2022年12月13日火曜日

神経ネットワーク 3

 アルファー碁の独創性は本物か?

  ここで一つの疑問を呈してみよう。イ・セドルとの対局でアルファー碁が見せた第237手目は独創的だったのだろうか? 私の見解では厳密な意味では独創的でない。なぜなら結局のところ神経ネットワークで生じる事柄は決定論的(論理的な必然性を伴ったもの)だからだ。コンピューター上で作り上げられる仮想的な神経ネットワークは要するに「揺らぎ」がないからである。そこでどのような新たなネットワークが生まれようと、それは厳密的に言えば偶発的ではない。例の第37手目は、おそらくもう一台のアルファー碁でも算出したであろう手なのだ。そしてそれはそのプログラムが計算した最善の手であり、唯一の「正解」なのである。

ここの点をお分かりいただけるであろうか? ちょうど円周率と同じである。円周率を計算させると一見でたらめな数列が何万、何億と連なるが、同じプログラムで計算している限りは他のパソコンでも全く同じ計算結果を何億桁に及んでも出し続けるのと同じように。

 ところが人間の神経ネットワークは揺らいでいる。そこには偶発的な突然変異の様な事が生じる素地がある。遊びや偶発性がとんでもない発想を生み出すのだ。そしてそれは「正解」ではない。

この様に考えると人間の行う発見にも独創的なものと独創的に見えて実は「正解」なものがあるということに気が付く。ガリレオが天動説に代わって地動説を唱えた。これは「独創」だろうか?おそらく違うのだ。独創とは彼がいなければ恐らく半永久的に作り上げられなかったものだろう。ところが先見の明のあるほかの科学者が結局は至る「正解」だったとすれば、その科学者の頭の中にあるコンピューターが他の人より性能が良かったから、たまたま先に見つけたということに過ぎない。

 それに比べてダヴィンチのモナ・リザはどうか。こちらは「正解」ではないし、彼から数年遅れて他の芸術家が描き上げたであろうものでもない。
 そう、ここが巨大パーセプトロンと生体である神経ネットワークとの相違点なのである。