2019年9月8日日曜日

書くことと精神分析 推敲 10

ところで精神分析の原著論文でいかに独創性を盛り込むかについては、何をテーマに選ぶかも非常に重要になってくる。これまであまり論じられていないテーマを選ぶことはワクワクするような楽しみを感じさせる一方では、テーマとしてふさわしくない、と見なされる可能性がある。それを専門誌に投稿しても「面白いじゃないか」と言ってくれる査読者と、「なんだこれは、話にならない!」と即座に却下してしまう査読者に分かれるだろう。そこですでに多くの論文で論じられているテーマを選択すれば、その学問分野では適切なテーマとして受け入れられる可能性は高いものの、類似の他の論文とのし烈な競争がまっており、論理的な整合性や先行論文の研究のレベルにおいて一頭地を抜くことはそれだけ困難になる。査読もまた別の意味で厳しくなるだろう。このようにどこまで独創的なアイデアを打ち出すかは自らの自己愛との折り合いをいかに付けるかという問題にもつながるのだ。
さてここに査読者を登場させたが、実は論文を発表することとは、査読者との戦いを前提としていることも付け加えたい。かつてGlenn Gabbard先生がメニンガーで教鞭をとっていたころ、論文の書き方についての講義をしてくれたことがある。その時先生は、論文を書く際にはまず、どの専門誌に投稿するかを決めなくてはならない、という趣旨のことを言ったのを思い出す。30年以上前の話で、当時は納得が行かなかったが、今になるとその意味が分かる気がするのだ。各専門誌には独特の性格があり、そこで多く扱われてきた論文の傾向、あるいはそれが作り出す文化といったものがある。そしてそれと大きく異なっているものはなかなか受け入れられないという運命にある。だから受理される論文を書くためには、どの専門誌に投稿するかをまず決め、その専門誌にふさわしいスタイルの論文を書くという配慮はきわめて重要である。そしてその専門誌に論文を投稿する際に、自分の論文を読む二人ないし三人の査読者たちとの対話がどのように進むのか、という形で考える必要がある。
どの専門誌に投稿するかという視点が特に重要になるのは、英文誌に投稿を考えるという場合であろう。その場合には和文誌に投稿するのとはまったく異なる心構えが必要になる。そして投稿者はあらゆる意味でのハンディキャップを背負っていることを認識すべきである。あるテーマを持っていたとしても、その先行研究を探索する際には英語で書かれた論文に広く目を通す必要がある。そもそも精神分析がオーストリアのウィーンというドイツ語圏で始まり、その後多くの英語圏で発展したことを思えば、ドイツ語や英語を母国語としない私たちが彼らの議論に追い付くためにはそれだけ努力を払わなくてはならないのも当然と言わなくてはならない。しかもそこでの研究は熾烈で、適切な英語表現を込めた論文を作成する必要がある。
しかしその精神分析でも我が国からの発信が大きな意味を持つ場合がある。その例として北山修先生の業績を取ろう。海外に多くの論文を発表されている北山先生はかつて、日本人には日本人として貢献できる部分があるという話をされていた。日本には古沢平作先生や土居健郎先生のように日本の文化に根差した精神分析理論を構築して発進したという例がある。西欧人の土俵に乗るのではなく、こちらから新たな土俵を提供するような気概がなくてはならない、というお話だったと思う。
実はこの北山先生の話はそれまさしくその通りであり、しかも一般の研究についてもいえる。既に用意された研究の土俵に入る事には安心感が伴うかもしれない。しかしそこで何人もの研究者と競うことには大変な苦労を伴うだろう。おそらくその土俵ですでに発表された論文はことごとく目を通して理解しておく必要がある。他方で自分である土俵を提案し、作り上げることには不安やチャレンジ精神が伴うが、その土俵の中では先駆者となり、新たな情報を発信する側になることができる。もちろんどのような土俵を提案するか似はバランス感覚が必要であろう。精神分析という巨大な土俵の横に全く別な土俵を作ったとしても、ほとんど誰からも相手にされないであろう。そこで精神分析という土俵の中のすでにいくつか出来上がっている土俵に載り、その中に新たな土俵を提示していく必要がある。それはこれまで提出された土俵とかけ離れることなく、しかし他と区別できないような類似品であるわけにもいかないというバランスが必要となる。

まとめ
この論考が企画者の期待にどの程度沿うことが出来たかわからない。しかし著書を作るということについて私が思っていることの一端は伝えることが出来たと思っている。私の主張をまとめるならば、自己表現という目的のためには、著述というのはリスクの少ない、とても有意義な手段だという事である。ただしおそらく出版には我慢強さが必要かもしれない。著作はゆっくりとレンガを積み上げながら建物を建てていくようなものだ。しかし幸い肉体労働的な部分はない。特にワープロの出現とともに、原稿用紙の束を抱えて喫茶店をいくつか渡り歩く、という様な昔の物書きの姿はもう見られない。
出版は場合によっては仕事とうまく両立するレクリエーションのようにもなるだろう。仕事の合間に人は山に登ったり、旅行に行ったり、ゲームを楽しんだりするかもしれないが、そこで味わうことのできる快適さの質は、著述でほとんど味わえてしまうのである。
しかし著述はまた孤独で到達点の見えない作業でもある。一日パソコンと向き合うという生活の積み重ねに家族はとても味気なさと疎外感を持つかもしれない。ただし精神分析の著述は臨床と切り離すことができない。そこでの原体験が新たな著述につながっていってしかるべきであろう。その意味では精神分析の本を書くことは作者が孤独と唯我独尊に陥ることを防いでくれるのかもしれない。