4.何がバウンダリーに力を及ぼすのか
上の例は何を示しているのか? それは名目上のバウンダリーが引かれていることで、それをめぐる患者と治療者の間のやり取り、ダイナミズムが生じるということだ。そこには彼らはバウンダリーを厳密に守り切れないという現実がある。もちろん毎回開始時間の2時に一秒の狂いもなくドアがノックされ、治療者が間発入れずにドアを開けるということが繰り返されれば、そこには何も生じようがない。それはテレビ放送で、2時までの番組と2時以降の番組のディレクターどうしでもめ事を起こしようがないのと同じだ。しかしそこに生身の人間が関与している以上、両者の綱引きが生じ、実際の開始時間は名目上のバウンダリーの近傍で揺らぎつつ、その時々で一種の妥協の産物として「柔軟に」決定される。それが治療設定の柔構造的な在り方なのだ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はそのバウンダリーの実態はもっとしっかりとした、太くしなやかなものとなって行くのだ。そのバウンダリーのマネージメントを通して、治療者は患者に対して自らを示す。心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、いざとなったら自己防衛のできる人間としてそこに存在し続けるのだ。
このように描かれた治療者の態度を私は柔構造的、と言い表しているが、もしそうでなく、到着時刻への遅れを治療抵抗として扱うという治療構造の一般的な考え方はどのように言い表せるだろうか? それを私は柔構造との対比で剛構造的(すでに示した、固くぶれのない性質の)と表現する。剛構造的な考えを持つ治療者は患者の少しの遅れを「今日は3分遅れましたね」と指摘するだろう。その質問自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じ、治療者を血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。
ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。それに触発されて私は渡米して精神分析のトレーニングを受けることを思い立ったのだった。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。
「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃない。それは多くの場合そのどちらとも決められないからだ。」
つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはならなかった。ただしその種の出来事を柔構造的に扱うことが出来るようになるのである。
ところで名目上は剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的な運用のされ方をするかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。
しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。
ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。
ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、後者を「儀式」としたのだ。
私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音に触発されて寝床を飛び出そうという力と、目覚ましを無視してもうひと眠りしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。
しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。先に「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。
ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。