昨日の続きである。自分が書いた「報酬系の働き」を読んでみたが、まとめると次のような内容だ。報酬系でドーパミンが放出されると私たちは快感を覚える。しかしそれは不思議な性質を有する。それはいわば快を頭の中で先取りした快なのだ。つまり快そのものではなく、その約束手形のようなものなのだ。ネズミはシロップを味わう前に、味わう権利を獲得したことを喜ぶ。それはシロップの美味しさそのものからくる快とは異なるのだ。そしてこの種の快はそれが不在であることの苦しみを引き起こす。これが渇望である。
もう一度整理しよう。シロップは甘く美味しい。ネズミはある日初めてそのシロップを味わう。「美味しい!」しかしその時の嬉しさは甘さだけによるものではない。「なんだ、こんなことが起きるのか!」という驚きを伴った嬉しさ。こちらがドーパミンの関与する嬉しさだ。そしてそれは本来の美味しさからくる快とは遊離していく。
ここで思考実験だ。ネズミはシロップが美味しいという。そこでそれを数値化して、Lとしよう。そして意外性からくる喜びをDとする。すると初日の快は、L+Dという事になる。そしてネズミはそれを数日間続けて、午後3時の時計が鳴ると、おやつとして運ばれてくるのを体験する。期待という事を学ぶのだ。するとネズミは3時の時計の音を聞いて、すでにDという喜びを味わうことになる。シロップ自体は変わらないのでLという喜びを得る。しかしD自体はシロップを実際になめる時には体験しない。なぜなら時計が鳴った時点ですでに体験したからだ。
もう少し進める。ネズミがこの体験を十分に積んだところで、ある日シロップが運ばれてこない。「どうして?」とネズミは苦しむ。お預けをくらったことがつらいのだ。その苦しみはどこから来るのか。Lを体験できないからだろうか? いや決してそうではない。Dという期待が裏切られたからだ。このことは自然界で暮らすネズミを比較して考えれば分かる。ネズミは人間様の家の中をごそごそと動き回り、パンの欠片を見つける。まあこれをシロップと同じようなものと考えよう。「やった」、というDと「おいしい」というL。でもいつ同じような幸運に恵まれるかはわからない。ネズミは再びパンの欠片を見つけないことで苦しむだろうか?そんなことはない。もともと期待していないからだ。飼いならされたネズミだけが期待という事を学び、その結果として3時の時計の後お預けをくらった場合に苦しいのだ。ではその苦しさはどこから来ているのか。
ここで秘密を明かさなくてはならない。実は脳内ではDは一定の量で常に与えられている。報酬系は弱いDつまり d を常に体験させてくれているのだ。そしてその上で期待をした時には大きなDを味わう。ところがお預けをくらった時は、それでも普通なら体験出来ていた d がゼロになってしまう。これには耐えられないのだ。つまり期待という形でLから遊離したDは、それが得られなくなった途端マイナス d という苦しみとなって帰ってくるのだ。
さてここで嗜癖に関する一つのモデルが成り立つことになる。ネズミがいつものようにシロップを味わっていたが、ある時からさほど美味しくないとする。Lのつもりがその半分くらい(L/2) に減っている。実際は2滴貰っているのになぜか美味しさはいつもの半分になっているのだ。するとネズミは不当にも d/2 の苦しみ(幻のお預け)を体験することになる。もし脳の中でそのようなことが起きるとしたら、報酬であったはずのシロップは苦痛を生むことになる。そしてこれが嗜癖モデルとして完成するためには、もう一つの条件が必要になる。Lが半分に目減りしたのに期待がDのままであった場合だ。するとこの苦しみは慢性化することになる。実際の嗜癖がこのモデルに従うかどうかは明日もう一度検討しよう。