えば「人で犬を掻む」「犬に人を噛む」「犬と人を噛む」などの意味は存在してはいるにしてもほとんどそれらの間に繋がりが成立することがなくそこにジャンクとして存在するに過ぎないだろう。