この甘えの受け身性に関してはかつて議論の焦点となったことがある。甘えに関しては当時ニューヨーク在住の精神科医竹友安彦との間での議論がよく知られるが(竹友, 1988, 土居,1988)、そこでの中心となったテーマにこの受け身性の問題があった。この詳しい内容については割愛して要点のみを述べるならば、竹友が土居の甘えについての批判的な論文で「甘えは受け身に愛されたい動機である」と書いたことについて、土居は「確かに自分はそうは定義したが、甘えは決して受動的ばかりではない」という趣旨の反論したのである(土居,1988)。土居は竹友の匂わせた「単なる受け身性」というニュアンスに反発したのであろう。そして次のように言うのだ。 「『甘える』には『愛される』という受動態が入っているのは事実としても、この言葉が自動詞であること事体、そこにある種の積極性、主体性が含まれる」(p53)そして続ける「ただ愛されているだけでなく、愛されることを子どもが楽しんでいることを示唆している」。 ここで土居が単なる受け身性を越えた能動性を苦心しながら表現しようとしている気持ちはよくわかる。確かに「甘える」はそれ自身は積極的な態度を含んでいるようである。それが私が「能動的な受動性」として言い表すことを試みた性質である。 ちなみに「甘える」の悩ましさは、欧州の言語にこれを能動体として表現するような言葉が見当たらないということである。ただし私はその受け身体、つまり「甘えさせる」には英語表現が存在すると思う。それが indulge と言う言葉で、文字通り甘やかす、スポイルするというニュアンスを持つ言葉である。(英和辞典で引くと indulge の和訳の筆頭近くに「甘やかす」が出てくるはずだ。)(甘やかす、気ままにさせる、ほしいままにする、欲望を満足させる、(…に)ふける、おぼれる Weblio 英和・和英辞典より)。いみじくも土居は1989年の国際誌への論文で、上述の甘えの定義である「相手の愛をあてにして、それによりかかること」の英語表現である to depend and presume upon another’s love に加えて to depend and presume upon another’s love or bask in another's indulgence.すなわちbask in another’s indulgence と言う文章を付け加えているのだ。これを日本語にするならば、「他者の甘やかしに浴する」ということになる。(もちろんこれはトートロジカルで正式な定義にはならないであろうが。)