2024年5月25日土曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正部分 1

 自己欺瞞

人はかなり頻繁に、自分自身にとって都合のいい嘘をつく。そしてそれをいつの間にか真実のこととして処理してしまう傾向もある。これをここでは自己欺瞞による虚偽記憶と呼ぼう。この問題について、私は別の著書で論じたことがある(岡野,2017、p.126~7)。心理学者Dan Arielyは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みつつ論じている。
  Arielyは、従来信じられていたいわゆる「シンプルな合理的犯罪モデル」(Simple Model of Rational Crime, 以下、SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決める、というものだ。つまり露見する恐れのない犯罪なら、人はごく自然にそれを犯すのだ、という考え方である。このSMORCは人間の性悪説に基づく仮説であり、以前から存在していた。
 しかし Arielyのグループの行った様々な実験の結果は、このSMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらい、その正解数に応じた報酬を与えるという実験を行った。その際第三者により厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告された。つまり自己申告では2だけ水増しされていることがわかったという。
 さらに正当数に応じた報酬を高くした場合には、それにより後ろめたさが増すせいか、虚偽申告する幅はむしろ減少したという。また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば「虚偽の申告をしないように」、という注意をあらかじめ与える、等) それによっても虚偽申告の幅は縮小した。その結果を踏まえて Arielyは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじて保てる水準までごまかす」

そしてこれがむしろ普通の傾向であると主張したのである。
 もう少しわかりやすい例をあげよう。あなたが釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、あなたはさほど良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に「自分は6尾釣った(ということは釣った2尾は逃がした、あるいは人にあげた、と説明をすることになる)」と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」するというのだ。
 話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と人に聞かれれば、私たちの多くは「すごく良かった」というだろう。食レポなどを聞くと、「すごくおいしい!」などと、この傾向はさらに顕著であろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でもその様に言うものである。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。そしてこれは日本文化に限ることではない。
  このような、いわば社交辞令としての「盛り」以外にも、私達は日常のエピソードを話す時は、「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきであろうか。そして Arielyの「魚が6尾(本当は4尾)」はその類、あるいは延長上にあるものと考える。
  この様な自己欺瞞による嘘は、単なる嘘とは違い、それを事実として確信することに一歩近づいていると言えるだろう。つまりその様な場合、私たちはその虚偽性をどこかで意識しつつ、同時に否認しているところがある。そしてそれが本格的な虚偽記憶に移行する素地を提供するのである。なぜなら「魚を6尾釣った」と公言することで、前述した言語化することによる記憶の歪曲はより成立しやすくなるからである。そして数週間後、あるいは数か月後は実際に魚を6尾釣ったという記憶に置き換わる可能性があるのである。