2026年3月4日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 4

  それにしてもこのバウンダリーの話、もう3週間ほど書いているのに、話は広がるばかりで一向に収束していく気配がない。まず一通り書いて、それから推敲していく、という波にすら乗れないのである。結構難物を抱え込んでしまったらしい。

 とにかくここで一生懸命に言おうとしているのは、精神分析では一方で境目を重視し、それを守ることを推奨しながらも、他方ではそれを破る、乗り越えることを目指すという矛盾した営みであるということだ。そしてそれが精神分析を複雑でかつ多産的な試みにしているのである。  そのような精神分析的な関りに関して、私が一つ提案した概念があった。それが「治療的柔構造」という概念である。実はこの概念は大野裕先生の発表した論文が最初である。さらには単なる「柔構造」という概念については建築関係で、特に耐震構造の文脈で議論されている。つまり概念としては私のオリジナルではないことはお断りしておきたい。  私のこの概念についての著作は2008年のものであるから、もう18年も前の話である。(「治療的柔構造 心理療法の諸理論と実践との架け橋」岡野憲一郎 岩崎学術出版社 2008)

 そしてこれは精神分析に出てくる境界という悩ましい概念をどのように理解すべきかを考えていくうちに出てきた概念だ。  この「治療的柔構造」では私はこんな議論をした。「精神分析ではとにかく『治療構造を厳守せよ』と叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボではないか?」。  こう書いてみると非常に乱暴だし誤解を生みやすい。よくこんなことを書いたものだ。でもその時頭にあったのは以下のような内容だ。  境界は実は何かに刻印されて動かないのではない。それは出来上がってしまった後にはそのように見えるが、実際の生(なま)の境界はその時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを遵守することを治療者が求めても、例えば「セッションは一回50分ということになっていますから」と言って一秒も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているというニュアンスがあることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性のためであり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。