サイコパスの「悪魔のトリアス」
もちろんこの快感が性的なエクスタシーに繋がらない場合もある。その場合は残虐な行為は単に心地いいというだけに留まることになろう。もちろんそれでも人はその行為を繰り返す。ところが連続殺人のような行為の場合、一回ごとに激しい快楽と達成感が伴うことが多い。そしてそれが性的な快感を呼ぶことでその行為の常習性は決定的なものになるのである。
人はこう問うかもしれない。「それにしてもなぜサイコパスは場合によっては厳しい処罰を加えられるリスクを犯してまで、人に対して残虐な行為が出来るのですか?」
しかしそもそも彼らには処罰されることへの恐怖が欠如している。つかまって処罰を受ける場合には、それはそれで仕方ない、くらいにしか思えないのだ。もちろん扁桃核の不具合がそうさせている。扁桃核は恐ろしいもの、恐怖の対象から急いで逃げることで生体を守っている。「処罰」もその一部である。しかしそれが怖くないとしたら、抑止力はほとんどないに等しい。実際に厳罰化がサイコパスにとってはその行為の抑止にならないということはよく知られる事実だ。
サイコパスの彼らにとっても不快なことは嫌いだ。それは私たちと特に変わらない。そして彼らはそれをできるだけ回避したいのだ。あるサイコパスはその手記で、服役中に自分の刑期がさらに延びたのを知って心底嘆いたという。この様に彼らにもしっかり感情はあるのだ。しかしそれはやはり恐怖や不安とは異なる。ちょうど私たちが朝起きて仕事に出かけるとき、あいにく嫌な空模様で傘をさして駅まで行かなくてはならないことを知った時は、かなりがっかりするだろう。もちろんそれは「嫌」で回避したくなるかもしれない。しかし「恐怖」ではないのだ。そして恐怖や不安が伴わない事柄に対して、私達はかなり鈍感になる。彼らが厳罰が下されることに恐怖を抱きにくいことが、彼らの犯罪の常習性と結びつく。こうしてサイコパス達は、シューティングゲームで敵を倒すのと同じような感覚で実際に人を恐怖に陥れるのである。