2019年9月9日月曜日

フェレンチ再考 1

 しばらくフェレンチについて書かなくてはならない。彼は非常に数奇な運命をたどった人である。彼は国際分析協会を創立し、最初の精神分析の教授になった(ブタペスト大学)。そしてIJPA(国際分析学会誌)も創設した。フロイトでさえ彼のことを「精神分析のマスター」と呼んだのだ。でも彼が晩年に唱えた革新的な議論は彼の悪性貧血のための妄言とされてきたのである。それが彼のかつての被分析者であるアーネスト・ジョーンズの手によるものであったことは皮肉なことだ。
森先生の必読書
一つ大事なことは、フェレンチの仕事をたどるのは、そこから何を学べるかが重要であって、彼が正しいか間違っていたか、という問題はないという事である。フェレンチは八方破れなところがあり、多くの過ちを犯したとみていい。しかしそれはむしろ人間として多かれ少なかれ起きることである。同じことはフロイトにも言えるが、フロイトの場合は間違った部分を多くの弟子が糊塗してしまったという点が特徴的だった。その結果フロイトの実像はその問題とされるべき側面も含めて最近になって徐々に明らかになってきたというところがある。私はつくづく考えるのだが、フェレンチはいわば精神分析にとって劇薬のような存在だ。気軽に扱ってはならない。しかし最近のトラウマ理論の波に乗り、どうやらフェレンチは気軽に言及されるようになっているようだ。しかしそれには注意しなくてはならない。思えば心理学の歴史では、倫理的に問題になりかねない冒険的な実験が行われたことで、多くのことが教訓となった。モニス等によるロボトミー手術、ミルグラムのアイヒマン実験などなど、である。フェレンチの業績にもそのようなニュアンスがある。ただしそれをいわゆる「キッシングテクニック」にまで広げ、それも治療技法として考えていいのか。彼の患者さんへの身体的接触も純粋に治療的な目的に含むべきなのか。これは比較的重要な問いである。そしてそれと複雑な形でからんでくるのが、フロイトとの訣別であり、フェレンチが精神的に病んでいた、という説である。これは本当なのか。フロイトはフェレンチの態度の持つバウンダリーを超える危うさから彼を叱ったのか。それとももう少し個人的な感情が絡んでいたのか。フロイトとフェレンチの対立は、精神分析の歴史におけるトラウマであるとバリントは言っているというが、それはその性質を明らかにしない限りはトラウマであり続けるだろう。