「能動的な受動性」を持つ甘えの相互性
ここで甘えの相互性の議論に入っていきたい。「能動的で受動的」な甘えの性質からそれはある程度必然的な性質であると言える。
先ず単純に「甘える ⇔ 甘えさせる」という関係を考えよう。言うまでもなく人はひとりで「甘える」わけにはいかない。目のまえにはそれを可能にしている人がいるのであり、その人が「甘えさせ」ていることになる。
もちろんそれは、例えば「甘える」と類似の動詞である「頼る」「依存する」でも同様であろう。しかしその受身形は「頼られる」「依存される」であろう。「甘える」の場合もその受身形は「甘えられる」である可能性もあるが、それよりも「甘えさせる」の方が自然な形のように思われる。そこには「甘えられる」という表現の不自然さが関係しているようである。つまり「こちらはその気もないのに相手が(勘違いして?)勝手に甘えてきて戸惑っている」と言うニュアンスが感じられるからではないだろうか。
それに比べて「甘えさせる」の自然さは、そこに「甘えさせる」側の快適さや願望が込められているようである。つまり相手も甘えてもらってうれしいというニュアンスがある。その意味では「甘える⇔甘えさせる」には「甘えてあげる ⇔ 甘えてもらう」という隠された関係性が成立しているように思われる。
今一歩うがった見方をするならば、「甘えさせる」のは甘えの一種の代理体験であるという考え方が成立しているといえるだろう。つまり相手が自分に甘えてきている時、「甘えさせる」側としては、自分が小さい頃母親に甘えていた時の体験を想起し、いわば甘えてくる側に同一化して心地よい体験を持っている可能性があるのだ。
このような甘えの代理体験は決して複雑な心性ではなく、小さい子にもすでにみられる。たとえば女の子がお人形遊びをして、赤ちゃんの人形に哺乳瓶を咥えさせ、おむつを替えるといった遊びはまさに自分がその赤ん坊に同一化し、その身代わり体験をして満足するという現象と考えられるのだ。
そしてそのような相手の感情を汲み取る「甘える」側は、いわば「甘えてあげる」体験をしていることになるのだ。すなわち「甘える」体験は「甘えてあげる」と言う能動性を内在化していることになる。これが「能動的な受動性 active passivity 」の真の意味と言えるだろう。
「甘える⇔甘えさせる」が同時に「甘えてあげる ⇔ 甘えてもらう」であるということは、その甘えが真の意味で相互的であり、両者がウィンウィンの関係にあるということである。そこでは甘える側も甘えさせる側も、自分と相手の間で起きている事を良く感じ取っている。そして「甘えられる」という関係に見られるような、相手の接近に屈するような、無理に甘えさせてあげているといったニュアンスはない。そしてそれは後に述べるように、土居の言う「素直な甘え」に通じるということが出来るであろう。