2019年1月8日火曜日

昨秋の分析学会の、ドナオレンジ先生の講演への討論

今になって原稿に起こす必要が生じた。

ドナ・オレンジ先生への討論

オレンジ先生、大変刺激的な講演をいただき、大変ありがとうございました。私から討論者の一人という立場で少しお考えを述べさせていただきたいと思います。
まず私が非常に興味深く感じたのは、現在京都を訪れている二人の偉大な精神分析家が同様のテーマについて論じているということです。一人は京都大学に客員教授として滞在なさっているベルギーのルーベン大学のルーディ・ベルモート先生です。彼はビオンの研究者としても大変よく知られた先生で、最近京都で開かれた公開講座で、ある講演していただきました。そしてもう一方がオレンジ先生です。お二人は偶然にも非常に類似したテーマ、すなわち不可知について、あるいは表現できないことについて、そして沈黙についてというテーマについて論じられました。オレンジ先生は最初にウィトゲンシュタインについて論じ、彼が「書かれていないことの方が、書かれたことよりも重要である」と主張した点に触れられました。そしてそれはS.フロイトの談話療法talking cure とは大きく異なったものであったという点についても論じられました。私の立場からは、この種の沈黙は、「silence out of awe 畏敬の念から発する沈黙」と呼ぶべきものではないかと思います。私たちは知ることができず、触れることができないことについては沈黙を守るわけですが、それはそれへのリスペクトがあるのだと思います。ウィニコットのincommunicado (連絡の手段のない、関係をたたれて孤立した)もそのような意味があると考えています。さてオレンジ先生はこのことを、フロイトの解離を語ることの回避と関連付けて語られています。フロイトが解離を語らなかったのは、逆説的にもこの語られない問題に対するきわめて大きい関心を表しているのではないかと思います。つまりこの問題はフロイトにとっては、否認と言う防衛機制を用いて遠ざける必要のあるものだったわけです。フロイトのこの激しい反対と否認は、彼が弟子であるサンドール・フェレンチの晩年に示した態度を思い起こさせます。ご存知のとおりフェレンチはフロイトにとって息子のような存在だったわけですが、彼が有名な「言葉の混乱」(1933)の論文を書いたときに、それをそのままの形では発表しないように迫ったり、英語への翻訳に反対したりしたわけです。フロイトはヒステリーの患者には過去に性的なトラウマがあったという説を一時は信じていたわけですが、その後はそれに強く反対し、その説を蒸し返すようなフェレンチにも、その発表を取りやめることを迫ったわけです。オレンジ先生のレクチャーが私たちに考えさせるのは、このフロイトとフェレンチの間に起きた争いについて理解することなくトラウマや解離の問題を扱うことが果たして適切なのだろうかということなのです。さもないと私は基本的にはフロイトの引いた路線の上にいながらフェレンチにもいい顔をしていると言うことになりかねないのですから。
次にオレンジ先生が語ったのは、トラウマ的なことについて私たちが沈黙勝ちになると言うことです。ここで私たちはもう一つの沈黙について扱っていると言うことができると思います。これは恐れと痛みから来る沈黙です。私たちは痛みを持つ内容については、心の中で隔離、隔絶してしまうわけです。私はオレンジ先生が示唆しているのは、分析家の使命は、トラウマ的な視点を取り入れた場合にはさらに複雑であろうということだと思います。患者が沈黙を保つとき、分析家は何かが生じているのだろうと思います。しかしそれをどのようにアプローチすべきかを、私たちはどうやって知ることができるのでしょう? 何が起きているのかについてたずねないことは、患者さんが語らないことに対して敬意を示すことになるでしょう。しかしそれはまた患者に共謀して、恐ろしいものから目を背け続けることにもなりかねないのです。それをたずねることは、陽のもとにさらされるものを待っている素材を持ち出すことになるのでしょうが、それはまた非常に侵入的でダメージを与えることになるでしょう。この両方のバランスをいかに取るかということが、臨床家に課せられたテーマなのです。そしてこれについては、患者からの助けがあってはじめて答えが見出せる類のものなのです。
さてオレンジ先生が広島について語られたことは非常に喜ばしいことです。少なくとも先生はトラウマから眼を背けるということについて私たちと共謀することはなさらなかったわけですから。私は先生が広島において振るった暴力について口になさったというだけで、どこかですくわれた気がしました。そして私の頭の中に次に浮かぶのが「真珠湾」という言葉だったのです。私もまた真珠湾攻撃において私たちが行った暴力についてここで言及するべきでしょうか?歴史的には私たち二つの国は、互いにその暴力にいたった様々なexcuse をお互いに示していました。つまり私たちがやったことは正当防衛であった、という類の議論です。そしておそらくこの種の論争は永久に終わりがないのです。それはいかなる人間同士の関係において、因果的な関係、つまり最初にどちらが先に始めたか、と言う議論には決着がつかないからです。どこにも純粋な攻撃や、純粋な防御はなく、ただあるのはお互いに油を注ぎ合う関係性があるのみです。一方的な非難や謝罪ではなく、ただ自分たちが行った暴力について言及することで、お互いがそれを語り合う関係が生まれるのです。私はこの問題がトラウマの問題にも関係していると思います。多くのトラウマ状況で、私たちは純粋な加害者も、純粋な被害者も見つけられないでいるわけですから。
最後に先生が昨日の私たちのグループの教育研修セミナー(S5.「米国精神分析の体験を語る」)の中で何度か言及された「contingency 偶発性」という概念に少しだけ触れたいと思います。先生がトラウマについて語る際に、やはりここに偶発性についての考えが織り込まれているのではないかと想像します。加害者と被害者の関係は、いつ、偶発的なことで変化するかもしれない。昨日被害者としての体験を持った私たちが、今日は加害行為を行うかもしれない。その意味でこの偶発性は、先生が広島について言及されたことで俎上に上ったテーマと深く結びついていると感じました。
最後にこのような貴重な講演をいただいた先生に深く感謝申し上げます。