ところで境界についてこれまで書いてきたこととしては二つある。一つはいわゆる「治療的柔構造」の議論、もう一つは臨界状況の多産性、という事だ。結局自分が書いてきたことを頼りに書き進めるのが無難だろう。
柔構造については、こんな議論をした。「治療構造を厳守せよ、という事が叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボだ」。こう書いてみると非常に乱暴、というか「何言ってんの?」と自分自身に突っ込みを入れたくなる。よくこんなことを書いたものだ。でもこんなことを書きたかったのだ。
境界は実は何かに刻印されて動かないのではなく、その時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを治療者の側が「一回50分ですから」と言って一分も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているだけであることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性であり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。
こう考えてみよう。コンビニで菓子パンを200円で売っている。客はレジのところで190円にと値引き交渉をするだろうか?客から見れば、「ちょっと高いんじゃない?」とか「値上げ前は190円だったじゃない」と言いたくても、そんなことをレジでいちいちやっていたら回らない。それこそそのたびに店長に聞きに行く、などのことをしていたらレジでお客さんの列が出来てしまう。だからコンビニで値引き交渉をするなんておかしな人だと思われてしまうと思うだろう。ところがお肉の量り売りをするときはちょっと心持多めにしてあげるなどのことは普通に行われるだろう。もともと物の売り買いは売り手と買い手が交渉して値段を決めていたのだ。せり売りやオークションなどを見れば、それが原型だと分かるだろう。定価での売り買いは、どちらか、あるいは両者の利便性のためにそれが選択されただけである。
その意味で私は構造は「柔構造的」であると言ったが、それが原型であることを言ったまでで、構造は自由に破られてもいい、と言っているのではなく、原型としての柔構造の理念(すなわち原則的に両者の合意で境界が決まるもの)を忘れない方がいいであろうと主張したのだ。
そして治療構造はまさにそのような性質のものである。柔構造的な部分はいくらでもあると言っていい。患者は治療費を翌月の第一月曜日に振り込むという契約だったとしよう。患者はその日に忘れて火曜日に振り込む場合は、すでに構造は壊されている。それを許容するかどうかは、結局治療者と患者の話し合い(がもし必要であれば)で決まるだろう。あるいはセッションがきっちり50分で終わるのではなく、10秒ないし20秒超過しても許容範囲としている場合には、すでにそれが柔構造であることを示している。
私がこの柔構造について論じるのは、精神分析的な構造などで、患者がそれを少しでも破ると鬼の首を取ったようになる治療者が散見されたからである。構造を破ろうとすること=治療抵抗という見方である。これでは患者の方から構造を変えるイニシャチブを起こすことが出来なくなってしまうからだ。