2024年5月24日金曜日

「トラウマ本」脳とトラウマ 加筆訂正部分 1

 巨視的な脳と微視的な脳

 上記の「シェルショック」は、トラウマが脳のレベルで生じるという発想がかなり以前から存在したことを示すつもりで紹介した。発案者のMyers先生に、砲弾の衝撃波が、脳のどの部分を侵襲したのかを尋ねても、その症状から想像されるいくつかの部位を挙げる以上のことは出来なかったであろう。そしてその症状自体がケースによりひどくバラバラだったことを思うと、かなり大雑把な推論にもとずく概念であったことが伺える。つまりは「シェルショック」は巨視的、マクロスコピックな発想ということになろう。

 しかし現代的な科学技術に裏付けされたトラウマ理論は、その部位をかなり詳細に特定するに至っている。現在のMRIの解像度はミリ単位であることを考えると、脳のかなり特定の部位の変化が画像上に示されることになる。これはある意味ではマイクロスコピック(微視的)な位置づけという事になる。
 そしてその意味では「シェルショック」で生じている可能性がある脳の神経線維レベルの変化もマイクロスコピックなレベルでの話ということにもなる。その意味では現代の脳科学は精神疾患における病変の部位を微視的なレベルに焦点付けるだけでなく、巨視的なレベルの視点も併せ持っていると言えるだろう。

 この文脈で私が個人的に興味深いと感じているのは、脳の巨視的なレベルでの病変を考える、いわゆる脳の炎症モデルだ。最近ではうつ病の基盤にある種の炎症反応が関与しているのではないかという説が唱えられている(O'Donovan, A., Rush, G. et al. 2013
 これまでうつ病は神経伝達物質(セロトニン、ノルアドレナリン、など)の異常と考えられてきた。いわゆるモノアミン仮説と言われるもので、シナプスにおいてその量を調節する目的で抗うつ剤が開発された。
 しかしそれらの投薬が有効であるとしても、それによるうつの改善は時間がかかる。そもそも深刻なうつ病には前兆があり、徐々に食欲や睡眠が損なわれていき、気持ちがふさぐ、涙もろいなどの鬱症状が生じるようになる。そしてそれがよくなっていくのにも時間がかかる。そのような進行の仕方が、炎症、例えば喉のかすかな痛みにより始まり患部の腫れや発熱に至る扁桃腺炎や関節リューマチなどと似ているのである。
 脳においても、例えばストレスにより血液中の炎症性サイトカインが上昇することが知られ、そこには中枢神経系の免疫を担当するミクログリアが関与しているのではないかと考えられるようになった。ミクログリアは神経細胞を支える神経膠細胞(グリア)の一つとして分類されているが、れっきとした免疫細胞であり、脳の細胞の10%程を占めるという。そしてうつ病の危険因子としての小児期のトラウマそのものが、炎症の惹起性に影響を与えているというのである。

 ストレスやトラウマとうつ病の関連については、私たちが昔からよく耳にした視床下部―下垂体―副腎のいわゆるHPA軸機能の障害の関与を思い出す。こちらは身体のレベルでのストレス反応を説明するが、脳のレベルでのストレス反応も生じ、それがうつ病に関与していると考えられるのである。そしてこのような視点そのものが、極めてマクロスコピックな脳の病理の捉え方ということが出来るのである。