イップス病に悩まされている人は非常に多く、そのための治療手段もあるが、玉石混交といった感じである。インターネットで調べても、「強靭なメンタルを身につける」、とか「深層心理を探る」などのうたい文句で有料の治療法に誘い込む宣伝が見られる。それらの治療法を仔細に検討したわけではないので断言はできないが、イップス病の治療は思ったほど簡単ではないことは確かである。それこそ「気のせい」「緊張のし過ぎ」というレベルではない。繰り返すが百戦錬磨のプロがこの病気に陥るのだ。田辺氏によれば、それもむしろプロの経験の長い人ほどイップスに陥る傾向にあるという。彼らに対して今さらどうやって「強靭な精神力を身につけよ!」などという忠告ができようか?脳科学的な心得のない治療者のアドバイスは空疎なだけである。
古くはフロイト自身が書痙に苦しみ、また指揮者ブルーノ・ウォルターの局所的ジストニアの短期療法を行なったことが知られている。しかし単なる心理療法や転地療養には限界があったようだ。最近ではより行動療法的なアプローチが主流といえる。
すでに紹介した田辺氏の本にはイップス病についての様々な治療手段が、紹介されている。彼が精神科医であり、かつ自らがイップス病に苦しみ、そして何でも具体的に実践するタイプの人間であるからこそ、この書に掲げられたアドバイスはそれだけ実践的で具体的である。それは打ち方を変える方法、道具を変える方法、催眠療法、自律訓練法、座禅など様々である。しかし一貫しているのは、これまでのやり方を何らかの形で変更する、という手法である。これまでに成立してしまったプログラムA→B→C(→E)→Dを変えることが大事なのだ。そのためにはA→B→C→D という練習を「強靭なメンタル」で繰り返すわけには行かない。それはすでにA→B→C(→E)→Dに変質してしまった脳内プログラムをいたずらに強化することにつながるからだ。
田辺氏の紹介しているいくつかの手法を、このA,B,C・・・という記号を用いて私なりに分類してみよう。たとえばA→B→C→F→Dという流れを新たに導入するという方法。Fという要素を入れることでEという要素を排除することができるかもしれないからだ。片目をつぶる、体重移動をする、などの新たな要素を一連の行動に組み込むというのはその類であろう。
あるいは、Aをはずして、B→C→Dにしてしまうという方法。これは彼が紹介する「ポイントアンドショット方式」が相当する。これはアメリカの警察学校の射撃の練習に使われるもので、要するに狙いを定めたらすぐ打ってしまう方法である。ゴルフのパターでも、打つ前にやたらともじもじと時間を使うのをやめて、狙いを定めたらぱっと打ってしまう方法だ。これは思い切ってAをはずすことで、流れが変わり、(→E)が入り込む余地をなくすという方法である。
さらにはまったく異なるA’→B’→C’→D’というパターンを作るために長尺パターを使う、などの方法も取られるだろう。
私が特に興味を持ったのは、田辺氏が考え出した、「イップス対策スタンス」である。これはパターを打つときに、左足のかかとで右足の土踏まずの辺りを痛いくらいにギュッと押す方法であるという。すると不思議なことに、手が楽に動くという。書痙でも、左手でわき腹をつねりながら字を書くとよいという場合があるが、これなどもそうであろう。
ところで音楽家の間でもゴルフのイップス病に相当する局所的ジストニアに悩んでいる人は多い。左手のピアニストとして広く知られる智内威雄氏が、右手の局所的ジストニアのために、片手での演奏に専念しているという話をご存知の方も多いだろう。それだけに治療法も様々に考案されているようだ。たとえばファリアス博士(Joaquín Farias, Ph.D.)という人の治療法は高く評価されている。http://www.focaldystonia.net/farias.html彼自身のサイトには日本語で次のように書かれている。
「ファリアス博士の方法は深部感覚のトレーニングに基づいています。動き自体の深部感覚を発達させることで痙縮は軽減し、望まない緊張や震え、痙攣は抑制され、調整の改善が可能になります。
このトレーニングは進歩的かつ柔軟な方法で動きを解放し、精神運動(サイコモトリシティ)の新しい統合を可能にします。このシステムは試験的ではありますが、すでに局所性ジストニアに苦しむ音楽家や運動選手の他、頸部ジストニア、局所性ジストニア、全身性ジストニア、書痙の患者にも適用され、回復に高い効果が得られることがわかっています。中には完全に回復した例も見られます。」
やはり一種の行動療法的なテクニックが開発されつつあるということであろう。そしてそのアプローチは精神論ではなく、より脳科学的なそれとして位置づけることができるのである。