2018年10月11日木曜日

パーソナリティ障害はまだ・・・ 11


この本も5分の3ほど読んだことになる。今日読んだ章では、ダットン先生がサイコパスについての大家ロバート・ヘアと交わした会話について書いてある。議論は現代人はよりサイコパスになってきたのか、という話題だった。(その前にダットンさんは、ヘア先生に、彼自身が自分のサイコパシースケール(PCL-R)でどのくらいのスコアかを聞いている。彼は「イヤー、ほとんど12点だよ」(つまりほとんどサイコパス傾向がないということ)と言ったそうだが、安心すると同時に、彼がうそをいっている可能性についても考えた。するとヘア先生自身が相当のワルということになる。)社会心理学者の議論を待つまでもなく、20世紀の人間はそれ以前の人間に比べてはるかに人を殺さなくなっている。日本でも世界でも凶悪犯罪は減少傾向にあるのだ。それはそうだろう。この間読んだ「輪違屋糸里」(浅田次郎)に、新撰組の芹沢鴨が路上で自分の気に入っていた芸者に挑発されて怒り、袈裟懸けに斬ったシーンが出てくる。ほんの百十年前の日本では、人が人を殺すことは非日常的ではなかったのだろう。今なら車が一時停止の義務をちょっと怠っても切符を切られてしまう。(うまいたとえが見つからない。) 確かにこの社会は、以前なら当たり前に行われたことが問題になる。どこかに書いたが、昔勤めていた病院の畳部屋では、就寝前に患者さんたちがみな寝タバコをして、部屋は煙でモウモウとしていた。畳には焼け焦げがあちこちにあった。今なら病棟での禁煙がありえないことだろう。未成年の学生がビールを飲んでいるところに居合わせた教官は虐待者ということになる。(どうもこういう例を挙げると、私が肯定しているように思われる傾向があるかもしれない。もちろん病棟での寝タバコ、未成年の飲酒、喫煙など、絶対にいけないことである。ここでは声を大にして言っておきたい。)悪いことはどんどん出来なくなっていく。でも・・・・悪事は巧妙化しているともいえる。他方ではダットンさんはミシガン州のKonrath 先生の、過去30年の間に学生たちの教官のスコアがコンスタントに下がっているという研究を紹介している。他方では自己愛傾向は徐々に上昇しているという。これらの研究が何を意味するのか。ダットンさんのまとめに私も賛成する。サイコパスはどんどん「正常化」し、犯罪を犯さなくなってきている。でもそれは人間が住みやすい社会が実現していることを必ずしも意味しない。
 今日の最後に私の感想を述べる。最近愛用のアイパッドについての疑問がわき、ショップに立ち寄った。そしてそこでいくつかの疑問に答えてもらったのだが、こんなにしてもらっていいのか、と思うほどのサービスを受けた気がした。私の疑問は「アイパッドにたまってきている情報をどのように外に取り出すか?」という疑問だ。(実はこの当たり前の問題が簡単に解決できないのがアイパッドである。)相手の女性はいろいろ調べてくれた上に、「私はまだ十分に疑問にお答えした気がしません。メールアドレスを差し上げますから、もっと疑問が生じたらそこにご連絡ください。」
何かこちらが頭が下がる思いだった。私は彼女の親切な対応の一部は、それがすべて録音されており、上司に聞かれるかもしれないということを前提としていると思う。しかしそれだけではないような気もした。日本では店での客の対応、電話でのカスタマーへの応対は確実に上がってきているような気がする。決して悪い社会には向かっていないように思うのだが、これは日本社会だけの傾向なのか。私が最後に体験した米国社会は2014年なので、向こうの動向はわからないが。