2025年5月12日月曜日

週一回 その2

  2014年の会長講演の中で、藤山氏の「平行移動仮説」(藤山、2015)という用語が示された。藤山は週4回以上の精神分析の実践により意味を持つ「関係性の扱い」、すなわち変容惹起的な転移解釈(Strachey)などが、そのまま(平行移動的に)週一回の分析的治療で扱うことが出来るという考え方で、基本的には藤山説はこれを否定するという形をとっている。

 藤山氏はいう。「よく誤解されるのだが・・・・週一回の価値を軽く考えているわけではない」(2024,p.60)しかし論旨としてはやはり平行移動仮説への批判を展開することになる。その意味で「平行移動仮説」は棄却されるというのが藤山の趣旨だ。

 藤山氏の論文を読むと結局は週一回の分析的な治療はできれば避けるべきだという主張であることがわかる。それは経験を積んだ精神分析家がより注意深く扱うことによってはじめて外傷的とならずに治療的となりうるからという趣旨からであるが、藤山氏は週一回の独自性や存在意義については特に言及はない。

藤山直樹氏の主張にさらに立ち戻るならば、彼はこの「週一回」の議論に関連してこれまで2012年、2015年、2016年、2019年の4本の論考を発表している。

藤山直樹(2012)精神分析的実践における頻度一「生活療法としての精神分析」の視点.精神分析研究,56(1);15-23.
藤山直樹・妙木浩之(2012)セッションの頻度から見た日本の精神分析.精神分析研究,56(1);7.
藤山直樹(2015)週1回の精神分析的セラピー再考.精神分析研究,59(3);261-268.
藤山直樹(2016)精神分析らしさをめぐって.精神分析研究,60(3)i301-307.

藤山直樹(2019)関係性以前の接触のインパクト:週1回セラピーにおける重要性.精神分析的心理療法フォーラム,7;4-9

これらの論文の中で一つ興味深いのは、藤山氏は「精神分析的実践における頻度」(2012)において、週2回は、週一回より週4回の精神分析に近い、と述べていることだ。「ある意味で週2回は、週一回より精神分析の方に近いように感じられる。単に量的な面で言えば、圧倒的に週一回に近いと感じられるだろうが、私の実感ではそうではない。」(p.20)。つまり初期には藤山氏は週4回 VS 週1回という対立軸よりは、週二回以上 VS 週一回という対立軸を考えていたということになる。
さて藤山氏は週4回以上の精神分析のプロセスを、患者にとってある種の特別な体験であり「人生の一時期、覚醒時と睡眠時を丸ごと巻き込む」「ある意味『生活療法』なのである」(2012, p.18)とする。そして「[分析家が]6日間の社会生活を送る患者を見る視線は、ひとりの大人を見る視線であり、それは明日会う患者を見る時の子どもを見る視線とは違う。」述べる(2012,p.20)。そして「乳児的部分が十分に抱えられている設定においては、患者の心の中の関係性と今ここでの患者と分析家の間の関係性はスムーズに交流しやすい。同じ関係性が連想内容と「今ここで」と同型の反復を持つ。それは相当に病理が重い患者でも部分的には起きる」(2024、p64)とする。


 私は基本的にこの藤山氏の記述に好印象を持つ一方では、実際に週4回でも週1回でも、それほど「供給と剥奪のリズム」を感じることがあるのかという疑問も抱く。たとえば週4回会っている精神分析の場合、「ああ、明日も明後日も、その次も4日間連続して治療者と会える。なんと満ち足りた気分だろう」とはなかなかならないかもしれないのだ。

もちろんそのように感じるということはまだ治療者と患者の間の十分な(陽性の)転移関係が成立していないから、と言えなくもないだろう。

 藤山氏の「供給と剥奪のリズム」という考え方は、乳幼児の心をモデルにしているという点であるが、乳幼児と違って私たちは相手のイメージを心に留めておける。目の前の対象が消える事は、そのまま剥奪とは感じられない。それは例えばボーダーライン心性にある人や、それこそ熱烈な恋愛関係にある人の場合に起こりうるが、ふつうは目のまえから誰かが消える事で身を引き裂かれるような思いをすることはない。内的対象に移行してくれるのだ。勿論目の前の誰かがこれから二度と会えないという状態で去っていくという場合なら別だが、ふつうは心の中の対象像にスムーズに心を移行させることが出来るのだ。


 藤山氏はさらに「精神分析らしさ」のある臨床素材を語り合う場合には、「精神分析もしくは精神分析的セラピーを中心とした訓練を十分に受けた経験のあるセラピスト」による治療であることが必要であると主張する(2016,p.29)。

 藤山氏の主張で特に注目するべきなのは、「週一回」の治療はむしろ「難しい」という一見パラドキシカルな主張である。基本的には「週一回」の場合の間の6日は「何の環境的供給もない」「分離という外傷的できごと、寄る辺なさ(helplessness)」(2024,p.65)に患者をさらすことであるという。そして精神分析的な治療の根幹となる転移の問題を扱うことが非常に難しくなるという。「転移、特に乳幼児的な水準の関係性を帯びた物語は圧倒的な分離に吹き飛ばされ、ごく離散的に体験されるにすぎなくなる。この状況の中で『転移解釈』という関係性を帯びた物語を紡ぎだしそれを語るという行為はかなり実現困難だろうし、それに治療的重要性を与えることも現実的ではないのではないだろうか。」(同p.66)とする。

 この藤山氏の議論については山崎氏の「週一回の精神分析的心理療法における転移の醸成-変容性解釈の第一段階再考」(2024)という論文でさらに考察が加えられている。山崎氏は Strackey の理論が Melzer(1967)や Caper(1995)飛谷氏(2010)などにより継承されてきた経緯について説明している。彼らの議論によれば転移の自然な集結には治療者の側が週4回という精神分析の設定を主宰することが前提となり、週一回ではその議論は成り立たないとする。たしかにMeltzerは精神分析によるコンテイニングにおける安堵と週末に生じる分離の衝撃の二つのプロセスのリズムについて論じているとされ、藤山の論述に近いことがわかる。これらの論者が週一回に特に触れていず、その場合はこのリズムが成立しないと言ってはいないが、藤山理論を支持する傍証と言えよう。