2026年5月1日金曜日

AIと精神分析 11

 この路線で考えると、実は人間が共感を相手に発揮しにくい理由はいくらでもあることを改めて考えさせられる。要するに人間が「時間ー内ー存在」であり、「身体ー内ー存在」であることが、そして人間が自己愛の生き物であることが決定的なのである。そして共感性を発揮できないということは、人間が共感能力を持たないからということでは決していない。共感能力を持っているからこそ通常の意味で共感的になれないということさえ起きうるのだ。

 このことは簡単な思考実験から明らかである。もし私が目のまえの人Aさんの苦しみを理解しているとしよう。それは私の共感能力の賜物と言えるだろう(取り立てて私の共感能力が高いとは思ってはいないが。)ところが実は私はAさんのことを少し恨んでいるとする。そこには様々な事情が絡んでいるが、結果として私はAさんが喜びを感じることを快く思わない。すると私がAさんにある共感的な言葉を投げかけた場合に、Aさんがそれにより幾分心地よさを味わうことが十分予想されるのであれば、私はその言葉をあえてかけないということは十分あり得るのだ。さらに別の言葉をかけることでAさんが余計追い打ちをかけられた気分になるとしたら、その言葉を逆にかけてしまうかもしれない。  この簡単な思考実験(というほど大げさなものではないか)をもってしても、人間は受肉しているという理由で、その共感の力で逆に相手を苦しめる要素をいくらでも孕んでいることになるのだ。

 「シャーデンフロイデ」という言葉がある。ドイツ語の Schadenfreude に由来するが、他者の不幸や失敗を見聞きした際に生じる、喜びや安堵の感情を表す言葉である。日本語でもよく「人の不幸は蜜の味」という。また最近では「他人の不幸で今日も飯がうまい」の略で、「メシウマ」というネットスラングがあるそうだ。これも似たような意味だ。

 なぜ他人の不幸が時には私たちにとっての喜びの元となるのかは難しい問題であり、私はそれについて詳述するつもりはない。ただ言えるのは、人間は身体や感情を持った(「受肉した」)存在であり、逆転移や羨望、自己愛、シャーデンフロイデから逃れることが非常に難しいからではないか?ということだ。ここで自己愛の問題が深い意味を持つ。人は常に自己効力感を味わい、また他者から認められることを欲している。そうでないと人がなぜあれほどSNSでの発信に夢中になり、「いいね」ボタンを渇望するかが説明できないではないか。そしてこのことは他者との対話をするという一つをとっても常に影響を及ぼしてくる。相手が高飛車だったり、上から目線ではないか?お高くとまっていないか、生意気ではないか、などの非常に表面的だが極めて本質的な印象が、その他者との会話の仕方を大きく左右するのである。

 結局相手の話を率直に聞き、その肯定できる部分は肯定したうえで異論を唱えるというあたりまえのことを私たちはどの程度できているであろうか、と問いたくなる。政治家同士の討論を聞いていると、特に野党の人たちの質問を聞いてむなしくなるのは、相手の発言の肯定的な聞き方が一切なく、常に揚げ足取りに忙しいということである。あるいは臨床に携わる私たちが、ケース発表のコメントをしたりする場合にも、発表者の治療的な関りのポジティブな面は一切述べずに、ダメ出しをすることが多い。このことをそれこそ「他意のない」AIとのかかわりで改めて知ることが出来るのである。

 つまりもっとも誠実に話を聞いてくれるのは、感情を伴わない共感を行うAIではないかということではないか?ああ、こんなことを言ったらまた多くの人が「とんでもない!」と思うだろうなあ。